晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

三上寛と友川かずき

三上寛友川かずき、と言っても知ってる人はいないかもしれない。

昨年、アナログ・レコードを処分する際に数えたら、

三上寛 12枚 、友川かずき 4枚 だった。

もちろん、LPアルバムである。

二人とも、1950年生まれのフォークシンガーである。

三上寛青森県出身、友川かずき秋田県出身。

横浜で学生生活をしていたころに聴き始めた。レコード店に必ずあるようなレコードではなかったので、だいたい取り寄せしていた。

 

三上寛を先に知った。自分の大学の学園祭に三上寛が来るというのでうれしかった。客席は、けっこう埋まっていた。

ギターを持った三上寛とドラムの古澤良治郎の二人だけがステージにいた。

二人の掛け合いの迫力はすごかった。

生の三上寛を見たのはその時が唯一である。

 

 

友川かずきは、シングルの「生きてるって言ってみろ」を買ったのが、最初だと思う。

宇崎竜童に見出されたということで、編曲宇崎竜童、演奏ダウンタウンブギウギバンドだった。

4枚目のアルバムが、「俺の裡で鳴りやまない詩 〜中原中也作品集〜」というものだった。私がずっと読んできた中原中也の詩が友川かずきの歌になっていた。

 

三上寛友川かずきも、個性的すぎて売れるようなシンガーではなかった。

歌詞も詩的というかむずかしい。歌い方も、かなりクセがある。一般受けする要素は少ない。

でも、二人とも映画やテレビにかなり出演している。監督が使いたくなる個性があるのだろう。

三上寛の出演数は、ものすごい。今年も、映画に出ている。

そのわりに、あんまり見た記憶がない。

三上寛は、文才もあり著作が十冊を越える。

 

友川かずきも、映画は少ないがテレビドラマに出ている。

大島渚監督に「戦場のメリークリスマス」の出演をオファーされたが秋田なまりを治せないので断わったというエピソードがある。坂本龍一がやった役である。友川かずきのヨイノ大尉を見たかった。

彼は日本人ばなれした端正な顔立ちなのだが、話すと秋田の人になる。

詩集、エッセイを多く発表している。また、画才があり立松和平と絵本を共作した。

 

私にとって、二人の歌は楽しむ音楽ではなかった。

生きることそのもののように感じていた。二十代のあのころだから聴けた。

他の人たちの歌とは違っていた。

なつかしいから聴くということができない。苦しくて聴けない。

手元にレコードを残しても聴かない、聴けないことはわかっていた。

だから、手離すことにした。

 

「夢は夜ひらく」 より

作詞 三上寛

七に二をたしゃ九になるが
九になりゃまだまだいい方で
四に四をたしても苦になって
夢は夜ひらく

サルトル マルクス並べても
あしたの天気はわからねえ
ヤクザ映画の看板に
夢は夜ひらく

風呂屋に続く暗い道
40円の栄光は
明日のジョーにもなれないで
夢は夜ひらく

 

「生きてるって言ってみろ」 より

 作詞 友川かずき

ビッショリ汚れた手拭いを
腰にゆわえてトボトボと
死人でもあるまいに
自分の家の前で立ち止まり
覚悟を決めてドアを押す
地獄でもあるまいに
生きてるって言ってみろ
生きてるって言ってみろ
生きてるって言ってみろ

 

 

 

 

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道の駅へ行く

新鮮な野菜を買いたいときは、道の駅へ行く。

当日収穫した地元の野菜を買うことができる。

農家の方が直接納入しているので、価格も近隣のスーパーなどより安い。 

旬の野菜が豊富で、選んで買える。

我が家が行くのは、「道の駅しょうなん」で、手賀沼にかかる手賀大橋のたもとにある。

車で30分くらいかかるので、そんなに手軽には行けない。野菜を買うぞ、という時に行く。

しかし、野菜直売所はかなりせまい。通路も狭いのであまりゆっくり買い物ができない。昔ながらの道の駅である。

 

「道の駅しょうなん」 は、2001年にオープンした。当時東葛飾郡沼南町だったので、名称はそれからきているが、2005年に柏市と合併している。

当初、利用客を60万人を見込んでいたのが、現在100万人以上になっているらしい。

駐車場はいつも混み合っている。110台は、少ないのだろう。

道の駅としては、普通の施設だと思う。駐車場、トイレ、レストラン、農産物直売所、レンタサイクル、公衆無線LAN、となっている。

主要道路である県道8号船橋我孫子線沿いにある。

県道をはさんで、「満天の湯」というスーパー銭湯がある。

手賀沼の対岸には、我孫子市の「鳥の博物館」がある。

道の駅のわきを9.8km続く「手賀沼ふれあい緑道」がとおっている。

ふれあい緑道は、ウォーキング、ランニング、サイクリングを信号などに邪魔されることなく楽しむことができる。

これらのことを考えると、まだまだ集客できる可能性はあると思う。

すでに、隣接する土地で「道の駅しょうなん再整備計画」の工事が始まっている。既存施設は残す方針らしいので、今よりも大きな建物を増設することになるらしい。完成は、2024年らしいのだが、利用者数160万人を見込んでいるとのことだ。

