晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

卒業式の呼びかけのことを思い出した

桜も散って、そろそろ入学式の時期が近づいてきた。

私は、先日書いたように小学校と中学校の併設校で育ってきた。

入学式も卒業式も、小学校中学校の合同でやっていた。

卒業式では、だいたいどこの学校も「呼びかけ」というのをやってると思う。

私の学校時代も、ずっと「呼びかけ」をやっていた。

小学校一年生から、毎年ほとんど同じ流れでやってたので、頭に染み込んでいる。

全校や学年や個人に担当の台詞があって、かなり長いものだったと思う。

私の記憶が確かなら、次のようなことばで始まっていた。 

 

桜も春もまだ遠い

寒い北国越山も

山にはそろそろフキノトウ

土手には希望のネコヤナギ 

 

卒業式の頃は、秋田ではまだ雪が積もっている。

桜は、まだまだである。

今年の開花予想だと、秋田市が4月10日、角館が4月16日になっているので、大館はもう少し遅いだろう。

かつては、もっと遅い4月下旬からだったと思う。

温暖化で、早くなってるのだろうか。

 

「卒業式の呼びかけ」というのを、ずっと経験してきたので、卒業式はこんなもんだと思っていた。

最近になって、「呼びかけ」っていつ頃からやるようになったのだろうと、考えるようになった。

私が、小学校に入学したのは、昭和35年(1960年)である。

雪国の山奥の全校生徒300人くらいの小さな学校である。

考えてみたら、その頃にしてはずいぶんシャレたことをやってたもんだな、と思う。

誰が呼びかけを作ったのか、聞いたこともない。

他の学校はどうだったのかは、わからない。

そこで、「卒業式の呼びかけ」がいつ頃から始まったのか、調べて見た。

 

わかったことは、昭和30年3月に、群馬県の島小学校で行われた卒業式が最初であったということ。

その時は、卒業生や在校生だけではなく、保護者や教師の台詞もあったそうである。

斎藤喜博という校長先生が、昭和27年から取り組んでいた学校改革の集大成だったということである。

それまでの、国歌斉唱、祝辞だけといった形式的なものではなく、本当の感動が得られる行事にしようと取り入れたものだった。

それが全国に広まっていき、日本中の学校で行われるようになったということなのだが、それにしては、それから数年で私の母校で実施していたことになる。

私が入学した昭和35年には、定着してる感じだったから既に何年か経ってる。

ずいぶん、早かったんじゃないだろうか。

インターネットなんてない時代である。

zatsuneta.com

何故だろうと考えていて、気がついたことがある。

かつて「全国こども電話相談室」という子どもの質問に専門家が回答するラジオ番組があった。

その名物回答者に、無着成恭という方がいた。

面白そうな人だったので、調べたことがあった。

山形県の山元中学校で「生活綴方運動」に取り組み、その成果を「やまびこ学校ー山元村中学校生徒の生活記録」として刊行し、映画化もされた。

生活綴方というのは、作文を書くことによって、自分たちの生活について考え、自分のことばで表現するということだろうと思う。

その後、東京都三鷹市明星学園の教諭となり、その頃にラジオ出演をしていたようだ。

明星学園退職後は、僧職に就いている。

 

無着成恭さんが取り組んでいた「生活綴方運動」がすでに、大正初期から始まっていて、私の郷里である秋田には、その流れを汲む「北方教育」という運動があったということはその時に知った。

もしも、そのような流れがまだ残っていたのであれば、群馬県で始まった教育改革の取り組みをすばやく取り入れたのかな、という気はする。

実際のところ、どうだったのかはわからない。

kotobank.jp

 

 

