晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

男子厨房に入るべし

我が家は、子どもが男3人である。

ということは、女性は妻だけである。

私は、ずっと妻といっしょに台所に立つようにしてきた。

子どもたちが小さい頃から、できるだけ台所に立たせるようにした。

自分が食べるものくらいは、自分でできる人間になって欲しかったからだ。

人が作ってくれるのを、座って待ってるだけには、なってほしくなかった。

私の母と同居していた時期があったが、台所に母が孫と並んで何かやってる姿の写真が何枚か残っている。

 

私の父は、私が小さい頃、炭焼きをやっていた。

炭焼きというのは、炭用の木材のある山の中に、炭焼き窯を作る。

そして、窯と一体化して、寝泊まりのできる小屋を作ってあった。

炭というのは、木材を不完全燃焼させることによってできる。

燃焼させてしまったら、灰になってしまう。

だから、何日も泊まりこんで、空気の調整をして不完全燃焼させる必要があった。

父は、食べ物を自分で用意して、食べていた。

姉と二人で、山道をずいぶん歩いて、父の炭焼き小屋に行ったことがある。

わたしが小学校低学年くらいだと思うので、逆算すると父は30代前半くらいだと思う。

緑に囲まれた炭焼き小屋を、覚えている。

 

父はそういう生活を、何年くらいしていたのだろうか。

そのあと、何年かして出稼ぎ生活を始める。

詳しことは聞いてないが、北海道の山仕事は厳しかったというのは聞いている。

タコ部屋といっても、今は死語かもしれないが、そんなことも言っていた。

東京オリンピック前の、高速道路の建設現場にもいた。

トヨタ自動車の季節作業員みたいなこともやっていた。

食事が提供されるようなところもあっただろうし、自炊するようなところもあったと思う。

父は、自分の食事は自分で用意できる人だった。

だから私も、子どもの頃から母が仕事でいなければ、自分で適当に食べることはしていた。

 

我が家の子どもたちが、小学校低学年から幼稚園くらいの時、私と息子たちで夕飯を作ることをやっていた。

週末に、お母さんは食事を作らなくてもいいよ、という日があった。

どんなものを作っていたのか、具体的には思い出せない。

書くのが好きな末っ子が、「○○△レストラン」と名づけてメニューを作っていた。

その甲斐あって、必要になれば3人とも、何か食べたいものは自分で作れるようになっている。

 

それが関係あるのかどうかはわからないが、それぞれに飲み物にとても興味を持つようになった。

長男は、コーヒーに興味があって、コーヒー関係の資格を学生時代に取っていた。

次男は、日本茶に関心があって、三男は紅茶だった。

だから、我が家では、コーヒー、紅茶を飲んで、最後に緑茶になったりする。

 

退職してから、自由な生活になった。

私は、結婚してから、食事の準備はいっしょにやるようにしてきた。

妻は、今でも時々働きに出たりするので、私が台所に立ってることが、さらに多くなった。

買い物も、私が一人で行くこともあるし、妻が休みだったら二人で行く。

夕飯のメニューを考えている。

二人だけだったら、何でもいいやと思うかもしれない。

今は、息子が同居しているので、そんなわけにもいかない。

でも、もともとが好きなので、楽しんでやってる。

 

 

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晴れたので散歩③ 名戸ケ谷ビオトープ

病院の解体現場を過ぎると、道路をはさんで東武バスの車庫がある。

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東武バス車庫から名戸ケ谷ビオトープを見る

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そこから脇道を少し入ると、「名戸ケ谷ビオトープ」のかんばんがある。

私道の両側が、ビオトープとして整備されている。

私が、体力づくりのためにランニングを始めた十数年前、ここを目的地にして自宅から走っていた。

自宅からは、約3キロメートルほどである。

当時は、まだビオトープの看板もなく、「名戸ケ谷湧水」として、知られていた。

湧水のそばにある東屋で休憩して、まわりの風景を楽しんでから、また走って帰っていた。

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東屋は今もあった

かつては、湧水のあたりが池になっていて、木道が作られていた。

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この辺りに湧水が流れ出ていた

その頃は、湧水が流れでいて、水も汲めるようにはなっていたが、「飲料に適しません」という表示がされていた。

もうすでに、その施設はなくなっていた。

 