 

道の駅を、はじめて利用したとき、とても感動したような気がする。駐車場とトイレが無料で利用できる、というのは画期的だった。

それまでは、車で出かけたらトイレがたいへんだった。ドライブインによって、無理して何か買ったりして利用してた。

最初の道の駅は、1993年に登場したらしい。私が、小さい子どもたちを連れて旅行してた頃だ。まだ、それぐらいしか経ってないんだ、という感じだ。

高速道路のSAとPAのようなものを、一般道にも、という発想だったらしい。

道の駅の機能として、休憩機能、情報発信機能、地域の連携機能をあげられている。

農産物直売場は、この3番目の機能を拡張したものだろうか。

妻は、道の駅が大好きである。農産物直売場が目的になっている。旅行へ行っても必ず地元の道の駅に行く。我が家は、道の駅が目的で、佐原や多古という遠くまで出かけたりする。

旅をすることを補助する施設だった道の駅が、今はそれ自体が旅の目的になっているのかもしれない。

 

 

 

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表か裏か


表日本と裏日本ということばがあった。

教科書でも、使われていたような気がする。

いつのまにか、使われなくなった。

太平洋側と日本海側になっている。

 

辞書を調べてみると。

おもては、物事の、人の目にふれる部分。また、二面ある物事のうちで、人目につく面。

うらは、物事において、人の目にふれない部分。また、二面ある物事のうちで、人目につかない側面。 (精選版 日本国語大辞典)

「うら」「おもて」ということばに否定的な意味合いはないにしても、表日本と裏日本として日本を二つの地域に分けるには適切ではなかった、ということだろう。

日向と日陰みたいなイメージになっていた。

裏日本の秋田出身の私が、ときどき感じていた違和感はこれからきてたんだ。

「人の目にふれない」地方というのは、あまり気分は良くない。

 

問題は、どうしてこんなことばが使われるようになったかである。

明治維新によって、皇室が京都から東京に移った。

京都にあった正式な首都が、江戸にあった実質的な首都と合体することで、東京が唯一無二の首都になった。明治政府が首都東京から日本列島を見た時に出た発想が、表日本と裏日本だったと思う。そのように、見えたということだ。

しかし、少なくとも江戸幕府ができる以前は、日本海側が表日本だったと思う。京都が、唯一無二の首都だった時代は、日本海の貿易が占める部分が大きかったと思うし、文化や人的な交流も盛んだった。

私の郷里で大きな旅館は「能登屋旅館」だったし、先生や同級生の苗字に「越後」「越前」「加賀谷」などがあった。

日本海側の国々は、海でつながっていたのだ。

ものを見るときには、ミクロ的な視点だけではなく、マクロ的な、自らを俯瞰するような発想が必要だと思う。

 

 

 

 

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散髪してすっきり

ひさびさに、散髪してすっきりした。

もともとが、床屋が苦手でずるずる先延ばしをしている。コロナで、さらにのびのびになっていた。

さすがに、自分でも頭が鬱陶しくて行った。

子どもの頃から、そうだったな。おふくろに、何回も何回も言われてからやっと床屋さんに行ってた。

べつに、嫌いというわけではないが、ついつい足が遠のいている。

今の床屋さんは、この2、3年行っている。年配の男性の理容師さんが二人いる。

最近多くなっている、早くて安い床屋さんである。勤め人だった頃は、普通の床屋さんに行っていた。店によっては、マッサージしたり、耳かきしてくれたり至れり尽くせりである。私は、こいう店で話すのは苦手である。向こうも心得ていて、そいう客だとわかるとあまり話しかけてこない。

カットハウスというのかな、そういう店が我が家の近くにも増えてきて、私もそういう所でいいなと思い、何店か行ってみた。

でも、何か落ち着かない。

店が、せまっ苦しい感じだったり、

従業員が元気なのはいいが、騒々しかったり。

それで、結局今の店になった。静かで、落ち着ける。

 

