晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

青空文庫がひろげた世界

野村胡堂さんの「銭形平次捕物控」を読んでいる。

今読んでるのは、166話の「花見の果て」という作品である。

2月ごろに、「銭形平次捕物控」を読んでることを書いたが、その頃はまだ30話までいってなかったと思う。

ほとんど毎日、少しずつ読んでいる。

青空文庫の作品リストを見ると、野村胡堂さんの作品は518点登録されている。

他に、入力作業中として、71点が登録されている。

銭形平次捕物控」は、367話まであるので、先は長い。

 

青空文庫」に出会ったのは、いつのことになるのだろうか。

青空文庫は、 1997年2月に設立されている。

富田倫生、野口英司、八巻美恵、らんむろ・さてぃの4人が呼びかけ人となって発足した。

青空文庫のトップページには、次のような文章がかかげられている。

 

電子出版という新しい手立てを友として、私たちは〈青空の本〉を作ろうと思います。
青空の本を集めた、〈青空文庫〉を育てようと考えています。

 

これは、青空文庫の基本的な姿勢をまとめてある「青空文庫の提案」の冒頭部分です。

私にとっては、青空文庫はとても身近な存在なのだが、一般の人にとってはどの程度知られてるのだろうか。

青空文庫は、著作権が消滅した作品や著者が許諾した作品のテキストを公開しているインターネット上の電子図書館である。

収録作品数は、今日現在で16,625となっていた。

 

我が家のPCが、インターネット接続したのは2000年頃だと思う。

そして、PDAソニーのクリエで、通勤時に音楽やテキストを読むようになったのが、2003年当たりらしいので、その頃には青空文庫を利用していたはずである。

インターネット上に、古典の文学作品のライブラリがあることを知って、いろいろと調べていた。

研究者のサイトもあったし、個人的な図書館などもあった。

変わったところでは、ヴァージニア大学の日本語ライブラリがあった。

たぶん青空文庫のお手本となったであろう「プロジェクトグーテンベルグ」という英語中心の電子図書館もある。

これは、1971年にアメリカのイリノイ大学の学生だったマイケル・S・ハートが、設立したものである。

トップページを見たところでは、“over 60,000 free eBooks"となっている。

テキストの他に、HTMLやEPUBKindleさらに画像の有無でも提供しているようなので、実際の作品数はよくわからない。

 

青空文庫を設立するにあたって、中心人物であった富田倫生さんは、2013年8月16日に亡くなった。

私は、青空文庫の存在を知ってとても感激して、富田さんの著作も何冊か読んだ。

「青空のリスタート」「パソコン創世記」「本の未来」

これらの作品は、青空文庫に収録されている。

広島に生まれ、コンピュータと出会い、電子書籍とのかかわりの中で、青空文庫を構想していってる。

年上の存在だと思っていたが、1952生まれだから、たった一歳年上だった。

「青空のリスタート」には、若い頃の療養の日々が記録されていたような気がする。

私の一方的な気持ちであるが、身近に感じていた。

もう一度、この三つの作品を読んでみよう。

 

すべての著作は、個人の作品であると同時に、みんなの共有財産でもある、という私の考えは青空文庫を知ることで生まれたもののような気がする。

若い頃に、初めて購入した個人全集が「宮澤賢治全集」だった。

その後に、「菅江真澄全集」を手に入れた。

宮澤賢治の作品は、青空文庫に276作品収録されている。

これが、全作品のうちのどの程度の割合になるのかは、わからない。

分厚い全集を開くことが、少なくなっていたので、手放すことにした。

青空文庫があるから、まあいいか、ということである。

菅江真澄の作品は、断片的なものはあっても、ほとんどテキスト化されていない。

青空文庫を知った頃に、菅江真澄の作品をテキスト入力することにした。

一番の目的は、PDAで読むことだったと、思う。

青空文庫に登録することも考えたが、いろいろと障害になるものがありそうで、やめた。

テキスト化は、中断をしながらも、続けてきた。

ブログをはじめるにあたって、菅江真澄の作品を載せようと思った。

ほとんど人の目にふれることのない菅江真澄の作品と人が、ひとりでも知ってもらえればいいなと思う。

 

青空文庫に登録されるテキストは、入力者が入力したいと思ったものが選ばれている。

だから、搭載されている作品についてはかなり、むらがあるような気がする。

私のように、古典的な作品に関心がある人にとっては、満足できないところがある。

それは、前に述べたような青空文庫の基本姿勢があるので、どうしようもないことである。

著作権が消滅した作品を対象とすることになっているので、著者の死後50年後でなければ搭載できなかった。

それが、著作権法の改定によって著作権の消滅が、50年から70年になってしまった。

1069年に亡くなった人の著作権は70年となり、2038年まで著作権が有効になったのである。

これは、TPP協定の締結によるもので、そうせざるを得なかったものだ。

つまり、2039年にならないと、新規の搭載対象者があらわれないということになる。

それでも、現在も新規登録作品が年間500から600ほどあるのだそうだ。

年間のアクセスが、1000万というのは、それなりに存在意義を得ているのかなと思う。

私は、ただ利用して応援してるだけだが、2039年まで青空文庫がしっかりと存在していて欲しいものだと思う。

 

 

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すわのうみ⑥ 菅江真澄テキスト

十四日 いなの郡にまからんとて、重栄のうしとかねてものして、午一ばかりに床尾をたちて、塩尻の里にいたりて、こゝなる治英がやをとぶらへば、梶原景富あり給ひて、やまとふみよみ給ふといへば、こよひはこゝにあかして、明るあしたわかるゝとて、景富のうし、十五日。

 

