晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

棟方志功の板画

棟方志功という名前を知ったのは、いつだろうか。

長部日出雄さんが、棟方志功さんを描いた「鬼がきたー棟方志功伝」で、文部大臣賞をもらったのが1979年である。

でも、長部さんが津軽三味線の世界に生きる若者たちを描いた「津軽三味線じょんがら節」「津軽世去れ節」で直木賞もらった頃には、棟方志功さんを知っていたような気がする。

あの、独特な棟方さんの版画を見たときに、ほんとに驚いた。

私が、高校生時代によく通っていた本屋さんの包装紙じゃなくて、本屋さんで本を入れてくれる紙袋は何ていうのだろう。包装袋(?)に印刷してあった絵だったからだ。

 

丸っこくて、豊満で、強そうな女性の版画だった。

そんなに、有名な方の作品だとは知らなかった。

「又久書店」という、大館の街では老舗の本屋さんだった。

すでに、1956年にヴェネツィアビエンナーレで国際版画大賞を受賞していたそうなので、版画の世界では第一人者だったのだろう。

一般的にはまだそれほど知られている人ではなかったと思うのだが、どうして大館の本屋さんで棟方さんの作品を使っていたのだろう。

書店は、2008年に閉店してしまったそうなのだが、棟方さんの作品は、いつ頃からいつ頃まで使っていたのだろうか。

 

高校の新聞部にいた私は、高校新聞の広告掲載をお願いに何回か伺ったことがあった。この頃で、一回500円くらいだったと思う。毎回掲載していたので、掲載の確認に行ってたのだ。

新聞が発行されたら、新聞を持って行って広告料をもらっていた。

広告は、他に和菓子の老舗のお店「島内」さんにもお願いに行ってた。その頃は、店内もとてもきれいで明るい感じだった。

大館という街の中心部にあって、まだ街が元気な時代だったのだ。

 

NHKのドキュメンタリー番組で、棟方志功を取り上げていたのだと思う。

厚い眼鏡をかけて、板に顔がくっつくぐらいに近づけて、版画を彫っていた。

津軽のねぶたや縄文の世界に近いような、独特な棟方さんの版画の世界。

その頃の作品にあったかな、

やまとは くにのまほろば たたなづく あおがき やまこもれる やまとしうるわし

という、倭健命の歌をモチーフにしたものがあった。

日本経済新聞から、「ワだばゴッホになる」という書籍が出ている。

この本を私は読んでいない。

でも、「ワだばゴッホになる」ということばは、棟方志功という人の代名詞のようにいろいろなところで使われている。

 

ずいぶん後になって、片岡鶴太郎さんが『志功の青春記 おらあゴッホだ』というドラマで、棟方志功さんを演じている。

棟方志功さんと片岡鶴太郎さんとは、何かイメージが重なるところがある。

鬼気迫るところ、意識を集中しているところ。

版画ではなく板画と称した棟方さんは、木版の特徴を活かしたものを作ろうとした。

私がまだ学生だった1970年に亡くなっている。

亡くなった後で、いろいろなところで取り上げられていたことになる。

 

 

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菅江真澄の旅と著作

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七夕の人形 いなのなかみち

菅江真澄は、天明8年(1783年)に郷里三河を旅立ち、文政12年(1829年)に秋田にてその生涯を終える。

生年は、宝暦4年(1754年)であるので、30歳で三河を離れてから、46年が経っていた。

真澄が、津軽領内から、再度秋田領内に入ったのは享和元年(1801年)で、それから晩年を秋田で送った。

郷里三河に帰郷した形跡はないように思える。

 

しかし、菅江真澄全集の編者である内田武志氏は、真澄は三河へ帰郷したと考えている。その根拠となるのが、「百臼乃図」である。「百臼乃図」の内容は、三十を越える臼の絵と、伝承などを古書などから引用している。

「百臼乃図」は、神に仕える家柄である真澄が、臼は単なる器具としてではなく、祭具として観察したものと、内田氏は考えている。この図絵集に収められている臼の所在する地域などを考えると、三河に帰郷する際に各地の臼を訪ねたものとしか思えないということである。

 秋田から三河まで帰ったとすると、陸路を使ったにせよ、海路を利用したにせよかなりの日数を費やしたことのなる。

さらに、各地の臼を見て描写したとすれば、それ相応の日数を要しただろう。 

 