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我孫子市立図書館 我孫子市若松

図書館ウォーキング第四弾で、我孫子市立図書館に行くことにした。

借りた本の返却期限がだいぶ過ぎてしまっている。

他の図書館で借りてまだ読んでないものがあるので、新しく借りる訳にはいかない。

返すだけなので、どうしようか迷っているうちに、出発が遅れてしまった。

11時10分出発、8.04km  1時間40分の行程である。

車だと、新柏駅からさくら通りを進み、レイソルの柏スタジアムで右折し、国道16号を渡り、あとは直進で手賀沼北岸の道である。

ナビの最短コースは、新柏駅には寄らず、豊住で踏切を渡り、すぐに住宅街の道を進んで、柏スタジアムの裏側から、スタジアムの交差点に出て、後は車と同じコースになる。

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北柏ふるさと公園

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手賀沼北岸の歩道は桜並木

我孫子市立図書館に到着する。

午後1時前くらいだった。

図書館は、アビスタという複合施設の中にある。

アビスタには、公民館も入っているが、考えてみたらむかし我孫子に住んでた頃、ここに中央公民館があった気がする。

手賀沼公園の一角にあるので、いつも小さい子どもたちが遊んでいる。

図書館の隣には、ミニ蒸気機関車が走る遊園地もある。

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アビスタ 我孫子市立図書館

我孫子市立図書館は、アビスタという施設の一階フロアの半分くらいを占めている。

さらに、4分の1くらいのスペースが子どものために、設けられている。

全体としては、こじんまりしているが、そのわりにゆったりとしたつくりである。

そして、閲覧のためのテーブルや座席が多く配置されている。

私のお気に入りは、外の景色を楽しむことのできる閲覧テーブルである。

今は、座席は半分に減らされている。

平日だったこともあるが、座席は充分に余裕があった。

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外の景色を楽しめるスペース

本を借りるつもりがなかったので、地図コーナーへ行った。

明治初期に作成された「フランス式彩色地図」が保管されてある。

これは、まだ日本地理院ができる前に、日本陸軍が作成したもので手書きである。

彩色されているので、見ているだけで楽しい。

しかも、欄外にスケッチが描かれている。

目印となる神社などの建物や、道標だったりする。

この地図が軍事的必要から作られたことから、必要な情報だったのだろう。

地図は、平成になってから復刻されたものであるが、すべてパウチで保護されていた。

フランス式彩色地図は、2万分の1の縮尺で、近隣の6,7枚がセットで袋入りである。

我孫子市立図書館には、我孫子市の中心部分の他に、取手、柏、鎌ヶ谷など4組があった。

机の上に広げて、見ることができた。

 

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ミニ蒸気機関車の駅があります

図書館を出て、手賀沼公園を歩いて帰ることにする。

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ハクチョウとカモが水辺にいるので、子どもたちも集まっていた。

手賀沼北岸の歩道は、ずっと桜並木である。

1キロ近く、あるんじゃないだろうか。

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大堀川河口

手賀沼から離れ、さらに進み国道16号を渡る。

しばらく行くと、レイソルスタジアムの交差点である。

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野馬除土手跡

ここには、小金の牧の土手跡が残っている。

記念碑には、こう書いてあった。

 

小金原の野馬除土手跡

柏市は古くから下総国の牧として軍馬の産出地でもあり、江戸時代には市の大半が幕府領小金牧となり、ここはその東寄りに位置するところである。

近隣農民に野馬除土手を築かせ放牧場を山犬や野火から保護し、多くの騎馬や農馬が養産された。

またこの野馬除土手沿いには野馬井戸と呼ばれる馬の水飲み場として湧水地があった。

明治二年に牧が廃止された後に、入植開墾が行われ、柏市地域では豊四季・十余二の新しい村が生まれるに至ったのである。

            平成三年七月二十七日

                         名戸ケ谷郷士

 

横断歩道を渡ると、柏スタジアム前の広場である。

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ハナミズキ?の向こうにレイソル掲示

レイソルの柏スタジアムの前を通り過ぎる。

ホームゲイトの向こうに神社の赤い鳥居が見えた。

スタジアムの敷地内に神社があったんだ。

今まで、気が付かなかった。

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鳥居が見えた

地元の中華屋さん「珍来」の前を、通り過ぎる。

コラボのノボリがはためいていた。

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新柏さくら通りを、歩いて行く。

桜並木も30年になるそうだ。

1.5kmにわたって続くので、かなり見事である。

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新柏さくら通り

陽射しが強くなって、汗だくになってしまった。

午後3時半、無事帰宅した。

帰りは、2時間くらいかかったかな。

 

 

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富士山とその仲間たち

富士山には、登ったことがない。

これからも、登らないような気がする。

私は、どちらかと言うと緑に覆われたような山が好きだ。

そういうところで育って、登り始めたのもそんな山だったからかも知れない。

富士山の登山道は、ほんとに何にもないようだ。

日差しを遮ぎるものがないから、夏は暑いだろう。

風を防ぐものもないから、飛ばされそうである。

滑落したら、止めてくれるものもない。

そのかわり、展望は良さそうだな。

3776mの頂上からの雲海や、御来迎は、最高のものだろう。

確かに、魅力はあるのだが、いざ登るとなるとどうだろうか。

 

富士山には、登ったことはないが「なんとか富士」には登ったことがある。

日本全国には、「郷土富士」といわれる山がある。

富士山という名を名乗るからには、富士山のような山容で、高さもそれなりにあることが条件になると思う。

富士山のような山容ということは、成層火山でなだらかな円すい形で、他の山々から離れていて独立峰であることだろうか。

完全な独立峰ではなくても、見る角度によってそれらしく見えることが最低限必要かな。

富士山といえば、静岡側から見たなだらかな裾野が広がるイメージだけれど、北側の山梨県から見た富士山は、違う感じだったような気がする。

 

なんとか富士は、日本に何百とあるらしいが、私の登ったことのあるものをいくつかあげてみようと思う。

富士山と名乗る山は、ふもとに住む人たちにとっては、毎日仰ぎ見ていて、自分たちを見守ってくれているような感覚があるのだと思う。

私が、今住んでいるあたりはそういう山がない。

かろうじて筑波山が見えるが、遠すぎて仰ぎ見ることはできない。

仰ぎ見る山のふもとに住みたいものである。

 

斜里岳  斜里富士 、オホーツク富士ともいわれてる。

知床半島の付け根あたりに位置するが、 平野から見た山容は素晴らしかった。

円すい形は整ってはいないが、ゆったりとした裾野がきれいだった。

ja.wikipedia.org

 
羊蹄山(シリベシ山)   蝦夷富士

倶知安で下車し、開拓の農村から登山道に入ったが、同行の友人が体調不良で登頂できず撤退した思い出がある。

北海道にしかないような広々した開拓の村の風景が印象的だった。

農家の庭に咲くタチアオイと悠然とそびえる緑に覆われた羊蹄山は、見事だった。

ja.wikipedia.org

 

