晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

棟方志功の板画

棟方志功という名前を知ったのは、いつだろうか。

長部日出雄さんが、棟方志功さんを描いた「鬼がきたー棟方志功伝」で、文部大臣賞をもらったのが1979年である。

でも、長部さんが津軽三味線の世界に生きる若者たちを描いた「津軽三味線じょんがら節」「津軽世去れ節」で直木賞もらった頃には、棟方志功さんを知っていたような気がする。

あの、独特な棟方さんの版画を見たときに、ほんとに驚いた。

私が、高校生時代によく通っていた本屋さんの包装紙じゃなくて、本屋さんで本を入れてくれる紙袋は何ていうのだろう。包装袋(?)に印刷してあった絵だったからだ。

 

丸っこくて、豊満で、強そうな女性の版画だった。

そんなに、有名な方の作品だとは知らなかった。

「又久書店」という、大館の街では老舗の本屋さんだった。

すでに、1956年にヴェネツィアビエンナーレで国際版画大賞を受賞していたそうなので、版画の世界では第一人者だったのだろう。

一般的にはまだそれほど知られている人ではなかったと思うのだが、どうして大館の本屋さんで棟方さんの作品を使っていたのだろう。

書店は、2008年に閉店してしまったそうなのだが、棟方さんの作品は、いつ頃からいつ頃まで使っていたのだろうか。

 

高校の新聞部にいた私は、高校新聞の広告掲載をお願いに何回か伺ったことがあった。この頃で、一回500円くらいだったと思う。毎回掲載していたので、掲載の確認に行ってたのだ。

新聞が発行されたら、新聞を持って行って広告料をもらっていた。

広告は、他に和菓子の老舗のお店「島内」さんにもお願いに行ってた。その頃は、店内もとてもきれいで明るい感じだった。

大館という街の中心部にあって、まだ街が元気な時代だったのだ。

 

NHKのドキュメンタリー番組で、棟方志功を取り上げていたのだと思う。

厚い眼鏡をかけて、板に顔がくっつくぐらいに近づけて、版画を彫っていた。

津軽のねぶたや縄文の世界に近いような、独特な棟方さんの版画の世界。

その頃の作品にあったかな、

やまとは くにのまほろば たたなづく あおがき やまこもれる やまとしうるわし

という、倭健命の歌をモチーフにしたものがあった。

日本経済新聞から、「ワだばゴッホになる」という書籍が出ている。

この本を私は読んでいない。

でも、「ワだばゴッホになる」ということばは、棟方志功という人の代名詞のようにいろいろなところで使われている。

 

ずいぶん後になって、片岡鶴太郎さんが『志功の青春記 おらあゴッホだ』というドラマで、棟方志功さんを演じている。

棟方志功さんと片岡鶴太郎さんとは、何かイメージが重なるところがある。

鬼気迫るところ、意識を集中しているところ。

版画ではなく板画と称した棟方さんは、木版の特徴を活かしたものを作ろうとした。

私がまだ学生だった1970年に亡くなっている。

亡くなった後で、いろいろなところで取り上げられていたことになる。

 

 

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菅江真澄の旅と著作

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七夕の人形 いなのなかみち

菅江真澄は、天明8年(1783年)に郷里三河を旅立ち、文政12年(1829年)に秋田にてその生涯を終える。

生年は、宝暦4年(1754年)であるので、30歳で三河を離れてから、46年が経っていた。

真澄が、津軽領内から、再度秋田領内に入ったのは享和元年(1801年)で、それから晩年を秋田で送った。

郷里三河に帰郷した形跡はないように思える。

 

しかし、菅江真澄全集の編者である内田武志氏は、真澄は三河へ帰郷したと考えている。その根拠となるのが、「百臼乃図」である。「百臼乃図」の内容は、三十を越える臼の絵と、伝承などを古書などから引用している。

「百臼乃図」は、神に仕える家柄である真澄が、臼は単なる器具としてではなく、祭具として観察したものと、内田氏は考えている。この図絵集に収められている臼の所在する地域などを考えると、三河に帰郷する際に各地の臼を訪ねたものとしか思えないということである。

 秋田から三河まで帰ったとすると、陸路を使ったにせよ、海路を利用したにせよかなりの日数を費やしたことのなる。

さらに、各地の臼を見て描写したとすれば、それ相応の日数を要しただろう。 

 

古今、旅をして紀行文という形で多くの方が記録を残している。

菅江真澄という人が、そのような人たちと違っているところがある。

文章や歌とともに、図絵が多く使われていることである。

そして、その対象が名所旧跡だけではなく、ふつうの庶民農民の生活、行事、村の風景などであること。

さらに、通常の旅人なら興味を持たないような農具なども詳細に観察している。

「百臼乃図」なども、いかにも真澄らしい著作だと思う。

著作の多くの部分を占めている図絵がなければ、真澄の著作が与える印象も違ったものになっただろうと思われる。

 

菅江真澄全集」は、未来社より、内田武志氏と宮本常一氏を編者として発行されている。

第1巻は、1971年に発行されている。本巻12巻、別巻2巻の予定であったようだが、別巻第2巻「索引」は、刊行されなかったようである。

内容は、次のとおりである。

第1巻 第2巻 第3巻 第4巻  日記

第5巻 第6巻 第7巻 第8巻  地誌

第9巻  民俗・考古図

第10巻  随筆

第11巻 第12巻  雑纂

別巻  菅江真澄研究

各巻とも500ページ前後であり、巻頭に写真ページを含んでいる。

 

菅江真澄の著作を、絵図をも楽しもうとすると手書きの原本が必要だが、いくつかの図書館で、デジタルアーカイブとして提供している。

秋田県立図書館と大館市立図書館については、下記のリンクをクリックするだけで、菅江真澄の作品を楽しむことができる。

特に、大館市立図書館のコレクションは、多様な菅江真澄の作品が揃っていて、扱いやすい。

国立国会図書館については、単に「菅江真澄」で検索すると真澄の著作以外に、多くの研究書なども結果として出てしまうので、工夫が必要かもしれない。

秋田県立図書館デジタルアーカイブ・菅江真澄遊覧記

大館市立図書館 菅江真澄作品集

国立国会図書館デジタルコレクション

 

 

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ふるさとは遠きにありて

私は、10棟の集合住宅からなる150戸ほどのこじんまりした団地に住んでいる。

入居した当時は、30代だった。まわりは、同世代かもっと上の世代だった。

私の知ってる限りでは、ほとんどが日本各地出身の方である。

職場は、半分か3分の1が地元か県内で、その他は全国出身という感じだった。

北海道もいれば、九州もいた。

この辺の地域自体が、東京のベッドタウンという感じなのだ。

 

妻の両親は、2人とも東京生まれ東京育ちだった。

でも話を聞いたところでは、その父親が若い頃に東京に出てきたらしい。

妻にとっては、おじいちゃんだから、ずいぶん昔のことである。

妻の父の方は、九十九里の成東がおじいちゃんの実家だと言ってた。

旅行で成東のあたりを、通った時にこの近くだ、と言っていた。

妻の母の方は、茨城の石下がおじいちゃんの実家だった。

ここには、おじいちゃんの何十周忌かの法要で行ったことがある。

東京にいる親戚たちと車を乗り合わせて行った。

まわりは、田んぼのある田園地帯だった。妻の母は、戦時中に疎開で何年か来ていたらしい。

よく、その頃の話しをしていた。

明治や大正の頃は、関東近辺の県から東京へ働きに行っていた。

それが昭和になって、日本全国から人が集まるようになっていく。

 