古今、旅をして紀行文という形で多くの方が記録を残している。

菅江真澄という人が、そのような人たちと違っているところがある。

文章や歌とともに、図絵が多く使われていることである。

そして、その対象が名所旧跡だけではなく、ふつうの庶民農民の生活、行事、村の風景などであること。

さらに、通常の旅人なら興味を持たないような農具なども詳細に観察している。

「百臼乃図」なども、いかにも真澄らしい著作だと思う。

著作の多くの部分を占めている図絵がなければ、真澄の著作が与える印象も違ったものになっただろうと思われる。

 

菅江真澄全集」は、未来社より、内田武志氏と宮本常一氏を編者として発行されている。

第1巻は、1971年に発行されている。本巻12巻、別巻2巻の予定であったようだが、別巻第2巻「索引」は、刊行されなかったようである。

内容は、次のとおりである。

第1巻 第2巻 第3巻 第4巻  日記

第5巻 第6巻 第7巻 第8巻  地誌

第9巻  民俗・考古図

第10巻  随筆

第11巻 第12巻  雑纂

別巻  菅江真澄研究

各巻とも500ページ前後であり、巻頭に写真ページを含んでいる。

 

菅江真澄の著作を、絵図をも楽しもうとすると手書きの原本が必要だが、いくつかの図書館で、デジタルアーカイブとして提供している。

秋田県立図書館と大館市立図書館については、下記のリンクをクリックするだけで、菅江真澄の作品を楽しむことができる。

特に、大館市立図書館のコレクションは、多様な菅江真澄の作品が揃っていて、扱いやすい。

国立国会図書館については、単に「菅江真澄」で検索すると真澄の著作以外に、多くの研究書なども結果として出てしまうので、工夫が必要かもしれない。

秋田県立図書館デジタルアーカイブ・菅江真澄遊覧記

大館市立図書館 菅江真澄作品集

国立国会図書館デジタルコレクション

 

 

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ふるさとは遠きにありて

私は、10棟の集合住宅からなる150戸ほどのこじんまりした団地に住んでいる。

入居した当時は、30代だった。まわりは、同世代かもっと上の世代だった。

私の知ってる限りでは、ほとんどが日本各地出身の方である。

職場は、半分か3分の1が地元か県内で、その他は全国出身という感じだった。

北海道もいれば、九州もいた。

この辺の地域自体が、東京のベッドタウンという感じなのだ。

 

妻の両親は、2人とも東京生まれ東京育ちだった。

でも話を聞いたところでは、その父親が若い頃に東京に出てきたらしい。

妻にとっては、おじいちゃんだから、ずいぶん昔のことである。

妻の父の方は、九十九里の成東がおじいちゃんの実家だと言ってた。

旅行で成東のあたりを、通った時にこの近くだ、と言っていた。

妻の母の方は、茨城の石下がおじいちゃんの実家だった。

ここには、おじいちゃんの何十周忌かの法要で行ったことがある。

東京にいる親戚たちと車を乗り合わせて行った。

まわりは、田んぼのある田園地帯だった。妻の母は、戦時中に疎開で何年か来ていたらしい。

よく、その頃の話しをしていた。

明治や大正の頃は、関東近辺の県から東京へ働きに行っていた。

それが昭和になって、日本全国から人が集まるようになっていく。

 

私の父と母も、秋田から東京や川崎に来ている。

戦前から戦中にかけてである。

秋田の田舎には、仕事がないので、仕事を求めて都会にやってきたということになるだろう。

それは、戦後もずっと続いてるってことだな。

そして、私もその中にいる。

 

私は、18歳で秋田を離れている。

それから、50年になろうとしている。

「自分は秋田の人間だ。」という気持ちで、ずっと生きてきた。

でも、考えてみると秋田のことをよく知らない。

秋田にいた頃の、私の行動範囲なんてほんとに狭いものだ。

一番近い観光地である十和田湖にも行ったことがなかった。

家族で旅行なんか行ったことがないのだから、ほとんどどこも行ってない。

十和田湖は、20代の頃にひとりで東北の山を登り歩いていた時に、八甲田山に向かう途中、初めて行った。奥入瀬渓流がきれいだった。

 