床屋さんのことを考えていて、思い出した。

父の兄さんが理容師さんだった。

父は、農家の7人の兄弟姉妹の末っ子だった。

姉3人、兄3人だったが、すぐ上の兄さんが街の中心部で理容館をやっていた。

その頃、農家の次男以下はよその農家に婿入りするのが常だった。何故か、伯父さんは理容師になって、理容館に婿入りした。

その上の兄は、隣り村の農家に婿入りし、父は、同じ村に農地を分けてもらい家を建ててもらって分家になっていた。

伯父さんの理容館の隣は、おもちゃ屋だった。父と一緒に寄ると、いつもおもちゃをおみやげに買ってくれた。伯父さんは、上品で穏やかな人だった。

それが、子どもの頃の床屋さんの思い出だ。

 

 

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ビンボー旅行に出発

旅行なんてしたことのない私が、2ヶ月弱の夏休みアルバイトを終えて旅行に出発した。50年前の話です。

JR(当時は国鉄)の周遊券ユースホステルの組み合わせが、私の選択だった。たぶん、それが最も安価な旅の選択肢だった。

周遊券は、有効期間がたっぷりあった。北海道周遊券は、1ヶ月もあった。特急は乗れなかったが、べつの先を急ぐ旅ではないので問題なかった。

ユースホステルは、他に比べて圧倒的に安かった。1200円とか1300円くらいで2食付きで宿泊できた。民宿が次に安かったと思うが、4000円以上はした。もちろん、相部屋、2段ベッドである。夕食後に、交流会があってゲームをやったり、歌を歌ったりしてた。青少年のための教育施設的な性格があったような気がする。

でも、みんな気にしてなかった。泊まれるだけで、充分だったので。もっと安く済ませたい奴は、駅の軒下で寝袋に入って横になっていた。

小田実さんが「何でも見てやろう」を書いて、世界のユースホステルに泊まって世界一周をしていた。「何でも見てやろう」を私は読んでないが、高校生の時、図書室にあった小澤征爾さんの「ボクの音楽武者修行」を読んだ。小澤さんは、スクーターでヨーロッパをまわり、指揮者コンクールに参加し、優勝する。この時代、外国に行くだけで十分にぜいたくである。

ユースホステルは、現在は200施設まで減っているが、私が利用していた1974年がピークで587施設があったそうだ。ユースホステルは、20世紀初めに、青少年少女が安全に旅ができるようにドイツで始まった運動から生まれたらしい。世界60ヵ国に3500施設あって、そのうち三分の二はヨーロッパにあるそうだ。

私は、ユースホステル協会の会員でなかったのでもっぱら誰でも利用できる公営ユースホステルを使っていた。

このあと、バブル期となり家族旅行で子供のころから旅館ホテルは当たり前になる。

旅が特別なことではなくなる。あたりまえなことになる。

「ビンボー」ということばを使ったが、誰もビンボーとは思っていなかった、と思う。旅は特別なことだったので。

今は、利用料金が素泊まりで3500円くらいで、会員でないと600円プラスになる。それで、相部屋である。

ビズネスホテルという選択肢がある。いろいろ条件を考えると、よっぽどユースホステルを使いたい理由がない限りユースホステルにはならないだろう。

この先、ユースホステルが存続できるのかいらない心配をしてしまった。今は、ファミリールームのような個室のあるところもあるらしいので、一度利用してみたいなと思う。

 

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朝のヨーグルト

毎朝、コーヒーを入れて、それからヨーグルトとパンを食べる。

ヨーグルトは、「カスピ海ヨーグルト」として粉末種菌を市販しているものを、ずっと家で作り継いでいる。1リットルほどのガラス容器に、ヨーグルトをスプーン2、3杯入れて牛乳を注いでかき混ぜる。常温で半日ほど放置しておけば、それでヨーグルト完成である。あとは冷蔵庫に入れる。

ほんとは、ある程度したら種菌を新しいものに変えた方がいいらしいが、ずっとそのままで使っている。

容器や温度管理など特別なものは何も必要ないので誰でもできる。

今のヨーグルトは、三、四年前に始めたものだ。最初にやったのは十年以上前だ。旅行かなんかでダメにしてしばらく中断していたのだが、また再開した。

もちろん、プレーンなので何か入れたくなる。ずっとジャムを入れていたが、毎日なので常備するのはかなり面倒だ。試しに、フルーツ系のジュースを入れてみた。いっしょにパンを食べるので、水分が多くなって食べやすい。今は、ジュースを気分でいろいろ変えて楽しんでいる。

 

カスピ海ヨーグルトは、免疫研究をされている家森幸男さんがヨーロッパ東部のコーカサス地方から持ち帰った種がもとになっている。コーカサス地方は、カスピ海黒海に囲まれた長寿地帯として知られていたらしい。

私は、もともとが体が丈夫な方なのでヨーグルトが健康にどの程度効果的なものかはよくわからない。

ヨーグルトに含まれるクレモリス菌は、生きて人間の腸内に届き、腸管内の状態に良い影響を与えているのではと考えられている。また整腸作用、ストレスによる肝機能の低下やアトピー性皮膚炎の抑制、免疫賦活作用、血中コレステロール値の改善、血糖値上昇抑制作用など、様々な健康効果が報告されているらしい。