私の父と母も、秋田から東京や川崎に来ている。

戦前から戦中にかけてである。

秋田の田舎には、仕事がないので、仕事を求めて都会にやってきたということになるだろう。

それは、戦後もずっと続いてるってことだな。

そして、私もその中にいる。

 

私は、18歳で秋田を離れている。

それから、50年になろうとしている。

「自分は秋田の人間だ。」という気持ちで、ずっと生きてきた。

でも、考えてみると秋田のことをよく知らない。

秋田にいた頃の、私の行動範囲なんてほんとに狭いものだ。

一番近い観光地である十和田湖にも行ったことがなかった。

家族で旅行なんか行ったことがないのだから、ほとんどどこも行ってない。

十和田湖は、20代の頃にひとりで東北の山を登り歩いていた時に、八甲田山に向かう途中、初めて行った。奥入瀬渓流がきれいだった。

 

秋田とひとことで言うけれど、秋田は広いと思う。

日本海に面した海岸部と、内陸部があるし、内陸部にも山間部がある。

中央部に山地があるので、北部と南部が分断されている。

私は、東西に流れる米代川の支流岩瀬川沿いの村で育った。

北部も、岩手県に近い鹿角という地域は歴史的に盛岡藩が統治していたので複雑である。

地元についてでさえ、戊辰戦争の際に、奥羽列藩同盟から脱落した秋田藩と同盟側の盛岡藩と、大館や米代川に沿って行われた攻防で大館の街がほとんど焼失したというような歴史も、ずっと知らなかった。

まして、南部の方については、よく知らないし、あまり行ったことがない。

南部は、雄物川が真ん中を流れてるのかな、くらいの知識だ。

しいてあげれば、

乳頭温泉に泊まって、秋田駒ヶ岳に登ったことがある。

鳥海山に登ったあと、象潟に泊まったことがある。

秋田の姉のところに家族で行った帰りに、秋田市方面経由で帰ったことがあった。秋田空港に近いプラザクリプトンというホテルに泊まった。秋田県森林学習交流館というおもしろいところだった。

大曲に伯父さんが住んでいて、法事などで会うたびに「大曲の花火見に来るといいよ」と誘われていた。行きたいなと思いながら実現してないな。

 

考えてみたら、角館も行ったことなかった。

久保田城も復元されているようだ。かつて、行った時は城跡だったような気がする。

南部の方には、支藩とかもいくつかあったし、城下町もある。

秋田藩の館というのもいくつかあったはずだ。

歴史好き、お城好きの私としては行ってみたいところがいっぱいある。

 

 

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1月1日

私は、秋田で育ったので正月は雪の中だった。

雪が多いので、1月20日くらいまで冬休みだった。そのかわり、夏休みは短かかった。

子どもの頃のことを考えていたら、1月1日は登校日だったことを思い出した。

でも、小学校低学年くらいまでだったような気がする。

全校で、校長先生の話を聞いて、紅白のお饅頭をいただいて帰ったと思う。

そのほかは、あまり記憶がない。

雪の山道を学校まで30分くらい歩いて、行って、帰ってた。

 

正月の登校日って、いつ頃まであったのか、気になって調べてみた。

そうしたら、谷村新司さんが、ラジオで1月1日が登校日だったと話してるのを聞いた、という投稿があった。

谷村さんは、私より5歳年上で、大阪で育っている。

私は昭和35年に小学校に入学しているが、谷村さんは昭和30年頃に大阪で小学校に入学していることになる。

正月の登校日は、都道府県によって違うみたいだが、早いところで昭和20年代、遅いところでも昭和40年頃には、なくなったようだ。

戦前は、特別な儀式のための登校日だったらしいが、私の頃はふつうの登校日だった。

 

正月は、1日は出歩くものではないと言われてたので、静かにしていた。

2日に、父の実家と母の実家に年賀のものを届けるのが、末っ子の私の役目だったのでお使いに行っていた。

行くと、お年玉をもらえるので、毎年せっせと出かけていた。

私の田舎では、お年玉をあげることを、「馬っこ乗せる」という。

馬に乗せることが、どうしてお年玉をあげることになるのか、よくわからない。

「うちは、痩せ馬だから。」と言って、くれたりした。

もともと、日本では正月には子どもにおもちゃをあげる風習があったようなので、馬乗り遊びをしてあげる代わりに、おもちゃ代としてあげるということだったのかもしれない。

 

母の実家の道路向かいには、なんでも売ってる商店があった。万屋(よろずや)といわれる、今のコンビニの原型みたいなものである。

だいたい、どの村にも一軒くらいはあった。

お年玉は、そういうところで使っていた。

食べ物とかおもちゃが当たるクジがあって、人気があった気がする。

 

小学校高学年くらいになると、バスに乗って街まで出掛けて買い物をした。

プラモデルは、どこで買ってたんだろう。デパートかな。

文庫本は、又久書店という本屋さんは覚えている。

音楽に興味を持ち始めて、ウクレレを買ったこともある。

楽器屋の記憶はないので、これもデパートかもしれない。

 

田んぼの真ん中にあった我が家は、冬は真っ白な雪景色の中だった。

そこで、凧揚げをやっていた。

まわりには、じゃまになるものが何にも無かったから、気持ちよかっただろうな。 

 

  

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BabyMetal

BabyMetalを、ご存知だろうか。

私は、2014年に知った。

退職を翌年に控えていた時なので、よく覚えている。

ヤフーニュースを見ていたら、レディ・ガガから、日本のアイドルグループに前座のオファーがあった、という記事があった。

記事は、BabyMetalというグループがレディ・ガガの前座をやるというものだった。

リンクを見たら、YouTubeになって、イギリスの「ソニスフェア・フェスティバル」というロックフェスティバルでの、BabyMetalのライブ映像が出てきた。

3人の日本の女の子が、白装束白塗りのロックバンドをバックに、日本語で歌って踊っていた。ロックバンドは、かなりヘヴィでハードな演奏である。それに対して、女の子たちはハードに走ったり踊ったりしていたが、歌は特にヘヴィではなかった。でも、演奏に負けてはいなかった。

「イジメ ダメ ゼッタイ」という、不思議な曲をやって、大観衆の“We Want More"という大歓声の中、”See You" と言って、退場していった。

なんだこれは、と思った。かっこいいじゃないか。

それ以来、YouTubeを見るようになった。

その1ヶ月後くらいに、カナダの「ヘヴィ・モントリオール」という、ロック・フェスティバルにも、BabyMetalが登場していた。

やっぱり、ここでも大観衆に受けていた。かっこよかった。

 