秋田とひとことで言うけれど、秋田は広いと思う。

日本海に面した海岸部と、内陸部があるし、内陸部にも山間部がある。

中央部に山地があるので、北部と南部が分断されている。

私は、東西に流れる米代川の支流岩瀬川沿いの村で育った。

北部も、岩手県に近い鹿角という地域は歴史的に盛岡藩が統治していたので複雑である。

地元についてでさえ、戊辰戦争の際に、奥羽列藩同盟から脱落した秋田藩と同盟側の盛岡藩と、大館や米代川に沿って行われた攻防で大館の街がほとんど焼失したというような歴史も、ずっと知らなかった。

まして、南部の方については、よく知らないし、あまり行ったことがない。

南部は、雄物川が真ん中を流れてるのかな、くらいの知識だ。

しいてあげれば、

乳頭温泉に泊まって、秋田駒ヶ岳に登ったことがある。

鳥海山に登ったあと、象潟に泊まったことがある。

秋田の姉のところに家族で行った帰りに、秋田市方面経由で帰ったことがあった。秋田空港に近いプラザクリプトンというホテルに泊まった。秋田県森林学習交流館というおもしろいところだった。

大曲に伯父さんが住んでいて、法事などで会うたびに「大曲の花火見に来るといいよ」と誘われていた。行きたいなと思いながら実現してないな。

 

考えてみたら、角館も行ったことなかった。

久保田城も復元されているようだ。かつて、行った時は城跡だったような気がする。

南部の方には、支藩とかもいくつかあったし、城下町もある。

秋田藩の館というのもいくつかあったはずだ。

歴史好き、お城好きの私としては行ってみたいところがいっぱいある。

 

 

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1月1日

私は、秋田で育ったので正月は雪の中だった。

雪が多いので、1月20日くらいまで冬休みだった。そのかわり、夏休みは短かかった。

子どもの頃のことを考えていたら、1月1日は登校日だったことを思い出した。

でも、小学校低学年くらいまでだったような気がする。

全校で、校長先生の話を聞いて、紅白のお饅頭をいただいて帰ったと思う。

そのほかは、あまり記憶がない。

雪の山道を学校まで30分くらい歩いて、行って、帰ってた。

 

正月の登校日って、いつ頃まであったのか、気になって調べてみた。

そうしたら、谷村新司さんが、ラジオで1月1日が登校日だったと話してるのを聞いた、という投稿があった。

谷村さんは、私より5歳年上で、大阪で育っている。

私は昭和35年に小学校に入学しているが、谷村さんは昭和30年頃に大阪で小学校に入学していることになる。

正月の登校日は、都道府県によって違うみたいだが、早いところで昭和20年代、遅いところでも昭和40年頃には、なくなったようだ。

戦前は、特別な儀式のための登校日だったらしいが、私の頃はふつうの登校日だった。

 

正月は、1日は出歩くものではないと言われてたので、静かにしていた。

2日に、父の実家と母の実家に年賀のものを届けるのが、末っ子の私の役目だったのでお使いに行っていた。

行くと、お年玉をもらえるので、毎年せっせと出かけていた。

私の田舎では、お年玉をあげることを、「馬っこ乗せる」という。

馬に乗せることが、どうしてお年玉をあげることになるのか、よくわからない。

「うちは、痩せ馬だから。」と言って、くれたりした。

もともと、日本では正月には子どもにおもちゃをあげる風習があったようなので、馬乗り遊びをしてあげる代わりに、おもちゃ代としてあげるということだったのかもしれない。

 

母の実家の道路向かいには、なんでも売ってる商店があった。万屋(よろずや)といわれる、今のコンビニの原型みたいなものである。

だいたい、どの村にも一軒くらいはあった。

お年玉は、そういうところで使っていた。

食べ物とかおもちゃが当たるクジがあって、人気があった気がする。

 

小学校高学年くらいになると、バスに乗って街まで出掛けて買い物をした。

プラモデルは、どこで買ってたんだろう。デパートかな。

文庫本は、又久書店という本屋さんは覚えている。

音楽に興味を持ち始めて、ウクレレを買ったこともある。

楽器屋の記憶はないので、これもデパートかもしれない。

 

田んぼの真ん中にあった我が家は、冬は真っ白な雪景色の中だった。

そこで、凧揚げをやっていた。

まわりには、じゃまになるものが何にも無かったから、気持ちよかっただろうな。 

 