湧水は柏市内に9ケ所あるということである。

このうち飲料として適したものは、どれくらいあるだろうか。

湧水というのは、自然に湧き出るということだから、湧き出るところよりも高い森や林がその水源になっていると思う。

そういう所は、すでに住宅地化されているので、水質が悪化している可能性がある。

井戸を掘って、汲み上げるには大丈夫だろう。

先日増尾のあたりを車で走っていたら、不思議な施設が見えて「第四水源地排水池」となっていた。

あれは、水道のための井戸だろうか。

第四ということは、いくつくらいあるのだろう。

 

柏市のウェブサイトには、「名戸ケ谷ビオトープ」について、次のようにあった。

柏市では、湧水を水源とした水田や湿地を利用して、多様な生きものの生息空間を保全するビオトープを名戸ヶ谷に整備しています。

名戸ヶ谷ビオトープは、名戸ヶ谷周辺地域に残された谷津の一部と湧水を活用して整備することで、都市化が進んだ柏市において、かつてこの地域に存在した風景を現代に残す自然あふれる湿地環境となっています。このような環境の保全は、湿地を好む生きものが生息する場を残していくことだけではなく、その生きものを捕食するために別の生きものが来訪するといった生態系の循環を生み出すことも目的としています。」

 

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ビオトープは、二つのゾーンからできていた。
かつて、私が走ってきてた頃からある「水辺のいきものゾーン(湿地エリア)」と、新しくできた「水田生態の復元ゾーン(水田エリア)」である。

水辺のいきものゾーンには、ヨシやススキが生い茂っり、水辺にはいろんな生き物が泳いでいる。

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マツカサススキ はじめて見た ほんとにマツカサのようなものが

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こんなものもあります 飲めないのかわからない

新しい水田エリアには、うるち米ともち米が植えられていた。

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こちらは水田エリア

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うるち米の看板

田んぼの木道を歩いていくと、田んぼのと反対側に、小さな流れがあった。

水辺エリアの水と比べると、やけにきれいな水が流れている。

小さな看板があったので、よく見ると「ホタルの水路」となっていた。

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ホタルの水路

たしかに、ホタルはきれいな水でないと生息できない。

今年も、ホタルが飛んだのだろうか。

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このビオトープの中には、いろんな木がある。

この辺りは、湧水があり、新柏の方向から流れてくる大津川支流の流路でもあったと思う。

樹木は昔からもままの、ものかもしれない。

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東屋で一休みして、ゆっくり帰ることにする。

まだまだ、陽射しは強く、暑くなっている。

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言語と文字について考えてみた

柏の葉公園のあたりを、車で走っていた。

柏の葉公園のある地域は、アメリカ軍の通信基地があった所で、1981年に返還された跡地である。

最寄駅は、つくばエクスプレス柏の葉キャンパス駅である。

千葉県営の柏の葉公園の他に、公共の施設が数多く建設されている。

東京大学柏キャンパス千葉大学柏キャンパス、柏の葉高校、十余二小学校などの文教施設。

税関分析研究所、税関研修場、科学警察研究所、第三機動隊といった具合である。

 

そして、「国立がん研究センター」がある。

この施設の看板をみて、ひらめいたことがある。

日本語は、3種類の文字で表記されているという文章を見たばかりだったからだ。

漢字+カタカナ+ひらがな である。

なるほど、「国立がん研究センター」は、漢字(2字)+ひらがな(2字)+漢字(2字)+カタカナ(4字)からできている。

「がん」ということばは、「癌」という漢字でも表記できるのに、ひらがなを使っているのはなぜだろう。

「癌」という漢字のインパクトが強すぎるので、ひらがななのかな。

「センター」は、外来語なので、カタカナ表記なのだろうが、強いて漢字でも表すとしたら、どうなるのだろう。

中央とか、中心的役割をする機関のことを言うらしい。

「国立癌研究本部」とでもなるのだろうが、たしかに硬すぎる。

正確には、この施設は「国立がん研究センター東病院」らしい。

「中央病院」は、東京の築地にあるとのことだ。

 