どこまで信用できるかわからないが、体に悪いことはないだろうとは、思っている。

 

 

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アルバイトの話

私の初めてのアルバイトは、大学一年生の夏休みだと思っていたのだが、よく考えたらそうではなかった。小学生の時にヤクルトおばさんならぬ、ヤクルト少年をやっていた。三十数軒の小さな村の、10軒くらいにヤクルトを配達してた。たぶん、15分か20分くらいで終わったと思う。ヤクルトを扱っていた商店が親戚みたいな付き合いだったので、私が頼まれたのだ。やっていたのは、ほんの1、2年だと思う。でも、少年サンデーが何冊か買える月額はもらってもいた。少年サンデーは、30円とか、40円という時代である。

 

私の学生時代のアルバイトといったら、学生援護会の「日刊アルバイトニュース」である。これが、学生の必需品だった。ケータイもネットもない時代である。日刊というのが、今考えるとすごい。たぶん、何十円かだった。

田舎から出てきた少年が初めてやったアルバイトが、自動車部品の倉庫係だった。注文伝票と台車で広い倉庫から注文の品を探していた。自動車部品なので、ボルト、ナットの小さなものから、マフラーのようなでかいものまである。東京トヨペットの倉庫だったので、東京の営業所宛にコンテナに詰めて発送してた。

今だったら、端末を持たされて ピッキングなんだろうが、何にもない時代なのでのんびりやってた記憶がある。

 

アルバイトは、夏休みと冬休みにやってた。次からは、倉庫の仕事が埋まっていて、隣の敷地にあるトヨタ自動車の工場になった。完成車の点検作業で、流れ作業である。3分に1台の車が流れてくる。3分間にしなければならない作業工程が何十?とある。流れ作業を経験した人はわかると思うが、流れ作業はつらい。ひたすら5分間の休息時間を待つだけだ。作業も、上の仕事と下の仕事がある。

下の仕事は、のコックピットみたいなところに潜り込んで、頭のうえを通り過ぎる車の点検をする。閉所が苦手な人は耐えられない。

上の仕事は、ハンドルのまわり具合、アクセル、ブレーキの踏み込み、エンジンオイル量など、数え切れないほどある。手際良くやらないと3分間で終わらない。

 

最終学年の年は、音響機器の部品のメッキ工場で働いた。

ステレオなどのフロントパネルというのがある。最近はあまり見ないが、シャンパンゴールドのキラキラするパネルがかつては使われていた。そのパネルを加工していた。

工程を簡単に説明すると、次のようになる。

パネルを金属タワシで磨く。

パネルを薬品で洗う。

パネルを薬品に浸し、電流を流してメッキする。

詳しくは、忘れたが硫酸だか塩酸だか危険な薬品を使っていた。

 

定年で退職したあと、少しはアルバイトでもしたほうがいいかな、と考えた。

でも、時間的にフリーというのが、自分の長年の夢だったなあ、と考えるとなかなか思い切れなかった。

そのうちに、何年も経ってしまった。

 

 

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ジャン・シベリウス

クラシック音楽を聴くようになって、最も好きになった作曲家が、シベリウスだった。交響曲第2番がはじめて聴いた曲だと思う。どんなところのひかれたのだろうと考えてみると、やっぱり彼の音楽から感じる空気だと思う。
北国らしい澄んだひんやりした空気を感じていた。シベリウスは、1865年フィンランドに生まれている。
「森と湖の国」というのが、私にとってのフィンランドのイメージだった。
観光情報を調べてみたら、「高い山がなく平らな国土は森と湖で覆われていて自然豊かな国です。」となっているので間違ってなかった。
フィンランドウラル語族に属し、ゲルマン語族である他の北欧諸国とは違っている。
歴史的には、長くスウェーデンとロシアに支配され、ようやく1917年ロシア革命の際に独立した。シベリウス自身は、スウェーデン系のフィンランド人だった。
シベリウスの音楽に北国の空気を感じたと書いたが、それは宮澤賢治の文学に感じるものと通ずるものがあるかもしれない。宮澤賢治は、自身の心象世界中にある理想郷として「イーハトーブ」を考えたが、その世界に感じる空気である。作品には、風土と自然が反映されると思う。
それは、私が秋田という北国で育ったことからくる、単なる思い込みかもしれない。
 
私が、クラシック音楽を聴き始めた頃、シベリウスは日本のクラシック音楽愛好者の中では人気があったと思う。特に、交響曲第2番は人気曲だった。渡辺暁雄というフィンランド人の母を持つ人気指揮者が、現役で活躍していたということもあるかもしれない。