私は、かなり音楽好きなので、それなりに音楽に関する情報はある方だと思っていたが、私の情報網に、BabyMetalは引っかかっていなかった。

そのうちに、年末になって、NHKが、BabyMetalのスペシャル番組をやるというので、録画して見た。

「BABYMETAL現象」という番組だった。

ロンドンでのライブ映像を中心に、ファンや音楽関係者へのインタヴューなどを交えた、いい番組だったと思う。日本では、一般的にはほとんど知られてないけど、ロンドンには、ライブ会場5000人が埋まるくらいファンはいる。今は、そういう時代なんだな、と思った。

この年の春に、BabyMetalは、武道館で、二日間のコンサートをやっていた。でも、知る人ぞ知る、なんだな。私も、知らなかったし。

 

BabyMetalは、アミューズという会社に所属している。

アミューズには、福山雅治サザンオールスターズもいる大手の会社である。

BabyMetalは、バンドではなく、プロジェクトである。

BabyMetalのプロデューサーである小林さんという方の、インタビューを読んだことがある。

BabyMetalは、ミュージカルのようなものだ、と言っていた。

一つのショーのために、ストーリーや作曲者、出演者、演奏者などを決めて集める。

コンセプトとして、J POPとメタルの融合するとも言ってた。

小林さんは自体、もともとメタルの人で、人事異動でアイドル部門に移ったらしい。

まあ、日本はあまりジャンルにはこだわらない。

おもしろくて、かっこよければ、なんでもありだ。

 

NHKは、「BABYMETAL現象」の2年後にも、BabyMetal特番を作っている。

2016年の「BABYMETAL革命〜少女たちは世界と闘う〜」である。

これは、NHKでのスタジオライブとマーティ・フリードマンとの対談を中心にした番組だった。

NHKにとっては、BabyMetalはずっと注目してきた対象だったのだと思う。

今回の紅白歌合戦という番組が、どんなものになるかは少し興味がある。

 

 

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北の国から

大草原の小さな家」をみていた頃、「北の国から」も見ていた。

北の国から」は、リアルタイムではなく、再放送を録画して見ていた。

友人に、「北の国から」は、とてもいいよ、とすすめられたからだ。

たしかに、おもしろかった。夢中になって見ていた。

1981年から1982年にかけて、24話放送されている。

ずいぶんと評判になったドラマなので、つい誰でも知ってるような気がしてしまうが、当時でも、視聴率は10%台、最終回で20%を越えたらしい。

その後のスペシャル版になって、少しずつ視聴率が上がっていった。

高視聴率といっても、10人のうち2人見てる計算である。言い方を変えると2人しか見ていない。しかも、40年も前の話である。

いくら、評判だ、人気だといっても、映画もテレビもそういうものだと思う。誰でも、知ってる訳ではない。

 

このドラマの脚本を書いた倉本聰氏は、1974年に北海道に転居し、1977年に富良野に移っている。

東京で育ったという倉本氏にとって、なぜ北海道だったのかという気はする。北海道の冬は、大変だったんじゃないのかな。

 

北海道富良野出身の、田中邦衛の黒板五郎が、妻と離婚して、純と蛍という二人の子どもを連れて東京から富良野に戻ってくる。

吉岡秀隆の純は小学4年生、中嶋朋子の蛍は2年生だった。

父親の五郎は、東京の生活に馴染めず帰って来るが、二人の子どもたちもなかなか富良野の生活に馴染めなかった。

私の記憶によればドラマは、純のモノローグで始まる。たしか、東京にいる同級生の女の子への手紙のかたちになっていたと思う。

不器用な父親と2人の子どもが、富良野での生活で成長していく様子を描いていた。

 

放送終了後は、数年ごとにスペシャル版が放送されている。

子どもたちは、父親のもとを離れて自立していく。

2002年の8回目のスペシャル版で製作終了になった。

スタートから、20数年経っていたので、純と蛍は30歳前後で、ドラマは終わったことになる。

私などは、純と蛍が小学生のかわいい頃から見ているので、その後テレビなどで見ても、成長を見守る視線になってしまう。

ずっと同じスタッフで作っていたので、スタッフの高齢化と長期ロケによる高額な製作費のために製作が困難になったということだ。

 

連続ドラマとスペシャルでの出演者のリストを見ると、壮観である。

亡くなってしまった人も多い。もう、40年経ってるんだ。

大滝秀治地井武男、大友柳太朗、小松政夫伊丹十三蟹江敬三

倉本氏にとって「北の国から」は、ライフワークなんじゃないかな、と思う。

製作はできなくなっているが、倉本氏のインタビューや発言によると、彼の中ではドラマの構想はずっと続いているようだ。

純と蛍だって、50歳になる。田中邦衛さんは、88歳だそうだ。

いつか、それが実現するだろうか。

 

連続ドラマもスペシャル版も、その時に一回しか見ていない。

だから、記憶が曖昧なところもある。

もう一度、見返そうという気になれない。

音楽だったら、何回でも聞けるのに。

ドラマや映画って、見返す気になれない。

そういうのは、自分だけなのかなあ。

再放送があっても、見ないと思う。

その時の、一瞬、一瞬がだいじなのかもしれない。

 

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綱島温泉は東京の奥座敷

学生時代、東急東横線の沿線に住んでいた。

東急東横線は、東急電鉄が運行する渋谷駅から横浜駅までの路線である。私が、利用していた当時は、横浜からさらに路線は延びていて桜木町駅が終点だった。

日吉駅付近に1年、隣の綱島駅付近に3年住んでいた。

綱島駅から徒歩10分ぐらい。

そこから、3、4分歩くと、鶴見川の土手に出ることができた。

眺めが良くて、気持ちいいところだった。

ときどき、散歩に行っていた。

でも、当時日本で一番汚染された川だった。

 

アパートにはお風呂が付いてなかったので、駅近くの銭湯に通っていた。

その銭湯のお湯は、赤黒いようなお湯だった。そういうものには、慣れていなかったので、はじめのうちは気持ち悪かった。

これは、「ラジウム温泉」というものだったらしい。

その銭湯は、休憩場のような広い和室があって、どうも昼はお年寄りたちが歌をうたったり、宴会のようなことをしているらしかった。

後になって知ったのだが、綱島というところは、かつては「東京の奥座敷」と言われる大温泉地だったという。

大正時代にお湯が出て、昭和初期には駅名も「綱島温泉駅」で温泉宿70軒、芸者100人以上だったと言うからすごい。

 

しかし、1964年の東海道新幹線が開通してから、状況が変わってしまったらしい。

熱海方面に客を取られてしまって、旅館も激減する。

私が、住むようになったのは1973年なので、旅館はチラホラあるかなくらいだった。

もう、「東京の奥座敷」の面影はなかった。

綱島は、渋谷からたしか40分くらいで行けたと思う。

浅田美代子さんが、子ども時代の思い出を語って、

綱島温泉によく行った、みたいなことを言ってた。

東京の人たちにとっては、身近な温泉だったんだろう。

銭湯の名前が、「東京園」だった。

 

就職が決まって、千葉の我孫子市まで行くことになった。

卒業式の直前に決まったので、アパートはなんとか決まったが、引っ越しが着任に間に合わなかった。

最初の1週間は、横浜から我孫子まで通った。東京を越えなければならない。

東急東横線綱島駅から中目黒へ、中目黒から都電の日比谷線で北千住、北千住から常磐線我孫子駅に到着する。

ところが、我孫子駅から勤務先までバス路線がない。

職場のみんなは車通勤だった。30分近く歩いた。

その後、近道になる道ができたけど。

まったく何もわからない新任で、定時で帰してもらったとはいえ、今考えるとよくやったものだと思う。

それが、スタートだったな。

 