日本語では、漢字だけではなく、カタカナとひらがなをつくり出したことにより、日本語の表記をわかりやすくしている。

漢字についても、音読みをカタカナで、訓読みをひらがなで表記したりしている。

音読みは外来語であり、訓読みが大和言葉つまり本来の日本語と考えられる。

音読みも伝えられた時代によって、呉音、漢音、唐音、明音とあるのだな。

カタカナとひらがながなくて、漢字だけだったらどうなっていただろうと考えると、なかなか難しい。

万葉仮名の世界だな。

反対に、漢字がなくて、カタカナとひらがなだったら、ということも考えられる。

 

そんなことを考えていたら、日本と同じように、漢字を自国語の表記に用いていた国である、ベトナムと朝鮮のことを思いついた。

日本と同様に、自国語のための文字を持っていなかったので、公式文書は漢字を使っていた。

日本は、800年頃にカタカナを、900年頃にひらがなを考え出した。

それによって、漢字、カタカナ、ひらがなを用いて日本語を表記するようになった。

ベトナムは、15世紀頃にはベトナム語を表記するための文字「チュ・ノム」を作り漢字と併用したが、あまり一般的には普及しなかったらしい。

17世紀に、キリスト教の布教やフランスによる植民地時代を経て、ラテン語アルファベット表記を使うアンナム語(安南)語が、作られて公用語とされた。

それによって、公式には漢字が使われないようになった。

朝鮮でも、15世紀に朝鮮語を表記するための表音文字が作られ、「ハングル」と呼ばれた。

韓国においても、北朝鮮においても、公文書においては、ハングルの使用に限定された。

しかし、韓国においては、当分のあいだ漢字の使用を認めたために、漢字が併用された経緯があり、使用は限定したものになっている。

 

他の2国は、漢字を捨てたのに、なぜ日本は漢字を抱え込んだままなのだろうと、考えてみた。

やはり、識字率の高低が大きいのでは、ないだろうか。

日本では、識字率があまりにも高すぎたので、漢字を捨てることができない、漢字を捨てる必要がなかった。

識字率が、ベトナムや朝鮮のようにわずか数パーセントならば、漢字は捨てて、ひらがなとカタカナだけ教えればいい。

ただ、日本語のように母音が少なく、声調もないと、同音異義語がやたらと多くて、困難である、のは確かだろう。

 

私は、ことばとか名前とかがとても気になってしまう性分で、引っかかってしまうと気になって、いろいろしらべてしまう。

私が、中学生、高校生だった頃に、ベトナム戦争のニュースがいつも流れていた。

大学生の時に、アメリカ軍はベトナムを撤退した。

その頃の、北ベトナムの英雄は、ホー・チ・ミンで、南ベトナムの大統領はグエン・バン・チュー、副大統領は、グエン・カ・オキだった。

ベトナム人の名前は、どうも漢字名が元になってるらしいことを知った。

ホー・チ・ミン胡志明、グエン・バン・チューは阮文紹、グエン・カ・オキは阮高奇だった。

ベトナムの国名自体、越南国からきている。

後年、「三国志演義」を読んでいたら、諸葛孔明が越南国に何度も遠征していた。

遠征した時は、服従するが、引きあげてしまうと、また元にもどってしまうという、その頃からしたたかな国だった。

 