  

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BabyMetal

BabyMetalを、ご存知だろうか。

私は、2014年に知った。

退職を翌年に控えていた時なので、よく覚えている。

ヤフーニュースを見ていたら、レディ・ガガから、日本のアイドルグループに前座のオファーがあった、という記事があった。

記事は、BabyMetalというグループがレディ・ガガの前座をやるというものだった。

リンクを見たら、YouTubeになって、イギリスの「ソニスフェア・フェスティバル」というロックフェスティバルでの、BabyMetalのライブ映像が出てきた。

3人の日本の女の子が、白装束白塗りのロックバンドをバックに、日本語で歌って踊っていた。ロックバンドは、かなりヘヴィでハードな演奏である。それに対して、女の子たちはハードに走ったり踊ったりしていたが、歌は特にヘヴィではなかった。でも、演奏に負けてはいなかった。

「イジメ ダメ ゼッタイ」という、不思議な曲をやって、大観衆の“We Want More"という大歓声の中、”See You" と言って、退場していった。

なんだこれは、と思った。かっこいいじゃないか。

それ以来、YouTubeを見るようになった。

その1ヶ月後くらいに、カナダの「ヘヴィ・モントリオール」という、ロック・フェスティバルにも、BabyMetalが登場していた。

やっぱり、ここでも大観衆に受けていた。かっこよかった。

 

私は、かなり音楽好きなので、それなりに音楽に関する情報はある方だと思っていたが、私の情報網に、BabyMetalは引っかかっていなかった。

そのうちに、年末になって、NHKが、BabyMetalのスペシャル番組をやるというので、録画して見た。

「BABYMETAL現象」という番組だった。

ロンドンでのライブ映像を中心に、ファンや音楽関係者へのインタヴューなどを交えた、いい番組だったと思う。日本では、一般的にはほとんど知られてないけど、ロンドンには、ライブ会場5000人が埋まるくらいファンはいる。今は、そういう時代なんだな、と思った。

この年の春に、BabyMetalは、武道館で、二日間のコンサートをやっていた。でも、知る人ぞ知る、なんだな。私も、知らなかったし。

 

BabyMetalは、アミューズという会社に所属している。

アミューズには、福山雅治サザンオールスターズもいる大手の会社である。

BabyMetalは、バンドではなく、プロジェクトである。

BabyMetalのプロデューサーである小林さんという方の、インタビューを読んだことがある。

BabyMetalは、ミュージカルのようなものだ、と言っていた。

一つのショーのために、ストーリーや作曲者、出演者、演奏者などを決めて集める。

コンセプトとして、J POPとメタルの融合するとも言ってた。

小林さんは自体、もともとメタルの人で、人事異動でアイドル部門に移ったらしい。

まあ、日本はあまりジャンルにはこだわらない。

おもしろくて、かっこよければ、なんでもありだ。

 

NHKは、「BABYMETAL現象」の2年後にも、BabyMetal特番を作っている。

2016年の「BABYMETAL革命〜少女たちは世界と闘う〜」である。

これは、NHKでのスタジオライブとマーティ・フリードマンとの対談を中心にした番組だった。

NHKにとっては、BabyMetalはずっと注目してきた対象だったのだと思う。

今回の紅白歌合戦という番組が、どんなものになるかは少し興味がある。

 

 

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北の国から

大草原の小さな家」をみていた頃、「北の国から」も見ていた。

北の国から」は、リアルタイムではなく、再放送を録画して見ていた。

友人に、「北の国から」は、とてもいいよ、とすすめられたからだ。

たしかに、おもしろかった。夢中になって見ていた。

1981年から1982年にかけて、24話放送されている。

ずいぶんと評判になったドラマなので、つい誰でも知ってるような気がしてしまうが、当時でも、視聴率は10%台、最終回で20%を越えたらしい。

その後のスペシャル版になって、少しずつ視聴率が上がっていった。

高視聴率といっても、10人のうち2人見てる計算である。言い方を変えると2人しか見ていない。しかも、40年も前の話である。

いくら、評判だ、人気だといっても、映画もテレビもそういうものだと思う。誰でも、知ってる訳ではない。

 

このドラマの脚本を書いた倉本聰氏は、1974年に北海道に転居し、1977年に富良野に移っている。

東京で育ったという倉本氏にとって、なぜ北海道だったのかという気はする。北海道の冬は、大変だったんじゃないのかな。

 