利尻山  利尻富士

利尻山は、まだ行ったことのない憧れの山である。

利尻島全体が、成層火山であり、富士山みたいなものだ。

となりに、「花の礼文」といわれる礼文島があって、格好の展望台である。

近いうちに、行く予定である、と言っておこう。

ja.wikipedia.org

北海道には、他にもたくさんの郷土富士がある。

私が登った暑寒別岳羅臼岳も郷土富士である。

暑寒別岳は、北海道の尾瀬といわれる高層湿原で有名であり「増毛富士」と言われている。

羅臼岳は、知床半島の中部に位置し「知床富士」と言われている。

暑寒別岳羅臼岳は、近くの山々と連なっているので、独立峰というのは無理があるかもしれない。

 

岩木山  津軽富士といわれている。

私は、岩木山は登ったことはないが、郷土の田代岳に初めて登った時に、頂上からの見えた山である。

津軽平野に住む人たちから、「お岩木様」と呼ばれている。

リンゴの花が咲いて、その向こうに岩木山が見えるような風景はいろんなところで見たことがあるし、歌にもうたわれている。

ja.wikipedia.org

 

岩手山  岩手富士 南部片富士ともいわれる。

八幡平から縦走して、頂上に登り盛岡方向に下山したことがある。

盛岡のような大きな街の近くに、岩手山のような2000mを越える山があるのは、めずらしいかもしれない。

ja.wikipedia.org

鳥海山  出羽富士 秋田富士 庄内富士ともいわれる。

出羽国は、鳥海山を境に羽前国(山形県)と羽後国(秋田県)に分割された。

なので、このような呼び方になったのだろう。

単独行で、初めて登って、その時は次に秋田駒ケ岳に向かっている。

二度目は、友人たちと避難小屋に泊まり、象潟に下山した。

ご来光時に、日本海に影鳥海という影が写るらしいのだが、その時は見てない。

ja.wikipedia.org

 

関東地方にも、富士を名乗る郷土富士はあるのだが、どれも聞いたことのないような山である。

唯一、これは知られてると思ったのが、「榛名富士」として知られている榛名山だった。

これは、登ったことなかったなあ。

 

 

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空中写真で町を見る 航空写真と衛星写真

私がパソコンを使い始めた時、Windowsはバージョン3.1だった。

ヤフージャパンは、1996年から始まったということである。

WindowsWindows95にバージョンアップしたそのころから、Yahoo!を検索サイトとして使ってきた。

だいぶ前に、Yahoo!検索エンジンGoogle検索エンジンに置き換わっていると聞いたような気がするが、どういうことなのか今ひとつ理解できない。

 

map.yahoo.co.jp

 

最近は、ウォーキングする際にはYahoo!地図を見ることが多い。

ルート検索で、徒歩を選択すると、最短ルートと距離、時間を知ることができる。

そして、表示形式で、地図表示に切り替えることもできる。

あまり、使うことはないが他にも地図サイトはある。

www.google.co.jp

Googleマップは、空中写真はもちろん、ストリートビューとも連動していて、いろんな使い方ができそうである。

あと、忘れてはいけないサイトがある。

日本地理院の「地理院地図」は、すごい。

maps.gsi.go.jp

標準地図から、淡色地図、白地図、English、写真に切り替えられるだけで無く、カーソルをあわせた場所の標高をすぐに知ることができる。

明治時代初期から日本の地図製作を行なってきた日本地理院に蓄積されている地図と写真も 閲覧することができる。

 

少し前に、「地図ソフトと地図サイトとカーナビ」という記事を書いた時に、航空写真となってるのは衛星写真なんじゃないのかな、と書いた。

でも、調べてみたら国土地理院は、今も飛行機を飛ばして写真を撮ってるらしい。

しかも、セスナ機である。

なぜセスナ機なのだろうと考えてみたら、地上の精緻な写真を撮ろうとしたら、高度は高すぎないほうがいいし、スピードは早すぎないほうがいいという、ことだろう。

航空写真は、何センチ単位の地上にあるものを確認することができ、地図と重ねることもできるらしい。

衛星写真は、正確には衛星画像ということになるようだ。

地球観測衛星が、電波、赤外線、可視光などのセンサの観測データをもとに画像化したものとのことである。

日本の情報収集衛星は、光学衛星とレーダー衛星の2機で1組として、2組の体制で運用されている。

光学衛星は、光学センサ(近赤外線観測機能付き超望遠デジタルカメラ)を搭載して昼間の写真撮影を行うものであり、分解能は30cmである。

レーダー衛星は、合成開口レーダーによって画像を取得し、夜間及び曇天でも画像取得が可能であり、分解能は50cmである。

分解能は、「識別できる物体の大きさ」ではなく「個体撮像素子の画素1辺の長さに相当する地上物体の長さ」の事であり、50cmで車の種類の区別がどうにかでき、25cmで車の種類の判別ができる程度である、とのことである。