   こゝに来てしきしまのみちかたりあふ友にわかれのなごりおしさよ

 

かゝるかへしのこゝろを、

 

   かたりあふことこそなけれわかれても通ふこゝろは常もへだてじ

 

金井といふ里に水のながるゝを、

 

   玉ほこのしたゝりならめ道のへのかなゐの里に出る流井

 

うたふ坂といふ山路を行に、はなけ石とて、穴ニツあきたる巌の形うしに似たり。

こゝに水ふたかたにながるゝ処を、水のわかれといふ。

あたのさくらみなちりけり。

 

   ちる花の色をも香をもさそひ行水の別も春はものうし

 

北小野の郷なるはづれに、すもゝいたく咲たるが、いまはちりすぎ、谷陰ならんうぐひすの鳴たりけるに、

 

   風にちる花やこふらむうぐひすもものうつるねに声ぞ聞ゆる

 

こよひはこゝにといひて、永田何某がもとにとまる。

小野森のほとりなれ、うちむかふ木々のなかに、糸よき花の咲たる月の影てりて、ほの見えたるなどいとおもしろし。

 

   おほかげのにほひも見えずおのづから花のあたりをもりの月かげ

 

此夕、小野の里にとまる。

又憑の里ともいへり。

明日は伊奈部の駅に罷らんといへり。

 

   草まくらこよひ田面にかりねしてあすはいなべの里にたどらん

 

十六日 頼母の神にまうでて、をがみめぐる。

千枝百枝にて、うつぼ木多く生ひしげりて、いとかう/\゛たる杜の中路をふみわけて行ば、いろ/\の薬あり。

小野の御社の前には、世にことなる鐘をかけて、大壇那諏方四郎神勝頼と書付給へり。

八彦明神のをがみ処、きよらかにたくみなしたり。

めもあやなりなどいひつゝ、ぬさをさゝげていづる。

夫木の歌に、

 

   しなのなるいなの郡とおもふにぞたれかたのめの里といふらん

 

この杜は、此国の二宮とあがめ奉る。

高橋といへるちいざき棚橋のこなたに、水なき沢のこちを束間郡笹化庄、あちは蕗原庄にて伊奈郡也。

こゝにうたふ神楽歌に、

 

   都まで聞えて久し小野の杜八彦のみやはとひふれの神

 

   日はてると笠きてまひき二宮へ小笹のつゆは雨にまさると

 

けふも此里にとまる。

 

十七日 雨沢といふ村に、桃の木いたく花咲たるを見つゝ過る。

 

   のどけしな雨てふ沢のもゝのはなちよやふるらんいろのことなる

 

渡戸をへて、横川邑宮沢勝美のやにとまる。

むろ尾ははげしき岩むらにて、いろ/\のはなつゝじなど盛なるが、谷河の水にかゞやきたるに、かつくるゝまでうぐひすの声は、かなたこなたにきこえたり。

 

   かげうつすはなよこがはの波きよみ夕ぐれかけて鶯のなく

 

十八日 けふもこゝにてくれぬ。

 

十九日 いざたゝんといへば、ある人あるじもふけして酒もてすゝめ、なによけんとて、かじかといふいをの子をいだしぬ。

戸あくれば、おほたるの嶽よく見えたり。

此山のさま、ふじに似て雪あり。

これをながめつゝくらひて、又酒とりて、かじかの子といふことを、

 

   遠方の雪のながめにこやあじかのこまだらの山のおもかげ

 

わたとをくれば、唐木沢、辰野など河ぎしにあり。

宮城にいたる。

みちの南の山を湯舟といひならはせしは、いにしへ洲羽の神ゆあみ給ひしあとなりと、さとの翁の物語に聞えし。

そがしたに、古城などのあり。

矢嶋氏のもとに、しばしやすらひて、やがて、沢てふ処の桑沢何がしがやにいねたり。

家居のとみな田面なれば蛙の声いとかまびすし。

 

   せき入るゝ門田のつらに鳴蛙よもにみつらし春のさは水

 

やがて例の人々あつまりて、うけひふみなど書てのち、重栄うしやまとふみよみ給ふをきく。

このあたりをば雷のふみとかや、いにしへいづれの世のきみとやらん、御製などおもひいづるまゝしるしぬ。

 

   神代

   むかしよりうけひまさしきしるしにはいかづちこえし桃の木の郷

 

二日三日こゝにありて宿をたつ。

大出のさとにいたりて、正怡がつかにとぶらへば、正道郎宗と書て、かたひらには、

「なにとよをおもひ出るもむかしにてたゞめのまへのわかれなるらん」

かく石ふみにしるしたり。

こは、おはりとりけるころよみけると、あないの人のかたりける。

是をよむもなみだこぼれて、

 

   木のもとに春はむかしのいろもなく根にかへりにし花の俤

 

寺を出て、其子何がしのぬしにいとまごひてわかれぬ。

重栄のうし、外なる人々も松嶋のあたりにて、出あふべしといへば、

 

   何となく行べきかたぞいそがるゝ誰松嶋にありとなけれど

 

木の下につきぬ。

重栄の主の馬見えたるに、なにがしがやに入ていざしばしとていこふ。

こゝを出ぬ。

羽広といふ村見えたり。

此村なる仲仙寺といふ寺に、科野木とて十二もとにわかれたる木あり。

こゝの国十二の郡あれば、これをしなの木といふめり。

此木しなといふ木也。

其皮などをつなにつくりて、馬にものおほせけるときゆふ縄也。

 

   春深み行てつまゝしいたどりのはひろの里に生ひしげるらん

 