「悲しきワルツ」という曲がある。シベリウスの義兄ヤルネフェルトの戯曲「クオレマ」のために作曲した劇付随音楽である。松戸市の森のホールにヘルシンキ・フィル(もしかするとヘルシンキ放送交響楽団かも?)を聴きに行ったことがある。この曲をアンコールで演奏した。
ゆったりした優雅なワルツである。私には、老夫婦が広いホールで二人きりでゆっくりと踊っている光景が見えた。

「ヴァイオリン協奏曲」シベリウス自身、ヴァイオリニストであったが、断念したらしい。ヴァイオリン協奏曲は一曲だけである。私は好きだが、やや地味かもしれない。あまり、コンサートのプログラムにはないかな。

「カレリア」組曲 「間奏曲」「バラード」「行進曲風に」からなる。音楽を聴いていると、その光景が浮かぶようだが、私は特に第三曲が気に入っている。
カレリアは、ロシアとフィンランドの間にある地方で、今は二つの国に分断されている。

フィンランディア賛歌」交響詩フィンランディア」は帝政ロシアの圧政下の1890年に初演されたが、その最終章の美しい旋律の部分を合唱曲としたこの曲は、スターリンが支配するソヴィエト連邦の侵略に抵抗するための愛国歌となった。
この男声合唱を始めて聴いた時は、その重厚さに歌詞の意味はわからないのに涙が出そうになった。
 
この曲は、堀内敬三氏によって訳詞され、日本でも歌われている。フィンランドは、「フィン人の国」の意味で、「スオミ」はフィン人の自称である。

雲湧く静寂(しじま)の森と 豊かに輝く湖(みず)
野の花 優しく薫る スオミよ 平和の里
野の花 優しく薫る スオミよ 平和の里
幾たび嵐に耐えて 過ぎ越し 栄えある都市
新たな 文化は薫る スオミよ 清(さや)けき国
新たな 文化は薫る スオミよ 清けき国
スオミよ 平和の里

you-tubeを見ていたら、英語翻訳もあった。
 
"Finlandia" by Jean Sibelius 
Text by Lloyd Stone 


This is my song, O God of all the nations, 
a song of peace for lands afar and mine. 
This is my home, the country where my heart is; 
here are my hopes, my dreams, my holy shrine; 
but other hearts in other lands are beating
with hopes and dreams as true and high as mine.
 
My country's skies are bluer than the ocean,
And sunlight beams on clover leaf and pine. 
But other lands have sunlight too, and clover, 
And skies are everywhere as blue as mine.
O hear my song, thou God of all the nations,
A song of peace for their land and for mine.

 

 

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いなのなかみち⑤  菅江真澄テキスト

 

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甘七日 この里の人々とぶらひ来て、すむは八橋の近きにや、今もみづゆく河やながるゝ、燕子花の咲るやなどとひもて、熊谷直堅のかいつけける。

 

   けふよりは心へだつなかきつばた咲紫のいろもかはらで

 

とよめる返し。

 

   いかに又こゝろへだてん垣津幡はなの言葉の匂ふいろかに

 

くすし義親の、

 

   音にのみいまだ三河のかきつばたふかき色香をあせずかたらへ

 

かくなんありけるに、返し。

 

   垣つばた生ふとはすれど川水の浅き心はいかゞかたらん

 

甘八日 くすし可児永通のやにとぶらへば、あるじとりもあへず、れいの、すきたるすぢとて、

 

   五月雨のふりくらしたるこの宿にとひ来る月のかげもはづかし

 

とかいて、老のひがごと、これ見てとてさし出しけるに返し。

 

   さみだれのふるきをしたふ宿なればさしてとひよるかげもはづかし

 

水無月七日 岩垂といふところに人にいざなはれて行に、不尽塚といふ森あり。此やつかにのぼれば、ふじのみゆといふめる。

 

   はるかなるながめをこゝにするがなるふじのたかねのゆきゝとゞめて

 

しりにたちくるすぎやう者、不二は見えねど、しかいふ、たゞ此塚の名なりとて、その邑に近く、山河たぎちながれたり。

 

   末はかく淵とよどめど莓つたふ雫いはたる水のみなかみ

 

この村の岩垂なにがしといふがやをとふに、ゐくはまゆのいと多く、まゆごもりして宿はいぶせきと、やのとうめのいへるは、

 

「たらちねの親のかふこのまゆごもりいぶせくもあるか妹にあはずて」

 

といふ、ながめのこころにもかなへり。まことに璽の数多ありけり。

 

   夏引のいとなむわざやしげからんとるてあまたのまゆ作りして

 

雨のふり来れば、こよひは、いぶせくとも一夜とまりてと、なさけなさけしう、あるじ。

 