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ナマハゲと獅子踊り

毎年暮れの頃になると、ナマハゲがテレビで取り上げられる。

年末の風物詩になっている。

ナマハゲは、秋田県男鹿半島周辺の年中行事に登場する仮面をつけ藁の衣装をまとった神の使い(来訪神)である。

角はあるが、鬼ではない。

家々を訪れ「泣ぐ子(ゴ)は居ねがー」「悪い子(ゴ)は居ねがー」と奇声を発しながら練り歩く。

江戸時代末期に秋田を訪れた菅江真澄は、その著書「牡鹿乃寒かぜ」では、「ナモミハギ」として著述している。「ナモミ」は、ヒダコのことであり、囲炉裏にあたっている怠け者のヒダコを剥ぎ取るということである。

同様の風習は、東北地方各地や、北陸地方にも存在するようだ。

 

私の育った村には、ナマハゲとは違うが「獅子踊り(ししおどり)」というのはあった。

どちらかと言うと、「獅子舞」に近いのかもしれない。

獅子踊りは、3頭の獅子が面をかぶって踊っていた。

伝統芸能は、他にもあった。

「棒術」は、棒を持って戦いのような踊りだった。

もう一つは、「奴踊り」で、扇を持って優雅に踊っていた。小学生の頃に、私も習っていた。

 

後年、宮澤賢治の詩を読んでいたら、「獅子踊り」が出てきた。

彼は、「鹿踊り」と書いて、「ししおどり」と読ませていた。

へえ、これでししおどり、かと驚いた。

 

    高原

  海だべがど おら おもたれば

  やっぱり光る山だたぢゃぃ

  ホウ

  髪毛風吹げば

  鹿踊りだぢゃぃ

 

鹿踊りは、獅子踊りよりも人数が多いようだった。7人とか8人とか。

お面は、獅子踊りに似ているが、鹿のように角が長くて枝分かれしているものもあった。

 

テレビの番組で、ヨーロッパにもナマハゲみたいなこわいのがあるってやってた。

確かに、怖いお面だった。

ドイツだったか、オーストリアだったか、あの辺はゲルマン神話かな。

似たようなものはどこでもあるんだな。

20代の頃、山室静さんの「北欧神話」と言う本を読んでいた。

日本人は、北欧神話が好きらしくて、マンガやゲームの舞台になってるみたいだな。

ヨーロッパには、ギリシア神話ローマ神話もあるんだよなあ。

日本は、キリスト教国にならなかったから、不思議な伝統芸能などが残っているけど、ヨーロッパはどうなんだろう。

そういう神話とかにつながりそうなのは、残ってるのかな。

それとも、異教的な匂いのするものは無くなってしまってるのか。

 

最近聴いている人間椅子というバンドの曲に「ナマハゲ」があった。

歌詞にナマハゲのことばが出てくる。

 

なまげものは いねが
泣いでるわらしは いねが

 

彼らは、隣の青森県出身だった。

 

だいぶ前に、BabyMetalの「Catch Me If You Can」という曲を聴いた。

かくれんぼと鬼ごっこを混ぜたような不思議な曲だ。

突然、バックのかけ声でナマハゲのことばが出てくる。

 

ナクゴハ イ・ネ・ガ!

ワルイゴ イ・ネ・ガ!

 

はじめは、何のことだかわからなかった。

そうか、ナマハゲだ。

でも、なんでここでナマハゲなんだ、と思った。

 

ナマハゲも、獅子踊りも、鹿踊りも

はじまりは、いったい何だったのだろうか。

今となっては、よくわからない。

でも、そういうものが残ってるのも、いいものだと思う。

 

 

大字(おおあざ)と小字(こあざ)って何だろう

子ども頃から、地図を眺めるのが好きだった。

地名にもとても興味がある。地図には、地名がなければならない。

だから、大字と小字があるのは知っていた。

最近は、住所を書いても、大字や小字という文字は省略されている。

大字や小字って何?という人も多いだろう。

私も、大字小字って何?と言われたら、地町村名の次にあるのが大字で、次にあるのが小字かな、くらいしか答えられない。

 

しかし、調べてみると、大字とは明治22年(1889年)の合併によって消滅した江戸時代からの村々の名、区画をそのまま新自治体が引き継いだもので、小字とはその村々の中の細かい集落や耕地を指す地名だそうだ。

なので、本来なら市町村名の後に来るのが、江戸時代からの村の名前であるはずなのだが、明治以後たびたびの町村合併などにより、必ずしもそういうことのはなっていない。本来の大字や小字が消滅していることもある。

 

私の住んでいる地域の住所は、柏市東中新宿4丁目である。

近隣の住所を見てみると、

東中新宿1〜4、中新宿1〜3、光ヶ丘1〜4、光ヶ丘団地、東山1〜2、西山1〜2、

酒井根酒井根1〜7、中原1〜2、加賀1〜3、

増尾増尾1〜8、増尾台1〜4、南増尾、南増尾1〜5、

つくしが丘1〜5、豊住1〜5、今谷上町、今谷南町、

といった、ところである。

 

明治22年の町村制への移行に伴う合併によって、次の新しい村々が誕生している。

①  土村  増尾、藤心、逆井、名戸ケ谷、今谷新田、根木内新田、小金上町新田、酒井根、根木内、中新宿、塚崎新田

②  千代田村・豊四季村組合  柏、戸張、篠籠田、松ヶ崎、高田、戸張新田、柏堀之内新田、柏中村下

③  田中村・十余二村組合  若柴、花野井、大室、正蓮寺、小青田、船戸、大青田

④  富勢村  根戸、宿蓮寺、布施、久寺家(南相馬郡)、

        呼塚新田、根戸村新田、松ヶ崎新田、柏堀之内新田(印旛郡)

東中新宿は、合併して土村となった中新宿村から来ている大字名と思われる。

私は感覚的に、光ヶ丘地区はすぐ隣なので自分の住んでる東中新宿と同じ地域だと思っていたが、歴史的にみると、東中新宿は、旧中新宿村で、光ヶ丘地域は、旧根木内村 か旧根木内新田村らしい。

なかなか、難しい。

その後、柏の市町村合併の状況は次のとおりである。

大正3年、千代田村・豊四季村組合の組合を解消し、千代田村となり、大正15年には、千代田村は町制を施行し柏町となっている。

さらに、昭和29年、柏町は土村、田中村、小金町と合併して市制を施行し東葛市(とうかつし)となった。その後、一部(いわゆる根木内地区)を残して旧小金町域は松戸市に移管された。富勢村の一部を東葛市に編入した。

東葛市は柏市に改称し、旧小金町のうち、柏市に残った一部地域は現在、光ヶ丘地区となっている。

 

私の住んでる東中新宿は、住居表示から小字が消えている。○丁目△番地□号というような表示になっている。中新宿についても、同様である。

かつて、どのような小字があったのかわからない。柏市のホームページを調べてみたが、中新宿や東中新宿について、いつ頃住所表示変更があったのかわからなかった。そして、その前はどういう状況だったのか、知りたいものである。