塩の井といふ処に、やひとつあるに入てしばしいこふ。

このあたりにながるゝ川を大泉河といふ。

この川上には世にもめづらしき石生れて、人々とりもて文字ゑりつきてあがしるしとす。

やがていなベにいたる。

此すへなる吉川なにがしといふくすしがやにとまる。

 

廿四日夜 人々つどひて通夜囲碁ものしてけるけはひを、夢のこゝちに覚えけるまゝにかきつく。

 

   をのゝえもくだすばかりにむかひゐてかこめる石のあけくれのそら

 

 

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「大江戸今昔めぐり」「こちずぶらり」そして「古地図散歩」

地図が好きなので、このブログにも地図のことは何回も書いている。

特に、昨年に「フランス式彩色地図」というものを知ってからは、市立図書館にそれを見るために通っていた。

この地図は、明治初期に日本陸軍が作成した手書きの地図で、古地図といってもいい趣のあるものである。

関東近辺を921面の二万分一の地図で整備したものである。

 

この地図について、いろいろと調べているうちに、農研機構という組織の歴史的農業環境閲覧システムというサイトで、このフランス式彩色地図を見ることができることを知った。

しかも、「比較地図」を使えば、国土地理院の現在の地図にと比べることができる。

同一画面の左右に半分づつ表示されて、拡大縮小が自在で、片方を移動させると、連動してもう一方も移動するようになっている。

関東の中心部は網羅しているので、普段の移動範囲なら、これで充分である。

この地図のためだけに、図書館へ行く必要はなくなった。

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歴史的農業環境閲覧システム

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比較地図の画面

スマホアプリに、古地図アプリがあるのは知っていたので、「大江戸今昔めぐり」というのをインストールしていた。

これは、江戸時代の地図と現在の地図、そして航空写真を切り替えてみることができるものである。

しかし、「大江戸」というだけあって、範囲が江戸の街なので、なかなか実際に行く機会もなく、使えていなかった。

 「大江戸今昔めぐり」は、フジテレビとビーマップと菁映社が、2017年に提供を始めたものだが、エリアを拡大する方針で、今年は川越市静岡市がエリアとなった。

今後も拡大の方針らしく、制作に協力する自治体を募集しているようだ。

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大江戸今昔めぐり 古地図画面

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大江戸今昔めぐり 現在地図画面

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大江戸今昔めぐり 航空写真画面

 

そこで、他の地域の古地図が使えるアプリがないものか探してみた。

「こちずぶらり」というアプリが、見つかった。

日本の地図だけではなく、世界の地図が収録されている。

19世紀や20世紀のものが多いが、もっとさかのぼるものもある。

手描きで、絵地図と言った方がいいものもあるし、美術品を見るようにも楽しめると思う。

そんなに古い地図だけれど、ワンタッチで現代の地図に切り替えることができる。

グーグルマップだと思うが、どこにも表示がない。

古地図のデータは内蔵されていなくて、その都度ダウンロードされる。

たまったキャッシュは、消去できるようになっている。

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古地図アプリ こちずぶらり

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日本古地図

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江戸古地図

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世界古地図

「こちずぶらり」を提供しているのは、Stroly Incという会社である。

メニューの「おすすめアプリ」をみたら、他にもいろいろつくっている。

江戸、京都、伊勢、奈良、仙台、名古屋などに特化したアプリもあるようなので、どんな会社か調べたら、業務内容が次のようになっている。

 
位置情報(GPS)と連動したイラスト地図のオンラインプラットフォーム「Stroly(ストローリー)」の開発、提供。 Strolyを使ったビジネスの企画・開発・運用・分析を支援する「Stroly for your Buisness」の提供。 位置・空間技術に関するコンサルティングの提供。

手づくりの手書き地図なども、GPSと連動させて、アプリ化するなどいろんな企業や自治体、団体などと連携するような事業もしているようで、面白そうである。

 

「古地図散歩」というアプリを見つけた。

これは、日本の地図でも国土地理院の地図と航空写真を切り替えて使えるアプリだ。

私的に気に入っているのは、明治初期の「フランス式彩色地図」と言われる迅速地図も表示できるところである。

古地図が、明治初期から平成まで7種類、航空写真は1936年から2007年まで8種類、さらに陰影起伏という立体地図も表示することができる。

合同会社四時舎という会社が、つくっているがウェブサイトには、次のように載っていた。
 

四時舎はニッチな分野をリッチに拘るソフトウェア会社です

主に地図系のアプリを得意としています。

広くは普及しないかもしれませんが、一部の人に熱狂的に支持されるようなアプリを作っていきます。

 

他に、「ぼっちドライブ」「廃墟GO」というのがあった。

おもしろそうである。

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フランス式彩色地図 明治初期 手賀沼

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国土地理院 古地図 2000年から2015年 手賀沼

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航空写真 1961年から1969年 手賀沼

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航空写真 2007年頃 手賀沼

 

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陰影起伏図 手賀沼

 

 

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パーソナルコンピュータを創ってきた人々

私が、パソコンというものに初めて触ったのは、1991年である。

なぜ、はっきりと時期を覚えているというと、その年に人事異動で職場が変わってそこでパソコンを触ったのは確かだからだ。

まだWindowsにはなっていなくて、MS - Dosだった。

それで、「エクセル」の前身である「マルチプラン」という表計算ソフトの練習をしていた。

パソコンは、私の職務の範疇にはなくて、他の部署が使っていたのだが、空いている時に使わせてもらっていた。

移動前の職場では、デスクトップのワードプロセッサーを使っていた。

NECは「文豪」、富士通は「オアシス」、東芝は「RUPO」という時代である。

 