   雨ふれば淋しき宿にとゞめてもあけなば行むもとせばのさと

 

歌はをさなけれど、まことはいとふかし。此返し。

 

   こよひふる雨ははれてもあけば又ぬれてわかれん袖やうからん

 

十日 「もとせばの里の夏」てふことを、沓冠によめと人のいへば、

 

   もりにけさとさし近しと蝉の声の葉末もれてな軒に鳴たつ

 

又、青松山のすゞみといふことを、おなじさまに、

 

   あかすのみをのへをてらすまちも見ずつきの葉分のやへの重やま

 

ある人、牡丹の葉折もて、これをもよみてなどありけるに、「ふかみ草ちりしのち」てふことを、

 

   ふりひたちかすみし山のみねもなしくさのみ茂りさくる通ひち

 

十二日 青松山のみてらにまうづれば、大智禅師、瑩山禅師のみたまをまつり給ふに、「運華台上舎那身、天上人間称独尊、七仏以前通血脈、釈迦弥勒是児孫」といふことを、

 

   はちすさく   花のうてなに    すめる身は

   あまつ空より  よのなかに     独たふとき

   君よかく    なゝつのほとけ   あらはれぬ

   共さきつ世に  つたへにし     ちすぢの法と

   開からに    さかもみろくも   こやむまこかも

   いにしへの雪のやま人いまだよに出こぬ月のさきにこそすめ

 

十四日 熊谷氏の閑居しける庵の、庭もせに、牡丹を植えたりけるなかに、葉ひろく生ひ立る、姿ことなるあり。これなん、実うへしてはじめて咲つるが、花のめでたかりしよしをいへれば、

 

   見ぬ色のいとどゆがしきことしよりさくもはつかの花のおもかげ

 

あるじ、おかしとやとおもふ、あまたたびずしぬ。やをら隆喜がやに、甘七日 この里の人々とぶらひ来て、すむは八橋の近きにや、今もみづゆく河やながるゝ、燕子花の咲るやなどとひもて、熊谷直堅のかいつけける。

 

   けふよりは心へだつなかきつばた咲紫のいろもかはらで

 

とよめる返し。

 

   いかに又こゝろへだてん垣津幡はなの言葉の匂ふいろかに

 

くすし義親の、

 

   音にのみいまだ三河のかきつばたふかき色香をあせずかたらへ

 

かくなんありけるに、返し。

 

   垣つばた生ふとはすれど川水の浅き心はいかゞかたらん

 

甘八日 くすし可児永通のやにとぶらへば、あるじとりもあへず、れいの、すきたるすぢとて、

 

   五月雨のふりくらしたるこの宿にとひ来る月のかげもはづかし

 

とかいて、老のひがごと、これ見てとてさし出しけるに返し。

 

   さみだれのふるきをしたふ宿なればさしてとひよるかげもはづかし

 

水無月七日 岩垂といふところに人にいざなはれて行に、不尽塚といふ森あり。此やつかにのぼれば、ふじのみゆといふめる。

 

   はるかなるながめをこゝにするがなるふじのたかねのゆきゝとゞめて

 

しりにたちくるすぎやう者、不二は見えねど、しかいふ、たゞ此塚の名なりとて、その邑に近く、山河たぎちながれたり。

 

   末はかく淵とよどめど莓つたふ雫いはたる水のみなかみ

 

この村の岩垂なにがしといふがやをとふに、ゐくはまゆのいと多く、まゆごもりして宿はいぶせきと、やのとうめのいへるは、

 

「たらちねの親のかふこのまゆごもりいぶせくもあるか妹にあはずて」

 

といふ、ながめのこころにもかなへり。

まことに璽の数多ありけり。

 

   夏引のいとなむわざやしげからんとるてあまたのまゆ作りして

 

雨のふり来れば、こよひは、いぶせくとも一夜とまりてと、なさけなさけしう、あるじ。

 

   雨ふれば淋しき宿にとゞめてもあけなば行むもとせばのさと

 

歌はをさなけれど、まことはいとふかし。此返し。

 

   こよひふる雨ははれてもあけば又ぬれてわかれん袖やうからん

 

十日 「もとせばの里の夏」てふことを、沓冠によめと人のいへば、

 

   もりにけさとさし近しと蝉の声の葉末もれてな軒に鳴たつ

 

又、青松山のすゞみといふことを、おなじさまに、

 

   あかすのみをのへをてらすまちも見ずつきの葉分のやへの重やま

 

ある人、牡丹の葉折もて、これをもよみてなどありけるに、「ふかみ草ちりしのち」てふことを、

 

   ふりひたちかすみし山のみねもなしくさのみ茂りさくる通ひち

 