北海道富良野出身の、田中邦衛の黒板五郎が、妻と離婚して、純と蛍という二人の子どもを連れて東京から富良野に戻ってくる。

吉岡秀隆の純は小学4年生、中嶋朋子の蛍は2年生だった。

父親の五郎は、東京の生活に馴染めず帰って来るが、二人の子どもたちもなかなか富良野の生活に馴染めなかった。

私の記憶によればドラマは、純のモノローグで始まる。たしか、東京にいる同級生の女の子への手紙のかたちになっていたと思う。

不器用な父親と2人の子どもが、富良野での生活で成長していく様子を描いていた。

 

放送終了後は、数年ごとにスペシャル版が放送されている。

子どもたちは、父親のもとを離れて自立していく。

2002年の8回目のスペシャル版で製作終了になった。

スタートから、20数年経っていたので、純と蛍は30歳前後で、ドラマは終わったことになる。

私などは、純と蛍が小学生のかわいい頃から見ているので、その後テレビなどで見ても、成長を見守る視線になってしまう。

ずっと同じスタッフで作っていたので、スタッフの高齢化と長期ロケによる高額な製作費のために製作が困難になったということだ。

 

連続ドラマとスペシャルでの出演者のリストを見ると、壮観である。

亡くなってしまった人も多い。もう、40年経ってるんだ。

大滝秀治地井武男、大友柳太朗、小松政夫伊丹十三蟹江敬三

倉本氏にとって「北の国から」は、ライフワークなんじゃないかな、と思う。

製作はできなくなっているが、倉本氏のインタビューや発言によると、彼の中ではドラマの構想はずっと続いているようだ。

純と蛍だって、50歳になる。田中邦衛さんは、88歳だそうだ。

いつか、それが実現するだろうか。

 

連続ドラマもスペシャル版も、その時に一回しか見ていない。

だから、記憶が曖昧なところもある。

もう一度、見返そうという気になれない。

音楽だったら、何回でも聞けるのに。

ドラマや映画って、見返す気になれない。

そういうのは、自分だけなのかなあ。

再放送があっても、見ないと思う。

その時の、一瞬、一瞬がだいじなのかもしれない。

 

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綱島温泉は東京の奥座敷

学生時代、東急東横線の沿線に住んでいた。

東急東横線は、東急電鉄が運行する渋谷駅から横浜駅までの路線である。私が、利用していた当時は、横浜からさらに路線は延びていて桜木町駅が終点だった。

日吉駅付近に1年、隣の綱島駅付近に3年住んでいた。

綱島駅から徒歩10分ぐらい。

そこから、3、4分歩くと、鶴見川の土手に出ることができた。

眺めが良くて、気持ちいいところだった。

ときどき、散歩に行っていた。

でも、当時日本で一番汚染された川だった。

 

アパートにはお風呂が付いてなかったので、駅近くの銭湯に通っていた。

その銭湯のお湯は、赤黒いようなお湯だった。そういうものには、慣れていなかったので、はじめのうちは気持ち悪かった。

これは、「ラジウム温泉」というものだったらしい。

その銭湯は、休憩場のような広い和室があって、どうも昼はお年寄りたちが歌をうたったり、宴会のようなことをしているらしかった。

後になって知ったのだが、綱島というところは、かつては「東京の奥座敷」と言われる大温泉地だったという。

大正時代にお湯が出て、昭和初期には駅名も「綱島温泉駅」で温泉宿70軒、芸者100人以上だったと言うからすごい。

 

しかし、1964年の東海道新幹線が開通してから、状況が変わってしまったらしい。

熱海方面に客を取られてしまって、旅館も激減する。

私が、住むようになったのは1973年なので、旅館はチラホラあるかなくらいだった。

もう、「東京の奥座敷」の面影はなかった。

綱島は、渋谷からたしか40分くらいで行けたと思う。

浅田美代子さんが、子ども時代の思い出を語って、

綱島温泉によく行った、みたいなことを言ってた。

東京の人たちにとっては、身近な温泉だったんだろう。

銭湯の名前が、「東京園」だった。

 