マイクロソフトWindowsはすでに1985年に発売されていて、その頃はWindows3.1が発売された頃だと思うが、あまり普及していなかったと思う。

そして、1995年のWindows 95で社会現象になるわけである。

思い出したのだが、富士通はすでにFMtownsというのを出していて、それは職場にあった。

今、考えるとその時点でWindowsの先を行ってた気がする。

私は、もともと文系の人間で、コンピュータには無縁だったが、音楽好きだったので、アンプやチューナー、スピーカー、プレーヤーなどを扱っていた。

機械自体には、なんの拒否反応もなかった。

表計算ソフトが、自分の仕事にとても役立つことが分かったので、パソコンソフトが使えるワープロの購入希望して、購入することができた。

なんと、Windows表計算ソフトの「ロータス123」が内蔵されているというラップトップワープロRUPOだった。

今考えても、なんとも不思議な代物である。

 

その頃に、パソコンの知識を得るために「Hello!PC」という雑誌を買っていた。

ソフトバンクが、隔週で発売していた初心者向けのパソコン情報誌だった。

その頃のソフトバンクは、その名前のままの会社だったのだろうか。

隔週発売というのは、今はないと思うが、その頃はFM情報誌の「FMFan」などは隔週で、その流れだったのかもしれない。

初心者向けなので、私にはピッタリだった。

パソコンの創生期に関わってきた人について書かれた連載記事があって、とても気に入っていた。

私の記憶だと、「コンピュータ偉人伝」というようなタイトルだった気がしていたが、調べてみたら「パーソナルコンピュータを創ってきた人々」という書籍として連載記事が、1998年10月に刊行されていた。

脇英世さんという人が書いた記事だった。

もう一度読んでみたいと、前から思っていた。

図書館で探せば見つかると思うが、2週間くらいでは読みきれないと思う。

Amazonを見ていたら、手に入れられそうなので迷っている。

 

「Hello!PC」は、1994年7月創刊なので、創刊してすぐに私は購読していたようだ。

1999年に、誌名を「PC User」と変え、中・上級者向けに方針を変換した。

私も、ずっと読者だったので、初心者ではなくなっていたのか、違和感はなかった。

2003年には、隔週から月刊に転換している。

このあたりまでは、購読していたと思う。

インターネットの時代になって、パソコン情報サイトも多くなっていて、雑誌として存在していくのが困難になっていったのだろう。

2006年には休刊し、「ITmedia」というウェブサイトに移行している。

そういえば、書店の売り場を見ても、一時あれほど多かったコンピュータ関係の雑誌が驚くほどに、少なくなってしまっている。

 

 

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世の中では、やっぱり考えられないことが起きる

先日、世の中では考えられないことが起きている、と言うことを書いた。

その時は、中国で高層ビルが地震もないのに、揺れているというのをテレビで見た。

何週間か前に見たのは、マイアミの高級マンションが崩落した映像だった。

136戸が入居している12階建の内、55戸分が完全に崩落している。

ヒビが入ったとか、そんなものではなく、映像見ると一瞬にして崩れ落ちている。

やっぱり、地震などはなかったらしい。

 

 

世の中では、やっぱり考えられないことが起きる、とあらためて思った。

なぜ、そう思ったかというと、最近車の追突事故にあったからである。

赤信号で止まっていたら、後続の車にドッシンとやられた。

赤信号がそろそろ青信号に変わりそうなタイミングだったので、後続の車は何台も止まっていた。

とりあえず、脇道に車を止めて、追突した車の人と、警察の到着を待った。

自動車保険の事故処理センターにも、連絡した。

参ったなあ、と思った。

3年ほど前にも、同じような追突事故にあっていたのだ。

こんな、3年くらいで二度も追突されるかな、と思ったのだ。

 

事故は、環七通りの加平2丁目交差点だった。

私は妻と二人で、板橋区の戸田葬祭場へ向かっていた。

よりによって、葬式に向かう途中で、もらい事故である。

加害者は、中国人男性で30代くらいで、軽自動車を運転していた。

日本語は、あまり話せなかった。

でも、こちらが話す日本語はある程度わかるようだった。

中国語で、スマホで電話していたが、どうも会社の社長さんと話してるようだった。

困ったぞと思ったが、警察が到着して、質問には答えていた。

問題は、軽自動車が加害者の所有ではなく、会社の同僚のものを借りていた。

警察の方は、最初に2名が自転車で駆けつけてくれて、後で事故処理の担当者が車両で来た。

とりあえず、物損事故として受け付けるので、病院で診察を受けて異常があれば、人身事故に切り換えるので連絡するように、念を押された。

加害者の会社の社長さんとも話したが、中国の方であるが日本語は流暢で、この方が加害者の代理人となるようだった。

責任はこちらにあるので、修理費用は全部負担します、とはっきり言っていた。

加害者と、お互いの連絡先を確認して、1時間ほどで事故処理は終わった。

私たちは、葬儀会場へ向かう途中だったが、時間の余裕を見ていたので、なんとか間に合った。

 

帰宅後、保険会社と再度連絡を取った。

病院で診断を受けることと、自動車の修理費用の見積もりをとるように言われた。

加害者の代理人とも連絡を取ったが、加害者が使ってた車は、任意保険を解約していて、保険は使えないが、修理費用はこちらで負担しますとのことだった。

任意保険に入っていないとは考えにくいので、借用した車なので任意保険は使いたくないということなのだろうか。

しかし、これでは保険会社同士の交渉ではなくなるし、困ったと思ったのだが、私が加入していた保険は、弁護士特約を付けていたので、加害者との交渉は弁護人にお願いできることがわかった。