十二日 青松山のみてらにまうづれば、大智禅師、瑩山禅師のみたまをまつり給ふに、

 

「運華台上舎那身、天上人間称独尊、七仏以前通血脈、釈迦弥勒是児孫」

 

といふことを、

 

   はちすさく   花のうてなに    すめる身は

   あまつ空より  よのなかに     独たふとき

   君よかく    なゝつのほとけ   あらはれぬ

   共さきつ世に  つたへにし     ちすぢの法と

   開からに    さかもみろくも   こやむまこかも

   いにしへの雪のやま人いまだよに出こぬ月のさきにこそすめ

 

十四日 熊谷氏の閑居しける庵の、庭もせに、牡丹を植えたりけるなかに、葉ひろく生ひ立る、姿ことなるあり。これなん、実うへしてはじめて咲つるが、花のめでたかりしよしをいへれば、

 

   見ぬ色のいとどゆがしきことしよりさくもはつかの花のおもかげ

 

あるじ、おかしとやとおもふ、あまたたびずしぬ。やをら隆喜がやに、瞿麦多くうへたりけると間て見に行しかば、今盛なる花に、今のこりたるあさ露おもげに、風情ことなり。

 

   いろ/\の玉とし見えて自露の光掠しき床夏の花

 

十五日 此里の祭なりとて、近き村々の人さはに立あつまり、やがて引わたしぬ。

しら布によそひたる馬に、にぎてさしてひき、神の御名しるしたる幡おしたて/\行は、たいめいのみちゆきぶりをまねび、鈴の音こゞしう馬曳行男、御世のためしを、ちよ万代とうたひ、つゞみ、笛どよめきたるに、獅子頭をかざし、あるは車おし促に、わざおぎまひのたはれせり。

此、ねるしりにたちて御祠にまうづれば、御前に弓箭、とりものかざり立て、ほうり、まうづる人のかしらを、五色のぬさもてきよかれとうちはらふに、神子は、ゆにはにおりたちて竹の葉ふりがざし、

 

君が代はにごりもあらじ高倉や麓にすめる小潮井の水」

 

と、祝、あまたの声にうたふをきゝつゝ、

 

   いか斗神やうくらん君が代はちよもととよみうたふみやつこ

 

又ひろまへに人々うた奉りければ、われも、

 

   広前の玉串の葉の夕栄て入日にみがく影ぞ涼しき

                                      永通

   幾世へん栄をこゝにみやしろのにぎはふけふをいのる里の子

                                      直堅

   石清水きよきながれの末遠みこゝにもうつすかげぞかしこき

 

十六日 熊谷直堅のやにとぶらひしかば、

 

「春雪に心そゝぎて出行ば猶神風の身にやしみなん」

 

 

「神路山いはね小坂もふみこえていざみて帰れ駒のあしなみ」

 

此ふたくさは、三溝隆喜の子いせまうでしけるをりしも、わがよみて、をくりしたりけるを、そのかへさに都にのぼり、あき人の家にしるべありて、やのうへの宿りして、なにくれと旅の調度どもつゝみ、てうしけるほどに、この歌かいたる紙を風の吹ちらし、人の、ものかたらひをる前におちゐたるを、此男うち見て、ふところにしてもてかへり、あがつかへ奉る、今城何がしの君とかやに御らんぜさす。

君おかしとやおぼしたまひけん、よからぬふしはかいけち、おかしくふでそへ、おほん手づから清らにかいあらためて此男にたばひたるを、かの男ふたゝびあき人が家に来て、しかじかのこと也。

是なん、そのたび人に見せてとて、さみぞたかよしが子の、都のつとにとて、ゆくりなうわれにくれたりけるは、身にあまりぬる、かしこきおほん恵にあひつると、こよなうよろこぼひてければ、

 

   雲井まで誘ふ言葉の花の香を吹返す風の例やはある

 

瞿麦多くうへたりけると間て見に行しかば、今盛なる花に、今のこりたるあさ露おもげに、風情ことなり。

 

   いろ/\の玉とし見えて自露の光掠しき床夏の花

 

十五日 此里の祭なりとて、近き村々の人さはに立あつまり、やがて引わたしぬ。

しら布によそひたる馬に、にぎてさしてひき、神の御名しるしたる幡おしたて/\行は、たいめいのみちゆきぶりをまねび、鈴の音こゞしう馬曳行男、御世のためしを、ちよ万代とうたひ、つゞみ、笛どよめきたるに、獅子頭をかざし、あるは車おし促に、わざおぎまひのたはれせり。

此、ねるしりにたちて御祠にまうづれば、御前に弓箭、とりものかざり立て、ほうり、まうづる人のかしらを、五色のぬさもてきよかれとうちはらふに、神子は、ゆにはにおりたちて竹の葉ふりがざし、