 

それを考えると、Yahoo!地図やGoogleマップは、すべて衛星画像を使っていると思われる。

地理院地図は、衛星画像と航空写真を組み合わせて運用しているのだろう。

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右手の山の中に田んぼがある

最近は、子どもの頃の記憶を頼りに、秋田の郷里の村の近くの山道をたどっている。

村から、だいぶ山の中に入ったところに、我が家の田んぼがあったはずだ。

この道の先は、行ったことがなかったけど、山越えして隣の村に行けたんだ。

 

すごい時代になったものである。

行きたい所は、どこにでも行った気分になれるのだ。

 

 

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出走 ディック・フランシス

ディック・フランシスの「出走」という文庫本を読み終わった。

ディック・フランシスについては、しばらく前に「競馬ミステリーの巨匠 ディック・フランシス」という文章を書いた。

彼の作品については、40冊くらいある文庫本のうち半分くらい読んでいると思う。

先日、図書館行った時に、しばらく読んでなかったディック・フランシスを再開しようと思った。

どの辺まで読んでいるかわからないので、作品番号の大きい作品を選んだ。

「出走」は、「HM   フ 1     38」となっていた。

HMはハヤカワミステリーのことで、「フ 1」が、ディック・フランシス、38が作品番号だと思う。

 

「出走」は、原題が「Fields of 13」で、1998年に刊行され、2004年にハヤカワミステリー文庫として出版された。

読んでみて驚いたのだが、この本は短編集である。

彼が、短編作品を書いていることを知らなかった。

Fields of 13というタイトルは、13の短編作品から成ってるということのようだ。

今まで読んだ彼の本は、全部長編作品だった。

登場舞台が競馬に関わるところで、登場人物が競馬に関わっていることは、共通している。

一編が30ページ前後で、全体では400ページを越える。

 

短編なので、読みやすく、ほとんどが最後にオチがある。

場合によっては、最後の一行で、エッとなる。

書き方がうまいので、大事なことが伏せられていて話が進むので、これはどういうことなんだろと思わせて、最後に種明かしみたいな感じかな。

ディック・フランシスは、イギリスの方なので、英国風の文章なのかもしれない。

思わず笑ってしまうユーモアや、皮肉、そしてまわりくどい言いまわし。

どういうこと? もう一度読み返したりする。

 

13の短編の作品名は、次のとおりである。

キングダム・ヒル競馬場の略奪 Raid at Kingdom Hill

レッド Dead on Red

モナに捧げる歌 Song for Mona

ブライト・ホワイト・スター Bright White Star

衝突 Collision Course

悪夢 Nightmare

強襲 Carrot for a Chestnut

特種 The Gift

春の憂鬱 Spring Fever

ブラインド・チャンス Blind Chance

迷路 Corkscrew

敗者ばかりの日 The Day of the Losers

波紋 Haig's Death

 

競馬に関わる人たちが、登場する。

馬主、騎手、調教師、厩舎員、はもちろんである。

馬泥棒、競馬新聞の編集長、競馬新聞の記者、競馬の写真判定用カメラ操作員、銀行強盗犯人、決勝審判員、などがこの短編集に登場している。

ほとんどに犯罪が絡んでいるが、ミステリーにありがちな血なまぐさいものはない。

唯一の例外なのが、「レッド」である。

イギリスの騎手が、ライバルの騎手の殺害をフランスの殺し屋に依頼する、という今まで作品からは考えられない設定だった。

これも、もちろん最後にはオチがある。

 

私は、競馬も馬にもほとんど興味がない人間である。

それでも、ディック・フランシスの小説は楽しんで読める。

今回の短編集は、それぞれが短いので読みやすいのは確かだが、短いわりには登場人物が多い。

それだけ、競馬というものが多くの人々によって支えられているものだとも言えるのかもしれない。

いろいろな人々の人生が交差して、物語が進んでいくのである。

だから、読み終わった後に充実感がある。

ディック・フランシスにちょっと興味があって、読んでみようかなという人には、この「出走」は、入門用にいいと思うので、おすすめします。

 

 

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唐揚げと竜田揚げ ユーリンチー?

唐揚げは、私がよくやるメニューの一つである。

市販の唐揚げ粉が残っていたので、それを使って唐揚げを揚げてみた。

どうも、唐揚げ粉がうまく絡まず、まだらになる。

味も、なんかもの足りない。

我が家では、通常は妻から伝授してもらったやり方でやっている。

と言っても、やり方はいたってシンプルである。

醤油に酒を入れて、それに生姜をおろしてまぜて、ポリ袋に肉と入れて漬け込む。

片栗粉を入れたポリ袋に、肉を移して片栗粉が馴染んだら、油で揚げる。

我が家では、生姜だけ入れているが、ニンニクを入れるのもあり、らしい。

生姜はたっぷり入れたほうが、美味しい気がする。

 