病院での診察の結果、異常なしであった。

1ヶ月以内に、以上があれば再度診察可能とのことだった。

もちろん、これも弁護士特約と同様になんとか特約から費用がでるので、保険料の等級に影響はない。

弁護士の選定は、保険会社に一任したので、数日で正式に決定すると思う。

全ては、それからということになるだろう。

 

今日、決定した弁護士さんと電話で対談した。

事故の状況を確認し、これからの見通しについて、話し合った。

思ったのは、なかなか大変な問題を解決しなければならないということである。

弁護士さんに期待するしかないが、簡単なことではないことはわかった。

とりあえず、お世話になっているデーラーから、修理の見積書と代車の見積書をもらって、

弁護士事務所に送った。

あとは、交渉の経過を見守るしかない。

 

これが、最近の状況である。

今回の、出来事を整理すると、つぎのようになる。

 

⑴ 停車していた2台の自動車間で、追突事故を起きた。

⑵ 加害者が、外国人で日本語が不自由である。

⑶ 加害者の自動車が、借用したもので任意保険が使えない。

⑷ 加害者との交渉を弁護士に依頼せざるを得ない。

 

想像もしたことのなかった事態が、我が身に降りかかったのである。

世の中では、やっぱり考えられないようなことが起こる、のである。

 

 

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ロックの時代⑨ 夢のカリフォルニア

私が、少年から青年になっていった頃の、世の中がどんな感じだったか考えてみる。

若者は、長髪でジーパンが当たり前のようになっていた。

ジーパンという言葉は今は使わないか、ジーンズになってるかな。

男性でもかなり長い髪だったし、ジーンズもベルボトムというのが流行ってた。

ビートルズのデビュー当時の写真だと、長髪だけど、マッシュルームカットとかいう、おかっぱ頭だ。

その頃の、日本のフォークシンガーは、モジャモジャの長髪が多かったかな。

井上陽水とか南こうせつは、モジャモジャ頭だった。

小室等吉田拓郎は、ストレートぽい長髪だったと思う。

この4人で、フォーライフレコードって会社作っている。

 

日本では、長髪やジーンズは、流行のひとつだったのかもしれない。

でも、アメリカでは単なる流行ではなかったらしい。

既成の社会体制や価値観から離れようとするカウンターカルチャーという運動があって、その運動や担う人のことを、ヒッピーといったらしい。

日本でも、ヒッピーという言葉は使われ、そう呼ばれる人もいたと思う。

「フーテン」という言葉も、同じように使われたのかもしれない。

「フーテンの寅さん」は、既成になじもうとしなかったのだろうか。

アメリカでは、人種問題やベトナム戦争という重い現実があって、それを否定したり、逃避しようとする動きがあった。

自由な生活や平和主義を象徴するものとして、フラワー・ムーブメントとかフラワー・チャイルドというものがあって、それが音楽などに反映されていた。

男性は髭をのばし、長髪にし、ジーンズをはく、女性も長い髪にミニスカートをはき、ペンダントやサンダルを好んだ。

 

 ママス・アンド・パパス 夢のカリフォルニア

ja.wikipedia.org

この曲は、1965年に発表された、1966年にヒットした。

ママス・アンド・パパスは、女性2人男性2人のフォーク・コーラス・グループである。

この曲は、さまざまなアーティストによって、カバーされている。

私のお気に入りの歌手であるホセ・フェリシァーノも、歌っていた。

この曲の次に発表した「マンディ・マンディ」が、グループ最大のヒット曲になった。

The Mamas & The Papas "California Dreamin'" (December 11, 1966) on The Ed Sullivan Show - YouTube

 

スコット・マッケンジー 花のサンフランシスコ

pt.wikipedia.org

 If you're going to San Frannsisco

Be sure to wear some flower in your hair

もし君がサンフランシスコへ行くなら
頭に花を飾っていくといいよ
という歌詞で始まる、先に書いたフラワームーブメントそのままの歌である。

日本のラジオでもよく聴いた曲だった。

ママス・アンド・パパスのジョン・フィリップスが書いた曲だそうだ。

NEW ° Scott McKenzie — San Francisco ᴴᴰ (Stereo) - YouTube

 

アソシエーション ネバー・マイ・ラブ

 

ja.wikipedia.org

アソシエーションは、カリフォルニア州で結成されたソフト・ロック・バンドである。

ロックバンドではあるけれど、ソフトなコーラスを主体としていて、他にも「ウインディ」や「チェリッシュ」というチャート1位の曲がある。

この曲は、日本の「ジャニーズ」(たぶんジャニーズ事務所最初のグループ)が渡米した時(1966年)に、ジャニーズに提供されたものでレコーディングもされたが、都合で発売されなかった。

それを、アソシエーションが、カバーしたということらしい。

 Association - Never My Love (1967) - YouTube

 

 アルバートハモンド カリフォルニアの青い空

ja.wikipedia.org

 「カリフォルニアの青い空」というように彼の曲は、邦訳のタイトルで記憶に残っている。

それだけ、日本でもヒットしたのだと思う。

原題をそのまま日本語に訳すと、「南カリフォルニアでは雨が降らない。」である。

日本でのヒット曲が、もう一曲あってそれは、「落葉のコンチェルト」である。

原題の“For The Peace of All Mankind"であるが、この歌詞は私の記憶にしっかりと残っているので、かなりヒットしたのだと思う。

Albert Hammond - It Never Rains In Southern California (1973) HD 0815007 - YouTube

 

 

 

 

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国名について調べてみた⑥ 東北地方中編

これは、私の日本の歴史の勉強のための覚書です。調べたこと、考えたことを書きとめてます。 令制国というものに興味があって、気が向けば調べたりしている。

 