就職が決まって、千葉の我孫子市まで行くことになった。

卒業式の直前に決まったので、アパートはなんとか決まったが、引っ越しが着任に間に合わなかった。

最初の1週間は、横浜から我孫子まで通った。東京を越えなければならない。

東急東横線綱島駅から中目黒へ、中目黒から都電の日比谷線で北千住、北千住から常磐線我孫子駅に到着する。

ところが、我孫子駅から勤務先までバス路線がない。

職場のみんなは車通勤だった。30分近く歩いた。

その後、近道になる道ができたけど。

まったく何もわからない新任で、定時で帰してもらったとはいえ、今考えるとよくやったものだと思う。

それが、スタートだったな。

 

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ナマハゲと獅子踊り

毎年暮れの頃になると、ナマハゲがテレビで取り上げられる。

年末の風物詩になっている。

ナマハゲは、秋田県男鹿半島周辺の年中行事に登場する仮面をつけ藁の衣装をまとった神の使い(来訪神)である。

角はあるが、鬼ではない。

家々を訪れ「泣ぐ子(ゴ)は居ねがー」「悪い子(ゴ)は居ねがー」と奇声を発しながら練り歩く。

江戸時代末期に秋田を訪れた菅江真澄は、その著書「牡鹿乃寒かぜ」では、「ナモミハギ」として著述している。「ナモミ」は、ヒダコのことであり、囲炉裏にあたっている怠け者のヒダコを剥ぎ取るということである。

同様の風習は、東北地方各地や、北陸地方にも存在するようだ。

 

私の育った村には、ナマハゲとは違うが「獅子踊り(ししおどり)」というのはあった。

どちらかと言うと、「獅子舞」に近いのかもしれない。

獅子踊りは、3頭の獅子が面をかぶって踊っていた。

伝統芸能は、他にもあった。

「棒術」は、棒を持って戦いのような踊りだった。

もう一つは、「奴踊り」で、扇を持って優雅に踊っていた。小学生の頃に、私も習っていた。

 

後年、宮澤賢治の詩を読んでいたら、「獅子踊り」が出てきた。

彼は、「鹿踊り」と書いて、「ししおどり」と読ませていた。

へえ、これでししおどり、かと驚いた。

 

    高原

  海だべがど おら おもたれば

  やっぱり光る山だたぢゃぃ

  ホウ

  髪毛風吹げば

  鹿踊りだぢゃぃ

 

鹿踊りは、獅子踊りよりも人数が多いようだった。7人とか8人とか。

お面は、獅子踊りに似ているが、鹿のように角が長くて枝分かれしているものもあった。

 

テレビの番組で、ヨーロッパにもナマハゲみたいなこわいのがあるってやってた。

確かに、怖いお面だった。

ドイツだったか、オーストリアだったか、あの辺はゲルマン神話かな。

似たようなものはどこでもあるんだな。

20代の頃、山室静さんの「北欧神話」と言う本を読んでいた。

日本人は、北欧神話が好きらしくて、マンガやゲームの舞台になってるみたいだな。

ヨーロッパには、ギリシア神話ローマ神話もあるんだよなあ。

日本は、キリスト教国にならなかったから、不思議な伝統芸能などが残っているけど、ヨーロッパはどうなんだろう。

そういう神話とかにつながりそうなのは、残ってるのかな。

それとも、異教的な匂いのするものは無くなってしまってるのか。

 

最近聴いている人間椅子というバンドの曲に「ナマハゲ」があった。

歌詞にナマハゲのことばが出てくる。

 

なまげものは いねが
泣いでるわらしは いねが

 

彼らは、隣の青森県出身だった。

 

だいぶ前に、BabyMetalの「Catch Me If You Can」という曲を聴いた。

かくれんぼと鬼ごっこを混ぜたような不思議な曲だ。

突然、バックのかけ声でナマハゲのことばが出てくる。

 

ナクゴハ イ・ネ・ガ!

ワルイゴ イ・ネ・ガ!