唐揚げはこんなものだと思っていた。

片栗粉を使うのは竜田揚げだというのを、どこかで読んだ。

唐揚げは小麦粉を使う、となっていた。

じゃあ、我が家のは竜田揚げだったのか、と思った。

でも、小麦粉でも片栗粉でも、どっちでもいい、と書いてるものもあった。

片栗粉をまぶすと、けっこうきれいに揚がる。

片栗粉が無くて、小麦粉でやったことがあるが、小麦粉が肉に馴染まないのか、揚げると肉から離れた小麦粉で油が白く濁ってしまう。

油が白く濁ってると、ちょっと気持ち悪い。

小麦粉を使う時には、天ぷらのように粉のままではなく、ころもにしたほうがいいと思う。

片栗粉は油に沈んで、小麦粉は油に浮かんでるのかも知れない。

 

ときどき、中華料理店に行くことがある。

台湾系のボリュームがすごいお店である。

ユーリンチー(油淋鶏)というのが中華の唐揚げのことなのかな。

でも、唐揚げは、「唐」揚げっていうくらいだから、中華からきたんだろうな。

かなり大きめの唐揚げに、タレがかかっている。

肉には塩コショーくらいで、タレが香味タレになっている。

酢と醤油がベースで、生姜、ネギ、パセリなどが入ってるらしい。

タレの中身を変えれば、いろいろとバリエーションができそうである。

肉の味付けはシンプルなので、他の料理との組み合わせも考えれば、可能性が広がるかもしれない。

 

最近、北海道のザンギという名前を聞く。

唐揚げとどう違うかというと、ザンギの方が味付けが濃くてしっかりしているということらしい。

材料、作り方とも特に大きな違いはなさそうである。

 

我が家では、揚げ物は私の担当である。

レパートリーとしては、他に天ぷらとトンカツとチキンカツくらいかな。

天ぷらの具は、エビや魚など下準備が必要なものはほとんど使わない。

ピーマンとかキノコとか、いつも冷蔵庫にある野菜を使う。

そして、野菜のかき揚げ。

子どもの頃、秋田でかき揚げを食べた記憶がある。

でも、秋田では天ぷらは甘かったと思う。

お赤飯も甘かったし、なんでも甘いのが好きなのかな。

天ぷらのときは、だいたい蕎麦である。

困った時の、天ぷらと蕎麦というパターンが多いかな。

 

 

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玉置浩二という人

YouTubeというのは、2005年に始まったものらしい。

たった15年しか経ってない。

そんなものなのか?

私が使うようになったのは、この5、6年だけど、その頃には誰でも知ってて、みんな使ってるって感じになっていた。

ということは、ほんの数年で世界中に定着してしまった、ということなのか。

みてると、いろんな使い方をしている。

YouTubeということばを、初めて見たときtubeってなんだ、と思った。

Tubeというバンドは、あった。

扱ってるのは、ビデオみたいなのでビデオとか動画のことか、と思っていた。

調べてみたら、どうもテレビのことらしい。

アメリカでは、真空管のことをtubeと言ってて、ブラウン管のこともtubeとなり、それからテレビ自体をtubeって言うようになったようだ。

 

最近、玉置浩二さんの動画をYouTubeで見ることが多い。

見るたびに、おもしろい人だなと思う。

YouTubeには、デビュー当時の安全地帯から最近の白髪の玉置さんまで、いろんな動画がある。

安全地帯が、北海道出身であるということは、知っていた。

井上陽水のバックバンドだったのも知っていた。

だから、「ワインレッドの心」は、井上陽水の作詞である。

YouTubeにある玉置浩二さんの動画を見てると、みる動画がそれぞれに玉置さんの印象がまったく違う。

顔、表情、服装、など同じ人に見えない。

声を聞くと、確かに玉置浩二である。

 

いろんな動画を見ていて、感じたことがいっぱいある。

最近は、きれいな白髪なので、何歳ぐらいだったかなとって思ったが、私より5歳若かった。

ハードなロックから、スローなバラードまでなんでもできるし、なんでもやる。

うまい歌手なのは知ってたが、うまいという言葉では、表現できない歌手だった。

あまりギターを弾くのを見たことなかったけど、ギターもうまかった。

「メロディー」という玉置浩二作詞作曲の歌がある。

ありそうな歌詞で、ありそうな曲なのだが、玉置さんがうたうと、それ以上のものになる。

他のうまい歌手が歌っても、こうはならないだろう。

曲が玉置浩二さんという人と、ひとつになっているような気がする。

だから、歌詞がわからない外国の人にも伝わるのかも知れない。

 

最近、「愛なんだ」という動画を見つけた。

玉置浩二作詞作曲で、ギタリストのMIYABIさんと共演している。

MIYABIさんというすごいギタリストは、知っていた。

この曲は、玉置さんがV6のために、作ったものらしい。

V6の井ノ原快彦とテレビドラマで共演したのがきっかけで、自分から持ちかけたということだ。

サビになって聞いたことある、ってなるけど全く別物である。

ほんとに、怪人二十面相ならぬ、百面相である。

 

 「雅-MIYAVI-×玉置浩二 愛なんだ」

https://www.youtube.com/watch?v=gedHhwKpAbE

 「メロディー・玉置浩二

https://www.youtube.com/watch?v=FcTSSuDFm1Y

 