平安初期には、「蝦夷」を、出羽側は「蝦狄」と陸奥側は「蝦夷」と分けて記録されているという。

東北を、奥羽山脈を挟んで、西側が出羽国、東側が陸奥国とそれぞれに北上して、出先の柵や城を建設して行ったようである。

そのせいか、出羽国陸奥国の境は、不明瞭だったようだ。

のちに、陸奥国となる紫波郡出羽国紫波村になっていたり、出羽国になる比内郡は陸奥国比内郡とされていたようである。

比内郡というのは、現在の秋田県大館市北秋田郡北秋田市である。

私の郷里である大館は、この時点では陸奥国だった。

比内郡が、出羽国秋田郡編入されるのは、天正10年(1590年)の豊臣秀吉朱印状によってである。

比内郡の隣には、鹿角郡があるが、鹿角郡は郡が成立して以来、陸奥国に属していた。

 

平安時代後期に、中央からの統制が弛緩すると、俘囚長を名乗る安倍氏が、陸奥国の中部である奥六郡そして陸奥国北部に勢力を振るった。

しかし、国司に従わず、前九年の役で敗れて、滅亡した。

この戦いに、源頼義が介入し、出羽に本拠を持つ清原氏の加勢を得て、勝利した。

清原氏は、その後出羽国陸奥国の両国に権威をもった。

清原氏の内紛に介入した源義家は、清原家衡・武衡連合軍を出羽国金沢の柵で破り、清原氏総領家は滅亡した。

この戦いは、後三年の役といわれる。

義家の助力を得た清原清衡は、安倍氏の外孫であり、母親の再婚よって清原氏の養子になっていたが、清原氏の旧領をすべて手に入れ、実父である藤原経清の姓藤原に復した。

 

奥州藤原氏は、朝廷が派遣した国司をうけいれ、第一の有力者として協力するという姿勢で対処した。

朝廷や、摂関家に対する献上品や具物を欠かさなかったため、奥州藤原氏を信頼し、事実上の欧州支配を容認した。

平安時代末期において、出羽国府の直接管轄地以外は陸奥国とされたようである。

北部の比内郡と鹿角郡だけではなく、「山北三郡」と呼ばれる山本郡・雄勝郡平鹿郡藤原氏の勢力範囲にあり、陸奥国とみなされていたようである。

清衡、基衡、秀衡、泰衡と4代100年にわたって繁栄し、平泉は平安京に次ぐ日本第二の都市になったといわれる。

しかし、鎌倉幕府を成立させた源頼朝は、背後に長年独自政権を敷いてきた勢力があることを恐れ、義経を匿っていたことを理由に奥州に出兵した。

泰衡は、すでに義経を自決させていたが許されず、比内郡の贄柵に敗走し、家臣だった贄柵の領主河田次郎によって殺害された。

これによって、奥州藤原氏は滅亡した。

 

頼朝は、陸奥国出羽国に守護は置かず、御家人を関東から地頭として配置した。

この武士たちが、戦国時代まで割拠することになる。

葛西清重が、「奥州惣奉行」に就任し、平泉の統治を任され、下総国葛西郡から石巻に移った。
葛西氏は、米代川流域にも勢力範囲を広げた。

陸奥国では、ほかに、蘆名氏、安藤氏、石川氏、工藤氏、熊谷氏、相馬氏、南部氏、和賀氏が地頭として配置された。

出羽国では、橘氏、平賀氏、小野寺氏、武藤氏、大江氏、中条氏、二階堂氏、安達氏、などが配置された。

 

このうちの陸奥国の南部氏は、のちに江戸時代に盛岡藩の当主となっている。

南部氏は、甲斐源氏の加賀美氏の系統だったが、甲斐国巨摩郡南部郷を領したことから、南部三郎光行を称した。

南部氏は、現在の青森県岩手県の境となる糠部郷を本拠とした。

南部宗家は、三戸南部氏であったが、一戸、八戸、七戸、四戸、九戸にも同族があった。

 

比内郡には、鎌倉幕府成立と同時に、甲斐国八代郡浅利郷を本拠とする浅利義遠が比内郡地頭として置かれた。

比内浅利氏による支配は、天正10年(1582年)に浅利勝頼が安東氏に討たれるまで続いた。

安倍氏の末裔とされる安東氏は、天正18年以降、秋田城介を名乗り、秋田氏を称した。

豊臣政権によって、出羽秋田52404石の大名として認められている。

奥州合戦といわれる奥州藤原氏源頼朝の戦いの後、年代は不明であるが、鹿角郡に地頭として、関東武士団の成田氏とその一族の奈良・安保・秋元・成田の四氏が入部し、郡内郷村に定着する。

成田氏は武蔵国埼西郡成田郷を、安保氏は武蔵国賀美郡阿保郷を、秋元氏は上総国周准秋元郷を本拠としていたものである。

 

平安時代律令制のもとで、出羽国陸奥国に派遣された国司は、その任期が終われば京に帰ったことだろう。

しかし、鎌倉幕府が任命した地頭は、その土地と百姓を自己が所有することを認められたのである。

このようにして、将軍の御家人だった関東の武士たちは、陸奥国出羽国だけではなく、日本の全国に配置された。

そして、その土地に定着していった。

 

比内郡や鹿角郡に配置された地頭の姓は、それまでその地になかったものだったと思われる。

浅利、成田、安保、秋元、奈良という姓は、私の中学校や高校時代の同級生のなかにすべて見つけることができた。

考えてみると、頼朝がやったことは、日本の社会制度を考えたらとんでもないことだったじゃないだろうか。

まったく文化的にも違うところに、違う人間を持っていく。

種を蒔いて、植え付けてしまう。

後の、江戸幕府の大名なんて、サラリーマンみたいなものだ。

人事異動で、どこに行かされるかわからない。

頼朝が、陸奥と出羽にまいたものは、数百年後の今につながっている。

 