ただ、江戸時代寛文期(1661〜73)には、「中新宿村」ではなく、「新宿村」であったことはわかった。「中」の字がいつなぜ付いたのかは、不明らしい。もう少し詳しく調べてみたくなってきた。

昭文社発行の、ハンディマップル「千葉詳細便利地図」というコンパクトな地図帳を愛用している。それによると、近隣地区で、酒井根のまだ丁目表示になっていない所には、西ヶ原、西山、棒ヶ谷などの小字が載っている。

増尾も、堂谷、四斗蒔、鷲ノ山、丸山下、松山、中郷、本郷、宮根、辺田前、稲荷下、山下、篠塚、向根、上向根、葛ヶ谷、小山台といった具合だ。丁目制になってない所だけで小字がこんなにある。想像力を働かせたくなってしまう。

つまり、増尾の堂谷というところは、明治初期の時点では、増尾村の堂谷という集落又は耕地があったということになる。

 

字について、ネットで調べていたら、字が住所にあることを田舎の証拠であるみたいな文章が多くあった。

大字や小字をどう扱うかは、田舎とか都会とかという問題ではない。

地名はいったい、何であるかと考えるかだと思う。

地名は、生きた歴史だし、財産だと思う。それを、変えてしまったら死んだ歴史になってしまう。

人間の名前には、子どもに対する親の思いがあるように、地名には、その名前がつけられた理由がある。変えることによって、消えてしまうものがある。

 

 小字を意識的に残している市町村も現実的にあるらしい。

確かに、住居表示を丁目制にしたほうが、いろんな点で便利だし、楽だと思う。

でも、自分が番号で呼ばれたいか、名前で呼ばれたいかだよね。

番号の方がいいって言う人もいそうだな。

そういう問題だな。

 

 

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大草原の小さな家

私は、就職してから1年半くらいを我孫子市で、次に柏市で1年半くらいを一人暮らししていた。

我孫子のアパートは、我孫子駅から4、5分の肉屋さんが大家さんだった。平家建てで3部屋あって、それぞれに玄関がある不思議なアパートだった。言ってみれば、長屋かな。

肉屋さんの店の裏口から入って、家賃を払いに行ってた。

次に移ったのは、北柏駅が最寄りの大きな農家が大家さんの借家だった。風呂付きで、四畳半、六畳の一人暮らしには充分広い一軒家だった。

庭があって、その先は畑が広がっていた。ときどき、大家のおばあさんが、

「これ、食べるかい。」と言って、野菜を持ってきてくれた。

 

そのうちに、横浜にいる父が、千葉に引っ越すから一緒に住む家を探すように、言ってきた。

それで、何ヶ所か探して、北小金本土寺近くに住むことになった。

2階の六畳間が、私の城になった。間もなく、四方の壁は本棚で埋められることになる。

この部屋で、本を読み、音楽を聴き、テレビを見た。

この部屋から、千代田線沿線の居酒屋に出かけ、山行に出かけた。

 

子どもの頃から、マンガが好きだったので、漫画も買い集めた。

「明日のジョー」や「俺は鉄平」、「がんばれ元気」は、全巻そろえていた。

 その頃はテレビもよく見ていた。

大草原の小さな家」が、気に入っていた。

このシリーズは、第9シーズンまであるそうなので、私が見ていたのはどのへんなんだろう。

このテレビドラマは、ローラ・インガルス・ワイルダーの自伝的小説が原作である。

ローラとメアリーの姉妹を中心に、両親とともに西武開拓時代のアメリカを舞台に、永住の地を求めて、ウィシコンシン州、ミネソタ州サウスダコタ州と移り住む物語である。

西部開拓が進行中の時代なのでいろんな問題がある。その中で、姉妹が成長していく。

そして、シリーズの終盤では親元を離れて進学していたと思うが、その頃のは見てない。

このテレビドラマで、私の記憶に一番残っているのは、親たちが集まって、学校の先生の採用について話し合ってる場面だった。

言ってみれば、あれは教育委員会なのかもしれない。

何もないところに、町をつくり、学校を作っていく。

その感覚が、アメリカには今でも残っているのか、と思った。

 

日本だと、税金は取られるという、感覚である。

源泉徴収で、知らないうちに給料から税金が引かれてしまっているというのが、日本の感覚なのだ。

アメリカでは、自分の収入を自分で申告して、自分で税金を納める、という意識があるとどこかで聞いた気がする。

学校も、自分たちが作って、先生を雇っているという感覚が、根本的なところにあるのではないだろうか。

 

このテレビドラマシリーズは、日本では1974年から1983年に放送されている。

私は、たぶんそのうちの2、3年分しか見てなかったと思う。

それから、10年以上経って、原作本を読む機会があった。読み始めたら止まらなくなった。

最終的には、シリーズのほとんどを読んだ。

新天地を求めて 、幌馬車で旅を続ける。

そして、定住した土地で自給自足の生活を始める。何でも、自分で作る。

同じように、農村で育った私にとっては、そういう生活はとても身近に感じられるものだった。

1870年代から1880年代が物語の時代である。

日本は、明治の初め頃の時代である。

日本が明治維新で新しい日本をつくろうとしていた頃、アメリカは西部開拓の時代だったと思うと、何か不思議である。

 

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いなのなかみち⑩ 菅江真澄テキスト

十一日 塩尻のうまやに近う、阿礼ノ神社のありけるに、けふなんまうでんとて、ひるつかたまうでしかば、かうがうしく御籬の狗のむくつけげに、すさまじう冬のけしきたつ風に、あられいざなはれて、みてぐらの社の軒うつ音、杉の青葉にこぼれかゝりて、にぎてはらはらと音せり。

 

   霜やたびおけどもさらに杉の葉の色もかはらであれのみやしろ

 

   奉るぬさとちりにし栬葉のつもればやがてはらふ山かぜ

 

潮尻のあなたに、以の字山といふいたゞきも見えず、雲のいたくかゝりて、くらかりければ、はつ雪やふりこんといふ。

 

   伊の字山みねも麓もかきくれてかゝれる雲や雪気なるらん

 

十二日 山の紅葉さかりにそめたるを、ひとり、ふたりして見にゆきしかば、幽なる山中にをのうつ音して、又うち枝などあまたとりて、おひ出たる翁あり。

 

   柴人はおしむ心のいろもなくつま木に手折みねのもみぢ葉

 

十三日 紅葉がりありくに、ほうし車をとどめてと、からうたのこゝろばへをいひて、これなんみほとけに奉らばやとて、いとよくもみづる、はぢ、かへでなど、折かへる法の師にかはりて、

 

   からにしき一むらおらんきさらぎの花よりも猶峰のもみぢ葉

 

十四日 夜辺、長興寺の前なる杉むらを行ほどに、そら冷しく風吹おこり、さと、うちしぐるゝ音すれど、もりもこざりければあふぎて、

 

   行ほどは袖こそぬれね小夜しぐれ一村風に杉の下路

 

十五日 蘆の田とていと近き村にある寺の、糸桜とて世にめでたき木の、このごろの風に吹折しなど人のかたるに、

 