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日本旅行記、訪問記、滞在記の類いについて③

我孫子市立図書館で借りた4冊のうちの残り2冊を読んでみた。

いずれも、講談社学術文庫文庫だった。講談社学術文庫は、1976年発足の文庫で、古典新訳や書き下ろしも多く、私もずいぶんお世話になった文庫である。

2000冊以上刊行されているらしいが、著者の肖像が表紙に使われていて、明るい感じになっている。私が、よく読んでいた頃は地味な印象の表紙だった。

 

エドゥアルド・スエンソン「江戸幕末滞在記」 講談社学術文庫

 

スエンソンは、デンマーク海軍の軍人であったが、フランス海軍に出向した。

1866年8月に、フランス海軍の一員として来日した。

翌年5月に、フランス公使ロッシュが将軍徳川慶喜に謁見する際に陪席した。7月に、日本を離れている。

本書の原著である見聞録「日本素描」は、1969年から70年にかけて雑誌「世界各国から」で発表された。

スエンソンだけのことではないが、このような見聞録は自国の人々に読んでもらうために描いたものなので、とても率直に正直に書かれていると思う。

社交辞令は必要ないので、感じたことをそのまま書いているので、かなり辛辣な文章もある。

特に、日本人の容貌や、服装、音楽などに、それを感じる。

彼等の育ったヨーロッパの美的基準が身についているのだから、当然なことである。

 

一見したところ日本人は、好ましい外観をしているとはとてもいえない。

狭い額、突き出た頬骨、ぺしゃんこの鼻、おかしな位置についてる両の目は、いやな印象を与えかねない。

ところがそれも、栗色に輝く瞳から伝わってくる知性、顔の表情全体からにじみ出てくる善良さと陽気さに接して思わず抱いてしまう共感によって、たちまちのうちに吹き飛ばされてしまうのである。

男たちは一般に背が低い。

下層の労働者階級はがっしりと逞しい体格をしているが、力仕事をして筋肉を発達させることのない上層階級の男はやせていて、往々にして貧弱である。

膚は色白だが、健康で茶色味を帯びており絶えず太陽とふううにさらされている住民の一部では、赤銅色の肌も珍しくない。

 

日本人の衣服は非常に見すぼらしい。どちらかというと暗い色の無地の生地を好み、服の仕立て、型の優美さにだけお洒落をする。

 

庶民の服は暖かい季節にはできるだけ軽くされ、腰の部分をおおう帯[褌]一本だけになる。けれども実際はそれすらも象徴的な役割しか果たさず、ほとんど丸裸である。

 

帰国後デンマーク海軍に帰属していたスエンソンは、海軍大臣の副官となる。

中国と日本へ進出を具体化していた大北電信会社に入社し、ウラジオストックー上海ー長崎間に海底ケーブルを敷設する事業の采配をとるために東洋に派遣された。

見聞録「日本素描」で示されていた、表面的だけでなくもっと深く観察する彼の能力が評価されたのだろう。

著作の中に、次のような文章がある。

 

ここで日本人の観察をその外見から内面の方に移すにあたって、われわれは最新の注意を払わなければならない。

日本という国を知って間もないわれわれ西洋人は、ほんの短期間の知己を得ただけの日本人一般の性格や特徴について、正しくかつ仔細にわたった描写をするにはいったいどうしたら良いのか。

完全に画一化されている社会を対象としてさえ難しいと思われるのに、日本のようなはなはだ斉一でない要素が混然としている国を相手にした場合、その困難はさらに大きいに違いない。

住民各階級の間に非常に明確な境界が引かれ、その社会的地位がおたがいまったく異なり、その利益も相反するために、国民の性格に種々多様な刻印が押されているのは当然だし、国の一部にとっては真実であることがらも、別の一部では誤りになってしまう。

 

このような姿勢で日本に滞在していたスエンソンは、いろいろと興味深い観察をして、それを記述している。

 

 日本人は誇り高く自尊心の強い性格で、侮辱に対して敏感、一度受けたらそう簡単には忘れない。その反面、他人から受けた好意には、同じ程度に感謝の念を抱く。

 

日本人は身分の高い人物の前に出たときでさえめったに物怖じすることのない国民で、私はかつて、まだ年若い青年が、大名やゴロジョー(閣僚会議の一員)[御老中]と、同僚や自分と同じ身分の者と話すのと同じ率直で開けっ広げな会話をする場面に居合わせたことがある。

青少年に地位と年齢を尊ぶことが教えられる一方、自己の尊厳を主張することも教えられているのである。

 

日本という国は、その構成員がたとえどんなに抑圧されているにしろ、誰であろうと他人にやすやすと屈服するようなことはない。彼らが文句なしに認める唯一のもの、大君から大名、乞食から日雇いに至るまで共通なその唯一のもの、それは法である。

 

日本の上層階級は下層の人々をたいへん大事に扱う。最下級の召使いが主人に厳しい扱いを受けたなどという例を耳にすることさえ稀である。

主人と召使いの間には通常、友好的で親密な関係が成り立っており、これは西洋自由諸国にあってはまず未知の関係といって良い。

 