 

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焼きおにぎりをつくる

子どもの頃、おにぎりは焼きおにぎりだった。

中身は、梅干しか塩シャケだった、と思う。

いや、考えたら塩シャケは滅多にないので、味噌漬け大根だったかな。

なぜ、焼きおにぎりだったのかというと、焼き海苔、板海苔かな、それが高価で家にはなかったからだ。

結構大きめなおにぎりを、暖房兼調理用のストーブで、しっかりと焼いて、くずれないようにする。

醤油は使わない、白くてちょっと焦げ色の焼きおにぎりである。

くずれないので、弁当のように外に出かける時のおにぎりだ。

その場で食べるなら、小さめのおにぎりを作って、味噌を塗った手のひらで形を整える。

あったかいごはんと、味噌味がおいしかったな。

そういえば、子どもたちが小さい頃作ってあげたけど、よろこんで食べていた。

 

後年、居酒屋に出入りするようになって、手作りの焼きおにぎりを、お茶漬けと同じように出してもらえることを知った。

焼いた後に、醤油の上をころがしたやつである。

それまで、そういうのを食べたことがなかったが、スーパーの冷凍食品コーナーでも見かけるようになった。

 

結婚したら、妻はお煎餅とお餅が大好きだった。

おにぎりも大好きで、残りごはんがいっぱいあると、焼きおにぎりをつくっていた。

5、6個作って、テーブルの上に置いておくと、いつのまにか無くなってしまう。

子どもたちも、焼きおにぎりは好きなので、あれば手が延びる。

今は、焼き海苔だって、手軽に手に入るし、いつでもあるのだが、焼きおにぎりが簡単である。

妻が、小さめで具のないものを、いくつも焼く。

私は、醤油を入れた小皿にで、おにぎりをころがす、という分担作業である。

最も確実な、残りごはんの活用法である。

 

おにぎりと言ったら、孫娘が小さかった頃を思い出す。

ご飯が食べやすいように、小さいおにぎりのようなものを、ママが作っていた。

おにぎりというよりも、一口大のお団子のようなものだった。

お皿の上に、それが何個ものっていた。

それを、パクパク食べていた。

 

おにぎりつながりで、もう一つ。

きりたんぽ鍋で使う「きりたんぽ」は、細長い焼きおにぎりのようなものである。

杉の串に、ご飯を巻きつけて、焦げめがつくくらいに焼く。

それを、切ったりちぎったりして、鍋に入れるのだが、焼いてあるのでくずれにくい。

でも、これは焼くための時間がかかる。

「きりたんぽ」を即席でやるために、「だまっこ」というのがある。

これは、おにぎりのというよりも、もっと小さいだんごをいっぱい作って、きりたんぽの代わりに使う。

手で握っただけなので、長時間煮るとくずれるが、とりあえずはきりたんぽの代わりにはなる。

  

 

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地図アプリは楽しめる

YouTubeで、日本人はどこからきたのか、というような動画があったので見ていた。

話してた人の名前は、忘れてしまった。

氷河期は、日本列島は大陸とつながっていたので、歩いて行き来できただろうと言ってた。

そして、氷河期は海面が現在よりも140m低かったので、大陸棚と言われてるところは、陸地だったそうだ。

グーグルマップを使えば、大陸棚が一目でわかると言うことだったので、見てみた。

確かに、一目瞭然だった。

これなら、船がなくてもどこまでも、歩いて行ける。

 

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グーグルマップ 日本列島周辺

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アプリ「スーパー地形」 日本列島周辺

陸地に近い白っぽい海のあたりが、大陸棚と思われる。

 

「氷河期」と似たことばで「氷河時代」ということばがあるそうだ。

氷河時代」というのは、地球の歴史の中で、地球上に 大陸並みの大きさの氷床が存在している時代をいうので、広大な氷床が南極大陸グリーンランドにある現在は氷河時代なんだそうだ。

どうも、氷河期は地球の歴史では何回もあったので、よく言う「氷河期」は、最後の氷河期、この前の氷河期になるのかな。

それでは、地球上の水分が凍ってしまって140mも海面が下がってしまった頃の地球の気温はどれくらいだったのかと言うと、今より6.1度低かったそうだ。

氷河期ってもっと寒そうな感じだけど、そんなものなのか。

高緯度地方は、寒冷化の影響をとりわけ強く受けるので、14度低くなるらしい。

 

地球温暖化で、海面が上昇するということが、うるさいくらいに言われている。

反対に考えれば、いいわけだ。

たった1度の気温の上昇が、大変なことになってしまう。

気温上昇の影響を受けやすいのが、グリーンランドの氷床だそうだ。

全部溶けてしまうと、海面が7m上昇してしまうというから恐ろしい。

たった1m上昇しただけで、東京の江東区墨田区江戸川区葛飾区などはもろ影響を受けてしまうし、全国の砂浜のうち90%は失われる。

フィジィー、マーシャル、ツバルなどの海抜の低い国々は死活問題である。

 

YouTubeにて、面白い動画を見つけたので追加する。

[4k]海面上昇下降シミュレーション・日本周辺版

https://www.youtube.com/watch?v=1M6OUBZi2QU

 Europe Sea Level Rise

https://www.youtube.com/watch?v=1qIzgbG9sgg

 

USA Sea Level Rise (0 - 5000m) - YouTube

 