   山かぜのつらくも折しいと桜くるとも春のおもひたえなん

 

廿一日 砂田〔いさごたとよみて式内の御神なり〕のかん社は松本のほとりに在り。

此日御柱のがんわざありけるに、まうでんとていづる。

このをこなひは諏訪のみやしろをはじめ奉り、いづれのかん社にても七とせにひとたび、卯日、酉日にさだめたるかんわざにして、こと国に聞えぬためし也とか。

けふは卯の日にひとりて、此三宮〔砂田の社を、さんの宮といふ〕の御柱は立ける也。

行みちの木草は夜な夜なの霜にくち、ちりのこりたる柞原、山かぜにむらむらと吹いざなはれて、みちふりかくせど、こゝらまうづる人のむれ行をあないに分れば、つかりにたぐふ名の小河ありければ、たはれたる例のながめを、

 

   しがらみにかけつながれてくさり河うかぶ木の葉にさび渡ぬる

 

雪のふりつもりたるたかねに、雲のきほひか\りたるやま〆ヽ時雨央て、はれみはれずみ、ふきもてゆく空に虹の引わたるかたは、とりはなちがだけとて、つねに鶏のすめればしかいへど、まことの名は有明山といふとなん。

このたけもやがて時雨ぬべう見えたるこそ、

「かたしきの衣手寒く時雨つゝ有明山にかゝるしらくも」

と、後鳥羽院の御ながめに聞え給ひ、

「科野なる有明山を西に見てこゝろ細野の路を行かな」

とは、面行法師のながめありけりなど人のかたり行に、返しとへば、其山の麓、細野てふ村より来りけるものとこたふ。

やをらひろ前にいづれば、かの、おし立る柱のたけは五丈七尺にたれるに、大綱、小つな西ところに付て、其綱どもを高き木のうれごとにひきかけて、引あげんもふけをしたり。

まづ此木を伐らんとて七とせのさきつとしより願ひかねとて、釘、がすがびやうのものをうちおきて、みはしらの料とさだめて、杣やまかづらもをのうちもらし、こたびぞ伐て太山をば曳いだしける。

がくてそなへ奉るに、たくみひとり出て、てをのところ/\"にほと/\とあてて、うちきよめてさりぬ。

かしこの木のまたには、あなゝゐたかくゆひあげて、男ふたり、みたり、紅のたのごひをよこはちまきとし、さいはひふり、ほうしとり、この声をはかりつゞみにあはし、綱よつながらあまたしてひけば、したよりは、さすてふものしてさゝげあぐるに、さえわたるかんな月の空に、身にあせしておしたつるを、見る人、そのむかしは、ひくつなきれて人あまた身をあやまち、身まがれるもありたりし。

木の枝やさけん綱やきれなん、いざあなたにうつりいなんと、ことかたにひきはなれむれたつを見て、いな、さることはつゆあらじ。

いちのつなには神ののりておましませば、身のさうじよからぬ人こそしらね、うちとのきよらなるこゝろしては、いさゝかのとがめあらんかはとて、みしろぎもせで、ひとり御柱のよこたふしたにふりあふぎたるは、しれものかなと人ごとにゆびさし、男女、をざなき童をかゝへて、とくにげさりて、こと処に集ふ。

ほどなうおし立てければ、又ひとつの柱もひきあげて、みつながら、ゆめことなうたてたるとき、みなしぞきてけり。

かくて神のみまへに、

 

   うなひめがひろふ落穂も山となる栄を祈れいさごだのみや

 

をちのみやとて神の御座ありけるに、松の植しを児て戯歌。

 

   ちよかけてはぐゝみ給へをちのみや植し小松のをひさきも見ん

 

こよひは和田といふ村にやどかりぬ。

やのぬしのいはく、こたびのおんはしらは、よつながら、ことなうたちぬ。

あるとしの御柱は人あやまち侍るゆへ、こんとしにて七とせにあたれど、これをことしぞし侍るは、さるためしよからねば也と、かたらひて更ぬ。夜とともに林のおち葉、霰うちまじり、板ひさしうつ音、風とく、木の枝もをれぬベう聞えたる音に、ねざめしてきけば、あられいよゝをやみもやらぬに、

 

   山かぜのあられさそへばたまくらの夢もくだけて明ぬこの夜は

 

つとめてこゝをいづるに、水代といふ村の河辺のみちを行に、

 

   うすらひのしたをくゞりて水しろの河瀬の浪の行なやみぬる

 

雪ふり来て、さしてん行末も見えず、道もまどひつべし。

 

   かれ/\゛にあるかなきかのみち芝の色もかくろふ今朝のはつ雪

 

霜ふり月朔日 永通がやのちか隣に、けさの雪のながめせんとて、人々まどゐしけるときけど、ここちそこなひて、えしもいかで、ふしながらいひやる。

 

   あとつけて見まくぞほしきあしがきのあなたにつもる雪のことの葉

 

二日の旦 甲斐、信濃のあはびにありける八箇嶽とて、雪いとしろう見やらるゝをかぞへ立て、戯れうた。

 

   雪つもるたかねはいくつ八がだけこゝに見やるもとをきさかひに

 

四日 あさとく、田づらのみちに在りて、

 

   苅あげしおくてのくちねうすらひのとづるおちぼにつもるあざじも

 

十二月十日 よねつかん料に、車やをいとなみつくりけるを見つゝ、ながめたり。

 

   山河の音はさゆれどいとまなみ水車井の露もこほらぬ

 

十五日 雪いたくふりたりけるあした、ほどちかき、あしの田村なる、わかみや八幡のおほん神にまうでぬ。

このおほん神は、石の雄元をひめて、かくなんまつりたてまつると人のいへば、をはしかたてふことを句ごとのかしらにおきて、

 

   おましさへはつかに埋むしら雪はかみのみまへのたむけなるらん

 

 

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利根川サイクリングコース

毎日、いい天気が続いている。久しぶりに、自転車の出番だ。

江戸川の土手のサイクリングコースは、両岸とも完全につながっている。

ところが、利根川はところどころで途切れたり、砂利道になってる所があるらしい。

今までのところ、利根川のサイクリングコースで走ったのは、布佐から印旛郡栄町の長豊橋までである。手賀沼から手賀川に沿って利根川に注ぐ布佐まで行って、そこで利根川の土手に出ていた。

どうも、利根川サイクリングコースは、野田市柏市の境である利根運河のあたり、柏市我孫子市の境のあたりで途切れているらしい。地図を見ても確かに繋がっていない。

どうして、こんなことになるのだろう。

 

利根川下流を今まで走ったので、上流の方も走ってみようと思う。上流といっても、柏より上流ということで。

江戸川の土手は、自宅から自転車で30分くらい走れば、流山橋に着ける。

利根川の土手は、地図を見てもかなり遠い。

大利根橋のあたりが行きやすそうである。

そこで、とりあえず利根川の土手に着くことを目的に出かけることにした。

 