 ユーモアがあってふざけ好きなのはすべての社会階層に共通する特徴である。

上流の人間は無理にかぶった真面目くさい仮面の下にそれを隠しているが、威厳を保つ必要なしと判断するや否や、たちまち仮面を外してしまう。

その点、下層の連中は自分の性格に枷をはめるような真似はしない。

 

大北電信会社で、1873年に部長、874年に常務、1877年に社長に昇進し、1908年までその職にあった。

日本との出会いは、出向先のフランス海軍でたまたま日本遠征に同行したことだと思うが、その後日本との縁は深いものになっていく。

社長になってからは、国際電信に関する不平等な協定の改定を要求する日本政府と再三交渉している。

  

 

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 ハーバート・G・ポンティング 「英国写真家の見た明治日本」 講談社学術文庫

長岡祥三 訳

 

ポンティングは、イギリスの職業写真家であり、ロバート・スコットの南極探検隊(1910年〜13年)の写真家、映画撮影技師だったことで知られている。

外国人として初めて日本陸軍に従軍し、日露戦争に参加して軍人を通して日本人を知り、その後3年間の日本滞在の体験から得た日本観、日本人観の基づく「この世の楽園 日本」(In Lotus-land Japan)を発行した。

原著は、全20章からなる大部であるが、訳本では10章に削られていた。

日本全国を旅行しての記録と写真が中心となっているが、「日本の婦人について」と「日本の家と子供」という章は、特別に設けられている。

ポンティングという人は、日本を何回も訪れて、何年か日本に住んだこともあり、日本人や日本文化についてもよく理解している。

日本全国を旅して、写真を撮って、その歴史も踏まえて書かれた文章は、外国の方が書いたとは思えないものである。

「日本の婦人について」という章は、次の文章で始まっている。

 

日本を旅行するときに一番すばらしいことだと思うのは、何かにつけて婦人たちの優しい手助けなしには一日たりとも過ごせないことである。

 中国やインドを旅行すると、何ヶ月も婦人と言葉を交わす機会のないことがある。

それは、これらの国では召し使いが全部男で、女性が外国人の生活に関与することはまったくないからだ。

しかし日本ではそうではない。

これははるかに楽しいことである。日本では婦人たちが大きな力を持っていて、彼女たちの世界は広い分野に及んでいる。

家庭は婦人の領域であり、宿屋でも同様である。

優しい声をした可愛らしい女中たちが客の希望をすべて満たしてくれるので、宿屋についてから出発するまでの間に、いつの間にか貴方にとって彼女たちの存在がなくてはならないものに感じられるようになる。

 

 私が読みたいと思っていた「日本の家と子供」という章は、訳本に納められていなかった。

ネットを検索していたら、archive.orgという図書館サイトに、原著があって読むことができることがわかった。

紙の書籍ではないのでスキャナーは使えない。考えた結果、iPadで表示したところを、スマホで撮影することにした。16ページほどなのでなんとかなりそうである。

英語なので、敷居は高いが、ゆっくり読んでいこうと思う。

こんな感じである。

 

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 読み終わったら、内容について書いてみようと思う。

 

 

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私にとっての図書館

図書館ウォーキング第三弾で、鎌ヶ谷市立図書館へ行ってみた。

ナビで調べてみると、8.48kmで、所要時間1時間45分となっている。

最短コースは、いつも車で走っている千葉県道57号松戸鎌ケ谷線である。

面白味はないが、確かにほとんど直線で無駄がない。

今回は、初めての歩きなのでこれで行く事にする。

 

9時半に、自宅を出て、光ヶ丘団地を抜けると、県道に出る。

あとは、これを直進するだけである。

新京成線五香駅手前で、新京成線の線路が見えてきて、しばらくは線路と並行したり、離れたりである。

五香駅入口をしばらく行くと、新京成線の踏切を渡る。

さらに進むと、右手に陸上自衛隊松戸駐屯地の広大な敷地である。

入口付近には桜も咲いていたのだが、入口では物々しく警備の隊員が立っていたので、スマホを出して撮影するのはためらってしまった。

新京成線は、松戸と津田沼を結ぶが、なぜかとても線路が蛇行しているので、2度目の踏切である。

 初富駅を過ぎてさらに行くと、正面に東武線の立体交差の高架が見える。

それをくぐると、すぐに県道8号船橋我孫子線が並行してある。

県道8号は、地元では通称「船取線」で、船橋取手線ということになってる。

これを渡ると、「鎌ヶ谷市立図書館」に到着で、なんと11時15分、1時間45分でナビとぴったり同じだった。

 

最近、図書館を訪ね歩いてるのは、例の外国人の日本旅行記、訪問記、滞在記、それに見聞録あたりを探しているのだが、目的のものは見当たらなかった。

鎌ヶ谷市立図書館は、2階建てでこじんまりした図書館である。

しばらく、おもしろい本を探して館内をふらふらしていた。

3冊ほど、気になるのを見つけた。

司馬遼太郎さんの「街道を行くシリーズ」の秋田県を歩いてるもの。

利根川や江戸川の歴史を書いている山本鉱太郎さんの房総の街道もの。

ウィキペディアについての問題について欧米の研究者が書いた「ウィキペディア革命」。

借りようかなと迷ったが、他の図書館で借りた本が自宅に何冊かあるので、読みきれないと思いやめた。

12時半に図書館を出て、帰途に着く。

日射しはあったが、汗をかくほどでもなく、途中買い物をちょっとして、2時半に自宅に着いた。

 