先日、東平賀にある東雷神社のあたりを歩いた。

かつて、私は両親と東平賀の台地に住んでいたところである。

自宅から駅まで歩いていたのだが、畑の近くを通っていた。

畑には、貝殻がいっぱい土にまざっていた。

貝殻があまりに多くて、貝殻を捨てようとはしないようだった。

「東平賀貝塚」という遺跡も残っている。

縄文時代に、そこに住んでいた人々が残した、かなり長い時代にわたる、大がかりなものである。

そこの説明板には、次のようにあった。

 

「現在、江戸川が流れる低地は、かつて奥東京湾と呼ばれる遠浅の海でした。縄文人達が海から採ってきて食べた貝殻を長年にわたり捨てた結果この貝塚ができました。貝塚の範囲は南北約60m、東西約130mですが、遺跡は貝塚の外側にも広がっています。」

 

東雷神社の前に行った、小金原の茂呂神社の近くにも、「貝の花」という地名があったけど、あれも貝塚に関係するものだったのかな。

あとで、調べてみよう。

 

そういえば、関東地方の中心部は、ほとんど海だったという地図を見た記憶があったので、探してみた。

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縄文海進と貝塚分布

こんな地図が見つかった。

縄文時代の地図に貝塚の発見されたものを表示したものである。

その頃の海岸線と貝塚が、重なっていることがわかる。

このように、地図を使っていろいろな研究が進んでいるのだろう。

調べてみれば、もっとさまざまなことがわかるだろう。

 

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ナタ漬けといぶりがっこ

私が育った秋田県は、塩分摂取量が多いといわれる。

料理の味付けが特に濃いとも思わない。

やっぱり、漬け物を多く食べるからだろうか。

秋田には、いろんな漬物があるらしい。

あるらしいというのは、秋田でも地域で違ってくるからである。

かつて、秋田から離れて、関東に来た頃、「いぶりがっこ」はあまり知られてなかった。

秋田で育った私も、知らなかった気がする。

 

いぶりがっこ」は、内陸南部地方の伝統漬物ということになっている。

内陸南部って、どのあたりだと思ったのだが、湯沢市の周辺らしい。

いぶりがっこ」はある業者が、商標登録していているので、「いぶり漬け」という名称も使われているらしい。

我が家にも、囲炉裏はあったので、それで大根を燻製にすることは可能だったと思うが、やっていた記憶はない。

秋田の北部では、やっていなかったと思う。

燻製はやっていなかったが、大根を乾燥させることはしていた。

軒下なとに吊るして大根を乾燥させると、しなびた感じになって体積が何分の1かになる。

それを、ぬか漬けにしていた。

生の大根に比べて、歯ごたえがあって、生の大根とは違ったうまみがある。

 

www.iburigakko.com

 

味噌漬け大根というのがあったのを、思い出した。

梅干しと並んで、おにぎりによくいれていた。

名前のとおり、大根を味噌に漬けたものである。

色も味も、まさに味噌である。

イメージ的には、奈良漬けに似ているが、酒粕ではなく味噌につけてあって、きゅうりなどではなく大根である。

大根は、意外に柔らかかったと思うので、干し大根ではなく、生の大根をつけていたのかもしれない。

とにかく、味が濃いのでおにぎり向きだったと思う。

お茶漬けでも、いいかもしれない。

https://www.shottsuru.jp/shop/?main_page=product_info&products_id=76

 

秋田を離れて、50年になるが冬になると食べたくなる漬物がある。

「ナタ漬け」である。

冬の寒い日に、ナタ漬けの樽に張った氷を割って、漬けられた大根を取り出す。

なんで、ナタ漬けというかと言うと、大根をナタでバッサバッサ削っていたかららしい。

まだシャキシャキした大根が、歯応えよくてうまかった、という記憶だけ残っている。

この50年、食べていない。

どこでも、売ってない。

氷が張るような寒いところでないと、食べられない漬物だ。

暖かいと、発酵が進んでしまうだろう。

たぶん、酸っぱくなってしまうんじゃないだろうか。

なにしろ、私が子どもの頃の農家は、家の中でも物が凍った。

食用油が凍って、瓶の中で白くなっていた記憶がある。

www.maff.go.jp

「ナタ漬け」のことを考えていたら、むしょうに食べたくなった。

自分で作ろうと、大根と酒粕と甘酒を買ってきてしまった。

食べれるようなものができるかは、ちょっと自信がない。

ナタ漬けは、一切れが大胆に大きかったが、私は少し小さめにした。

塩をふって、冷蔵庫に一日置いておく。

水分が出たのをとって、粕入りの甘酒を入れて、また冷蔵庫へ入れる。

一日して、食べてみたが、サッパリして、シャキシャキしてうまかった。

これなら、これからもつくってみよう。

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私がつくったナタ漬け

 

私が、畑に育つもので育ったのは確かだ。

自宅のまわり北と東は、畑だった。

家庭用の野菜を育てていた。

いろんな種類の野菜を、3畝とか4畝とかづつ作っていた。

そのせいか、今でも野菜は好きである。

子どもの頃は、そんなに野菜の種類は多くなかった。

大根は、よく買ってしまう。

辛い大根のおろしで、ご飯を食べるのが好きだったな。

子どもがあまり食べないような、辛い大根がよかった。

それから、ウラナリではない太ったきゅうりで、水分をとっていた。

書いていて、思い出した。

キャベツのことを、「玉菜(たまな)」って言ってた。

ジャガイモは、暑い炎天下に掘ってた。

今年は、ジャガイモが悲しくなるくらいに、値段が高かった。

テレビを見てたら、最近になって野菜がだいぶ安くなってきたらしい。

 

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