自宅を出発して、新柏駅を過ぎ、柏レイソル柏サッカー場の交差点で、国道16号線方向に右折する。

国道16号を渡ったら、柏ふるさと公園で、大堀川を渡る。

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大堀川

右手に、手賀沼が見えてくる。

さらに進んでいくと、手賀沼がすぐ近くに見える。

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手賀沼が見える

交差点で左折し、国道6号線方向に北上する。

国道6号を渡り、布施弁天への追分の交差点で住宅街の道を進む。

先日調べた布施城跡にあるという葬祭場を通って土手に出ることにする。

進んでると、高校生の一団とすれ違う。

葬祭場に隣接する県立高校の生徒らしいので、方向はまちがいない。

坂を下ると、高校のグランドと葬祭場の建物が見えて来る。

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視界が開けて、茨城県が見える。遠くに、筑波山がある。

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手前には、利根川の土手が二重にあり、その間に農地がある。

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保育園児もお散歩してた

利根川の堤防は、二重に築かれている。第一の堤防が、本来の堤防であり、川があり、河川敷があり、そして堤防がある。かつては、その外側に農地があり、集落があったと思われる。

しかし、その後第二の堤防が築かれている。たぶん、長年の洪水との戦いの結果だと思う。

第一の堤防と第二の堤防は、数百メートル離れている。その間には、農地はあるが、住宅はなかった。

第二の堤防を築いた時に、住宅や集落は第二の堤防の外側に移転したのだろう。

かつての集落であったろう跡地があった。周囲より1メートルほど高くなっており、石垣で囲まれていた。

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集落の跡地の中央には道路が通っていて、多くの樹木が植えられていた。井戸と思われるものもあった。

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放棄された集落跡

第二堤防の上に登ってみると、利根川の流れがあり、その向こうは茨城県である。筑波山もよく見える。

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堤防の上はサイクリングコースになっている。

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大利根橋の方向へ走ってみた。橋の下を潜って再び堤防の上へ出ると、すぐに舗装は終わって、砂利道になった。自転車で走るのは、危険である。

ここから、我孫子市方面には、サイクリングコースはつながっていない。

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反対の野田市方向は次回走ってみようと思う。

サイクリングコースは、利根運河方向には続いているが、野田市方向とは繋がっていないようだ。利根運河につながっているということは、江戸川のサイクリングコースに出られることになる。

そうすれば、この利根川サイクリングコース、利根運河サイクリングコース、江戸川サイクリングコースと乗りついで、ぐるっと回ることができるかもしれない。

 

大利根橋からは、布施弁天はすぐ近くである。せっかくなので、お参りして帰ることにしよう。

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プラモデルを作っていた頃

孫娘が、プレゼントでもらったラジコンカーで遊んでいた。

車体は、チョロQを何倍かにしたような感じなのだが、機能は今どきのものなのでなかなかすごい。

まず、スピードが速い、その場で回転できる。

バッテリーは、USB充電で、25分間動く。

障害物回避モードは、ルンバのように何かにぶつかりそうになると方向を変える。

パストラックモードは、黒いペンで描いたコースをたどって走る。特別なコースはいらない。

フォローモードは、色付きのものを追いかける。白いビニールボールが付属でついていたが、薄い色なら他の色のものでもいいようだ。

制御距離20メートルとなってるので、大人でも楽しめそうだ。

 

考えてみたら、私の子ども時代、50年、60年前にも似たようなものはあった。

もっとアナログだったけど。

私の小学生時代は、昭和だと30年代後半、西暦だと1960年代前半くらいだ。

言ってみれば、有線リモコンかな。無線もあったが高価で子どものおもちゃではなかった。

レーシングカーというのが、あったな。

8の字の2台用のレースコースがあって、コースに付属したコントローラで操作する。

電源は、コースに沿って配線されたレールから取る。

街のデパートへ行くと、大きなコースで走らせることができる。

探せば、今でもコースはあるんじゃないかな。

テレビで、見たような気がする。

 

飛行機だと、Uコンというのがあった。

飛行機の翼にワイヤーがついていて、Uの字型のコントローラにつながっている。

飛行機のプロペラが回転するので、コントローラを振り回して飛行機を飛ばす。

なんとも、アナログな世界である。

 

とはいうものの、このようなものは私にとってはあこがれだった。

実際に、遊んだことはない。

いなかの子どものおもちゃとしては高価すぎた。

テレビのコマーシャルや少年サンディーの広告で見ていた。

身近にも、持ってるやつはいなかった。

 

私が、やっていたのはプラモデルを作ることだった。

その頃の男の子に人気だったのは、戦闘機や戦艦だった。

戦闘機だったら、ゼロ戦や隼、疾風、紫電改、飛燕。

グラマンとかメッサーシュミット、という名前も覚えている。

戦艦だったら、誰でも知ってる大和や武蔵。

デパート主催のプラモデルのコンテストかなんかで入選して、賞品にプラモデルをもらった記憶がある。

 

以前にもこのブログに書いたけど、この頃の時代って不思議だと思う。

終戦後十数年しか経っていなかったのに、少年漫画雑誌は、戦争漫画がいっぱいだった。

しかも、舞台は太平洋戦争である。

子どもだった私は、ただ面白くて読んでいたけど、出版社や漫画家たちはどうだったんだろう。世の中は、これをどういうふうに見ていたのだろう。

ちばてつやさんや、そうそうたる漫画家たちがそういう作品を描いていた。

この時代は、いったいなんだったのか知りたいなと、ずっと思っていた。

でも、そういう文章に出会ったことがない。

そういうことを言っているのを聞いたこともない。

 

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柏市の城跡

この数ヶ月で、根木内城址(松戸市)、前ヶ崎城址(流山市)、小金城址(松戸市)を訪ねた。

私は、柏市に住んでいるのだが、流山市松戸市の境界に近いところである。

流山市は徒歩で10分ほど、松戸市は徒歩で20分くらいで行くことが出来る。

私の住む東葛飾には、多くの城跡があるが、ほとんどは平山城といわれるものである。平野にある山や丘陵に築城されたものである。自然の地形を生かして、空堀や土塁を廻らしている。

もちろん、建物は残ってないし、石垣などもほとんどない。想像力を働かせなければならない。

平山城は、戦国時代末期に現れたらしい。それ以前は、もっと険阻な山に築城した山城だった。

山城には、何ヵ所か行ったことがあるが、高い山自体が城になっているので、下を見下ろす感じで、すごい迫力のあるものである。

 

次に訪ねたい城跡を、探してみようと思い、歩いて行けそうな城跡を見ていた。

柏市内(沼南町と合併前)の城館跡は次のとおりである。

増尾城跡 幸谷城(館)跡 戸張城跡 戸張用替城跡 高田城跡 松ヶ崎城跡 布施城跡 大室城跡 猪ノ山城跡

 

増尾城跡は、城址公園として保存されているので何回か行ったことがある。駐車場もあるので便利である。

距離を調べたら思ったより近い。歩いても、1時間かからないで行けそうだ。

増尾城址公園は、総合公園になっていて、城址部分はほとんどそのまま残っていて、さらにそれ以上の広さの森がアスレチックやキャンプ場として整備されている。

とても、気持ちいいところである。

 

幸谷城跡の幸谷という地名は知らなかったのだが、増尾城跡から500メートルほどのところにあるようだ。山林の中に土塁や空堀の痕跡は残っているらしい。

見ることができるのかなあ。

戦国時代以前の居館であっただろう、というのが専門家の見解らしい。

増尾城址も幸谷城館跡はも、近くを大津川の支流が流れている。

 