図書館といえば、学生時代に図書館司書という仕事もいいなと、考えていたことがあった。たぶん1年生の夏休みに、図書館司書の単位習得のための講座が隣の市にある大学であることを知って申し込んだ。

自分には向いているかもしれないと思ったのだが、講座を受けることはできなかった。

高校時代に、昼休みに弁当食べたあと、毎日図書室に通っていた。

その時に、司書さんがいるのも知っていたが、自分の進路としては考えなかった。

今になって思うと、ほんとに少ない情報で進路を決めていた。

結局、私は法律学科を選択した。

後になって知ったのだが、その頃東京の世田谷区に図書館短期大学があったようである。

私が、就職した頃に、図書館短期大学は筑波に移って、図書館情報大学になっている。

それよりも前に、東京教育大学が筑波に移って、筑波大学になっていた。

2004年、図書館情報大学は、筑波大学に吸収合併される。

今は、情報学群知識情報・図書館学類というものになってるらしい。

学群とか学類とか、よく、わからん。

 

今の子どもたちは、多すぎる情報から必要なものを選択する。

私の頃は、少なすぎる情報をどうやって集めたらいいのか。

過ぎたるは及ばざるが如し。

 

 

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天災と人災の間にある境界

先日、東日本大震災について書いた時に、この大震災のどこまでが天災でどこからが人災なのだろうと、考えざるを得なかった。

私のような素人が、何を考えてるのだ、となるかもしれない。

でも、私のような素人でもこれはいったいどういうことなんだ、と考えざるを得ないことがあり過ぎるのだ。

 

東日本大震災による死亡者は、15899人である。

内訳は、地震による圧死、損傷死、その他   667人

    火災による焼死           145人   

    津波による溺死          14380人

    その他                             666人

地震 、火災については、その建物や施設などが法的な不備などがない限り天災と言えるかもしれない。

津波については、とても問題が多岐にわたることになる。

会社や住宅などの建物、言いかえれば街をどのように計画するか。

そして、住民の避難をどのようにするか。

過去の地震津波の歴史を調べてみると、東日本大震災程度の地震津波は、何十年周期で起きている。

記録に残っている最も古い三陸地方の津波は、869年の陸奥国貞観地震だが、多賀城の近くまで津波が来ているのだ。

そして、海食崖の調査によって、紀元前4000年頃から約1000年周期で超巨大津波が発生していた痕跡が残っている。

つまり、確実に地震は起こり、津波は押し寄せる。

10メートル程度の防潮堤では津波を防ぐことはできないので、津波の来るところにある街は破壊される。

それを防ぐには、津波の来ない場所に街を作らなければならないが、現実問題それは難しいだろう。街を移転させたところもないわけではない。

震源地の位置にもよるが、地震が発生してから津波が押し寄せるまでは、時差がある。

東日本大震災の時は、地震発生から3メートルほどの津波が来るまでに20分以上の時差がある。しかし、そのあと最大の津波になるまでは数分しかない。

津波を見てから、避難しても間に合わない。

地震が発生したらすぐに避難する必要がある。

 

地震が発生して、津波の恐れがあったら、どのような手順でどこに避難したらいいのか。

日本は、今までに巨大な津波を経験している。

三陸においては、明治三陸地震津波で2万人以上、昭和三陸地震津波で3000人、チリ地震津波で140人以上の死者を出している。

その経験が生かされてなかったのである。

地震があったら、どんな手順で、どこに避難する。

今までの過去の津波を考慮しての対策がされていれば、死者の数を減らすことはできたはずである。

2mの津波で木造住宅は全面破壊され、4mの津波で鉄筋コンクリートビルも持ちこたえるか難しい。

それなのに、東日本大震災津波は、15mを越えていたのだ。陸に上陸しての遡及高は40mを越えている。

 

福島第一原子力発電所の建設にあたって、想定した津波の波高が10m以下だった、ということを知った時は唖然とした。

標高10mに設置された発電所に、14mを越える津波が来たのだから、起こるべくして起きた事態だったといえるだろう。

なぜ、そんな所に原子力発電所を作ったのか。

いろんな記録を読んで思ったのは、経営者がコストを考えて、都合の悪いデータは見ないことにして、都合の良いデータを用いて判断したということだ。

つまり過去の、津波の痕跡はないことにされた。

20万年の人類の歴史なんて、46億年の地球の歴史に比べたら微々たるものに過ぎない。

人間が自分の都合でものを考えても、地球の理屈には通用しない。

原子力発電という諸刃の刃を使いたいのならば、ちゃんと科学の粋を使わなければならない。

そうしないと、これから何世紀にわたるかわからないツケを払うことになる。

 

他人の土地を奪ったら、犯罪である。

いくつもの町の土地を使い物にならなくしたら、大犯罪である。

これは、人災と言わないでなんだろう。

誰が、責任を取るのだろう。

責任の取りようがないけれど。

書いていて、悲しくなってきた。

 

 

 

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