 

はじめは、何のことだかわからなかった。

そうか、ナマハゲだ。

でも、なんでここでナマハゲなんだ、と思った。

 

ナマハゲも、獅子踊りも、鹿踊りも

はじまりは、いったい何だったのだろうか。

今となっては、よくわからない。

でも、そういうものが残ってるのも、いいものだと思う。

 

 

大字(おおあざ)と小字(こあざ)って何だろう

子ども頃から、地図を眺めるのが好きだった。

地名にもとても興味がある。地図には、地名がなければならない。

だから、大字と小字があるのは知っていた。

最近は、住所を書いても、大字や小字という文字は省略されている。

大字や小字って何?という人も多いだろう。

私も、大字小字って何?と言われたら、地町村名の次にあるのが大字で、次にあるのが小字かな、くらいしか答えられない。

 

しかし、調べてみると、大字とは明治22年(1889年)の合併によって消滅した江戸時代からの村々の名、区画をそのまま新自治体が引き継いだもので、小字とはその村々の中の細かい集落や耕地を指す地名だそうだ。

なので、本来なら市町村名の後に来るのが、江戸時代からの村の名前であるはずなのだが、明治以後たびたびの町村合併などにより、必ずしもそういうことのはなっていない。本来の大字や小字が消滅していることもある。

 

私の住んでいる地域の住所は、柏市東中新宿4丁目である。

近隣の住所を見てみると、

東中新宿1〜4、中新宿1〜3、光ヶ丘1〜4、光ヶ丘団地、東山1〜2、西山1〜2、

酒井根酒井根1〜7、中原1〜2、加賀1〜3、

増尾増尾1〜8、増尾台1〜4、南増尾、南増尾1〜5、

つくしが丘1〜5、豊住1〜5、今谷上町、今谷南町、

といった、ところである。

 

明治22年の町村制への移行に伴う合併によって、次の新しい村々が誕生している。

①  土村  増尾、藤心、逆井、名戸ケ谷、今谷新田、根木内新田、小金上町新田、酒井根、根木内、中新宿、塚崎新田

②  千代田村・豊四季村組合  柏、戸張、篠籠田、松ヶ崎、高田、戸張新田、柏堀之内新田、柏中村下

③  田中村・十余二村組合  若柴、花野井、大室、正蓮寺、小青田、船戸、大青田

④  富勢村  根戸、宿蓮寺、布施、久寺家(南相馬郡)、

        呼塚新田、根戸村新田、松ヶ崎新田、柏堀之内新田(印旛郡)

東中新宿は、合併して土村となった中新宿村から来ている大字名と思われる。

私は感覚的に、光ヶ丘地区はすぐ隣なので自分の住んでる東中新宿と同じ地域だと思っていたが、歴史的にみると、東中新宿は、旧中新宿村で、光ヶ丘地域は、旧根木内村 か旧根木内新田村らしい。

なかなか、難しい。

その後、柏の市町村合併の状況は次のとおりである。

大正3年、千代田村・豊四季村組合の組合を解消し、千代田村となり、大正15年には、千代田村は町制を施行し柏町となっている。

さらに、昭和29年、柏町は土村、田中村、小金町と合併して市制を施行し東葛市(とうかつし)となった。その後、一部(いわゆる根木内地区)を残して旧小金町域は松戸市に移管された。富勢村の一部を東葛市に編入した。

東葛市は柏市に改称し、旧小金町のうち、柏市に残った一部地域は現在、光ヶ丘地区となっている。

 

私の住んでる東中新宿は、住居表示から小字が消えている。○丁目△番地□号というような表示になっている。中新宿についても、同様である。

かつて、どのような小字があったのかわからない。柏市のホームページを調べてみたが、中新宿や東中新宿について、いつ頃住所表示変更があったのかわからなかった。そして、その前はどういう状況だったのか、知りたいものである。

ただ、江戸時代寛文期(1661〜73)には、「中新宿村」ではなく、「新宿村」であったことはわかった。「中」の字がいつなぜ付いたのかは、不明らしい。もう少し詳しく調べてみたくなってきた。

昭文社発行の、ハンディマップル「千葉詳細便利地図」というコンパクトな地図帳を愛用している。それによると、近隣地区で、酒井根のまだ丁目表示になっていない所には、西ヶ原、西山、棒ヶ谷などの小字が載っている。

増尾も、堂谷、四斗蒔、鷲ノ山、丸山下、松山、中郷、本郷、宮根、辺田前、稲荷下、山下、篠塚、向根、上向根、葛ヶ谷、小山台といった具合だ。丁目制になってない所だけで小字がこんなにある。想像力を働かせたくなってしまう。

つまり、増尾の堂谷というところは、明治初期の時点では、増尾村の堂谷という集落又は耕地があったということになる。

 