 

君が代はにごりもあらじ高倉や麓にすめる小潮井の水」

 

と、祝、あまたの声にうたふをきゝつゝ、

 

   いか斗神やうくらん君が代はちよもととよみうたふみやつこ

 

又ひろまへに人々うた奉りければ、われも、

 

   広前の玉串の葉の夕栄て入日にみがく影ぞ涼しき

                                      永通

   幾世へん栄をこゝにみやしろのにぎはふけふをいのる里の子

                                      直堅

   石清水きよきながれの末遠みこゝにもうつすかげぞかしこき

 

十六日 熊谷直堅のやにとぶらひしかば、

 

「春雪に心そゝぎて出行ば猶神風の身にやしみなん」

 

 

「神路山いはね小坂もふみこえていざみて帰れ駒のあしなみ」

 

此ふたくさは、三溝隆喜の子いせまうでしけるをりしも、わがよみて、をくりしたりけるを、そのかへさに都にのぼり、あき人の家にしるべありて、やのうへの宿りして、なにくれと旅の調度どもつゝみ、てうしけるほどに、この歌かいたる紙を風の吹ちらし、人の、ものかたらひをる前におちゐたるを、此男うち見て、ふところにしてもてかへり、あがつかへ奉る、今城何がしの君とかやに御らんぜさす。

君おかしとやおぼしたまひけん、よからぬふしはかいけち、おかしくふでそへ、おほん手づから清らにかいあらためて此男にたばひたるを、かの男ふたゝびあき人が家に来て、しかじかのこと也。

是なん、そのたび人に見せてとて、さみぞたかよしが子の、都のつとにとて、ゆくりなうわれにくれたりけるは、身にあまりぬる、かしこきおほん恵にあひつると、こよなうよろこぼひてければ、

 

   雲井まで誘ふ言葉の花の香を吹返す風の例やはある

 

 

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崖の上のヤギ

この夏、京成電車の線路沿いの急斜面で生活していたヤギが話題になった。8月11日に捕獲され、3ヶ月の崖での生活を終えた。コンクリート製の擁壁で、平らな足場になる箇所が多くあったのは確かだが、かなりの急斜面でそこをスイスイと器用に移動していた。

このヤギが、佐倉市の「草ぶえの丘」で、人気ものになっているということが、テレビ番組の中で放送されていた。我が家も、子供が小さい頃に何回か利用していた。

草ぶえの丘は、佐倉市が子どもたちのためにつくった公共施設で印旛沼を望む高台にある。

ミニ鉄道やふれあい動物園、アスレチック、野菜の収穫やいろいろな体験教室、キャンプ場やログハウス、宿泊施設まである。
世界の珍しい野生バラやオールドローズ1050種2500株が植えられた本格的バラ園もある。

ヤギの飼育施設もありすでに8頭のヤギが生活していた。

ヤギではないが、北アルプスを登山していた時に、人が立ってもいられないような急斜面で自由自在に行動しているカモシカを見たことがある。信じられない思いだった。

ヤギは、漢字で山羊なので、もともとがああいうところで生きていたのだろう。 

 

私も、子どものころヤギを飼っていた。

我が家は、いちおう農家だったのですでに牛は飼っていた。父は、本業は山仕事なので休みの日だけ農業をやってた。ふだんは、母が農業をやっていた。

牛車に家族みんなのって、田んぼ仕事に出かけたことを覚えている。田んぼを二ヶ所持ってたけど、一ヶ所は隣り村にあって遠かったのだ。

ヤギは、ちょっと情けないような鳴き声がかわいい。そのころ、オモチャみたいなカメラを買ってもらったが最初の被写体がヤギだった。ちゃんとフィルムが入っていて焼き付けもできた。

ミルクも飲んでいた。エサが野草だけのせいか、ミルクはちょっとクセがあった。

 

牛は、母屋で飼っていた。雪国はみんなそうだと思うが、人が住む同じ住居の中に馬や牛のスペースがあった。もちろん、人間の住む場所と動物の住む場所の間には土間があった。

雪国は、半年近くが雪のなかであり、人間と同じ屋根の下でないと寒さに耐えられないということだった思う。

父の実家は、同じ村の川向こうにあったが、馬を3頭飼っていた。

南部曲がり屋というのがあるが、これは母屋と厩がL字型になっている。かなり大きな建物である。

我が家や父の実家の建物は、直家(すごや)と言われる長方形の建物だった。

農家にとって、馬や牛は家畜というよりも半分家族だったと思う。

 今は、こういう建物はほとんどないだろう。

 

この文章を書いていて、

どこの国の話だよ

いつの時代の話だよ

と、自分にツッコミをいれたくなった。

五、六十年前のこの国の話です。

 

 

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