戸張城跡と戸張替城跡は、以前に妻と散歩で近くまで行ったことがある。

近くに、高校や大学のキャンパスがあり、かつては手賀沼を望めたであろう高台にある。

城跡と思われる場所は、私有地になっていて塀で囲まれて見ることが出来なかった。

 

高田城跡には、二つの説があるらしい。

一つは、熊野神社の東側一帯の台地で、「東葛飾郡誌」に記載があるが、遺構は見られず、痕跡は残っていない。しかし、「殿内」などの地名があるそうだ。

もう一つは、市立柏第四小学校敷地とその東側の台地に土塁空堀などの遺構が残っていたとされるが、中央部を国道16号線が貫通し、台地の原型は失われて、城跡は全く残っていない。

しかし、いづれにしても、その近くを大堀川が流れている。

 

松ヶ崎城跡は、平成16年(2004年)に柏市指定文化財(史跡)に指定され、平成21年(2009年)から一般公開されている。

公開されてから、私も2回ほど行ったが、土塁と空堀に囲まれた曲輪や、虎口、土橋、門跡、などが残り、高台から市街の眺めも気持ちいい。

私は、20代の頃にこの松ヶ崎に1年半ほど住んでいたが、このような史跡が近くにあるのは知らなかった。当時は、整備もされておらず、ほとんど知られていなかったと思う。

 松ヶ崎の崎という字は、通常は陸地が海中や湖中に突き出した所、または山の出っ張った先端をいう。

松ヶ崎の場合は、干拓する前の手賀沼が松ヶ崎城跡のすぐ近くまで迫っていたはずなので、通常の意味の岬と同じような崎かもしれない。

 

布施城跡は、遺構はほとんど失われている。跡地は、「ウイングホール柏斎場」「県立柏高校」の敷地となっている。近くには、「御城」「中城」「外城」などの屋号を持つ旧家があるそうなので、それが城域の範囲を示しているかもしれない。

中世には、常陸川(現利根川)に面した要害だったであろう。この地域は相馬氏の拠点だったと思われ、古河・関宿方面と鹿島香取海・印旛方面を往来する船舶を掌握していたのだろう。

 

大室城跡は、現在の花野井の陸上自衛隊柏高射教育訓練場の敷地にあった20メートルほどの標高の丘陵であったが、削平されて消滅している。

隣接する東急ニュータウン柏ビレジ一帯にも、城に関係すると思われ地名が残っているので、城域はかなり広いものだったかもしれない。

 

猪ノ山城跡は、現在は柏市山高野浄化センターの敷地とその西側の雑木林が城域らしいが、明治時代に利根運河建設に伴って台地の大半が消滅したこともあり、遺構は見当たらないようだ。

 

柏市の城跡を、調べてみて気がついたことをまとめてみる。

城跡はだいたい舌状台地といわれる台地の先端にあることが多い。そして、近くを川が流れている。

城跡の近くには、香取神社があることがある。

香取神社鹿島神社は、ともに武神として崇敬されてきており、東葛飾の地域にも多くの分社があるが、特に香取神社は水運との強い関係があると言われており、元は低湿地だった所に分布しているようである。

柏市のうち旧沼南町地域を除いた地域にある城跡と思われる箇所は9ヵ所である。しかし、旧沼南町地域にはその倍の城跡があると思われる。旧沼南町地域に、城跡が多いのは干拓前の広大な手賀沼に面していたからだろうか。

 

 

 

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地方出版社はどうなってるんだろう

昨年(2019年)7月末をもって、崙書房(ろんしょぼう)が業務を終了し会社を解散した。

崙書房は、千葉県流山市で1970年に設立された出版社である。

設立当初は、千葉県、茨城県に関する文献の復刻版を発行、その後は、地域に根ざした題材を扱った書籍を発行してきた。

私にとっては、流山市在住の作家である山本鉱太郎氏の「新・利根川図志上下」、図書館で見つけて読んだ。これは、崙書房から発行されていた。自分の住むこの近辺の歴史を楽しんで読ませていただいた。

「江戸川図志」も出ているので、これから読もうと思う。

私の住む東葛飾で城跡を訪ねようとしたら、欠かせない書籍がある。

千野原靖方氏の「東葛の中世城郭ー千葉県北西部の城・館・城跡」である。これは、2004年に崙書房から発行されている。

同じく、私が何回も図書館から借りたり返したりしている書籍がある。

やはり同じ著者の「常総内海の中世ー地域権力と水運の展開」である。

その他にも、千野原氏のかなりの著作が、崙書房から発売されている。私にとっては、書名を見ただけで、読んでみたいと思わせるものばかりだ。

そんな出版社が、なくなってしまった。

解散の理由は、「存立基盤である読者や著者、街の書店が減少。そして後継者がいなかった。」と、社長の小林規一氏が述べていた。

 

1970年代、崙書房のように、地方の歴史や文化を出版によって盛り上げていこうという使命感を持って、出版事業に対する取り組みが日本の各地方で生まれていた。

私の郷里である秋田県にも、無明舎(むみょうしゃ)出版という地方の出版社がある。

無明舎出版は、1976年に設立されている。当初は、秋田県の自然、歴史、伝承、風俗などを題材とした書籍が中心だったが、現在では秋田県内にとどまらずに東北地方を題材とした各種書籍も刊行しているようだ。

最新図書目録というのを、見たのだが、驚いてしまった。

これだけの、ラインナップを地方の一つの出版社で出してるの、と思うほどすごく充実したものだった。

中央の大手出版社に負けてない気がした。

 

1976年に、地方・小出版流通センターが設立されている。これは、トーハン、日販などの大手取次会社の流通ルートに乗りにくい地方出版社の特色ある書籍や雑誌を都市部に流通させ、都市部の小規模な出版社の刊行物を地方に流通させることを目指したもので、設立当初180社、最盛期で全国1000社ほどが参加していた。

しかし、バブル崩壊や若者の活字離れのよる出版不況などで苦しい状況にあるらしい。その1000社は、今どんな状況にあるんだろう。

 

小規模な出版社というのが、日本の地方の文化を担っている現実があると思う。将来どうしたらそれを支えていけるか、考えてみる。

出版業も今までのやり方を、変えていく必要があると思う。

それには、図書館のあり方が重要な役割を果たさなければならない気がする。

日本で、出版したすべての出版物は国会図書館に納入しなければならないという制度があるって聞いたことがある。この発想をひっくり返して、出版社を支えるためにそういう制度を作るとどうだろう。地方出版社の書籍は、発行部数が限られるのでどうしても価格が高価になってしまう。

こうなってくると、私の願望と妄想になってしまうな。

図書館が、みんなの本棚として充実すれば、みんなの家に大きな本棚はいらないいんじゃないか。

極端かもしれないけど、図書館がもっと身近なものになればいい。

気軽に行けて、気軽に借りられる。

突き詰めていくと、デジタル図書館ってことになるかな。

そうすると、著作者と出版社と図書館の関係が難しくなる。

でも、いずれ突き当たる問題だと思う。 

 

 

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