字について、ネットで調べていたら、字が住所にあることを田舎の証拠であるみたいな文章が多くあった。

大字や小字をどう扱うかは、田舎とか都会とかという問題ではない。

地名はいったい、何であるかと考えるかだと思う。

地名は、生きた歴史だし、財産だと思う。それを、変えてしまったら死んだ歴史になってしまう。

人間の名前には、子どもに対する親の思いがあるように、地名には、その名前がつけられた理由がある。変えることによって、消えてしまうものがある。

 

 小字を意識的に残している市町村も現実的にあるらしい。

確かに、住居表示を丁目制にしたほうが、いろんな点で便利だし、楽だと思う。

でも、自分が番号で呼ばれたいか、名前で呼ばれたいかだよね。

番号の方がいいって言う人もいそうだな。

そういう問題だな。

 

 

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大草原の小さな家

私は、就職してから1年半くらいを我孫子市で、次に柏市で1年半くらいを一人暮らししていた。

我孫子のアパートは、我孫子駅から4、5分の肉屋さんが大家さんだった。平家建てで3部屋あって、それぞれに玄関がある不思議なアパートだった。言ってみれば、長屋かな。

肉屋さんの店の裏口から入って、家賃を払いに行ってた。

次に移ったのは、北柏駅が最寄りの大きな農家が大家さんの借家だった。風呂付きで、四畳半、六畳の一人暮らしには充分広い一軒家だった。

庭があって、その先は畑が広がっていた。ときどき、大家のおばあさんが、

「これ、食べるかい。」と言って、野菜を持ってきてくれた。

 

そのうちに、横浜にいる父が、千葉に引っ越すから一緒に住む家を探すように、言ってきた。

それで、何ヶ所か探して、北小金本土寺近くに住むことになった。

2階の六畳間が、私の城になった。間もなく、四方の壁は本棚で埋められることになる。

この部屋で、本を読み、音楽を聴き、テレビを見た。

この部屋から、千代田線沿線の居酒屋に出かけ、山行に出かけた。

 

子どもの頃から、マンガが好きだったので、漫画も買い集めた。

「明日のジョー」や「俺は鉄平」、「がんばれ元気」は、全巻そろえていた。

 その頃はテレビもよく見ていた。

大草原の小さな家」が、気に入っていた。

このシリーズは、第9シーズンまであるそうなので、私が見ていたのはどのへんなんだろう。

このテレビドラマは、ローラ・インガルス・ワイルダーの自伝的小説が原作である。

ローラとメアリーの姉妹を中心に、両親とともに西武開拓時代のアメリカを舞台に、永住の地を求めて、ウィシコンシン州、ミネソタ州サウスダコタ州と移り住む物語である。

西部開拓が進行中の時代なのでいろんな問題がある。その中で、姉妹が成長していく。

そして、シリーズの終盤では親元を離れて進学していたと思うが、その頃のは見てない。

このテレビドラマで、私の記憶に一番残っているのは、親たちが集まって、学校の先生の採用について話し合ってる場面だった。

言ってみれば、あれは教育委員会なのかもしれない。

何もないところに、町をつくり、学校を作っていく。

その感覚が、アメリカには今でも残っているのか、と思った。

 

日本だと、税金は取られるという、感覚である。

源泉徴収で、知らないうちに給料から税金が引かれてしまっているというのが、日本の感覚なのだ。

アメリカでは、自分の収入を自分で申告して、自分で税金を納める、という意識があるとどこかで聞いた気がする。

学校も、自分たちが作って、先生を雇っているという感覚が、根本的なところにあるのではないだろうか。

 

このテレビドラマシリーズは、日本では1974年から1983年に放送されている。

私は、たぶんそのうちの2、3年分しか見てなかったと思う。

それから、10年以上経って、原作本を読む機会があった。読み始めたら止まらなくなった。

最終的には、シリーズのほとんどを読んだ。

新天地を求めて 、幌馬車で旅を続ける。

そして、定住した土地で自給自足の生活を始める。何でも、自分で作る。

同じように、農村で育った私にとっては、そういう生活はとても身近に感じられるものだった。

1870年代から1880年代が物語の時代である。

日本は、明治の初め頃の時代である。

日本が明治維新で新しい日本をつくろうとしていた頃、アメリカは西部開拓の時代だったと思うと、何か不思議である。

 

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