韓国の大統領で、私が最初に知ったのは朴正煕大統領であるが、パク・チョンヒという発音は知らなかった。

日本では、「ボク・セイキ」と読んでいた。

その後、日本のマスコミなどは、大統領名を漢字で表記するが、韓国の発音で伝えることが多くなったように思う。

盧泰愚(ノ・テウ)、金泳三(キム・ヨンサム)、金大中(キム・デジュン)といった具合で、韓国語読み、日本語読みの両方で知られているような気がする。

ベトナムも韓国も、漢字を公用語から外すようになって、長い期間が経っている。

しかし、氏名という基本的なものなのに、どうしていまだに漢字から離れることができないでいるのだろう。

 

現在のところ、漢字を自国語に公式に使用しているのは、日本と中華人民共和国中華民国の3カ国になるのだろう。

同じ漢字といっても、それぞれに使っている漢字は違っている。

日本では、第二次世界大戦後に漢字の字体整理を行い、従来の活字字体と異なった簡易字体である「新字体」を定め、従来の字体を「旧字体」とした。

「簡易字体」は、「当用漢字字体表」に約500字が示されている。

中華人民共和国が制定した従来の漢字を簡略化した字体体系は、簡体字といわれる。

「簡化字総表」には、2235字掲載されている。

中華民国においては、簡略化していない従来の漢字、いわゆる繁体字がそのまま使われている。

日本における「旧字体」に近いが、おなじではないらしい。

戦前において、すでに活字体に違いがあったようだ。

 

今はコンピュータの時代なので、どんな漢字でも表示しようとすればできるだろう。

字を字形によって分類した辞書は、中国においてずっと作られてきたらしい。

清の「康熙字典」では、214部首4万9000字あまりとなっている。

でも、コンピュータの世界では、unicode13.0では、9万2856字であり、日本のフォントアプリ「今昔文字鏡」には、なんと17万字以上収録している。

 

中華人民共和国でも、簡体字繁体字に戻そうという動きもあるらしい。

過去の遺産を読むことができないのだから、そうせざるを得ないかもしれない。

それは、ベトナムや韓国、北朝鮮も同じだろう。

 

話が、どんどん外れてしまった。

初めに書いた、癌とがんのことであるが、医療の世界ではこの二つは同じではないとのことだ。

癌は、「上皮性の悪性腫瘍」のことである。

がんには、さらに肉腫と言われる「非上皮性の悪性腫瘍」と白血病悪性リンパ腫などの「血液のがん」が含まれるとのことです。

 

 

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空と雲を見ている

外を歩いていると、空が気になる。

青空が見えるような天気だと、雲がおもしろい。

雲って、こんなにいろんなものがあったのかと、驚かされる。

私は、雲の他に、緑の森や林なども興味の対象である。

写真でも撮っておこうとすると、邪魔なものがある。

電柱と電線である。

ふだんは、あまり感じないことだが、いざ写真を撮ろうとすると、こんなにもいっぱいどこにでもあるものなのか、と思ってしまう。

電柱は、道路沿いにどこにでもある。

そして、電線は電柱と電柱を繋ぎ、さらに住宅とを繋いでいる。

まあ、生活感があると言えば、そのとおりだが、自然だけの風景を撮りたいのも確かである。

 

先日、墓参りに行ってきた。

彼岸はまだだが、当日だとこみ合って大変なことになるので、だいたい前もって行く。

いつものように、白井市にある松戸市営の霊園と、船橋市の馬込沢にある船橋市営の霊園である。

松戸市営白井聖地公園は、面積8万9000平方メートルで、昭和63年に開園してるが、松戸市内で土地が確保できなかったらしく、かなり離れた白井市に建設している。

船橋市の霊園の方が、昭和26年開園で歴史も古く、面積も28万平方メートルと広大なものである。

墓参りをしていて気がついた。

霊園には、電柱も電線もない。

夜間は立ち入ることがないので、照明もそんなにない。

そのかわり、墓石はたくさんある。

これは、空の写真が取り放題である。

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人間の身体中を、血管がめぐっている。

電線もまた、日本中の道路に沿って、血管のように、そして毛細血管のように隅々まで網羅している。

巨大な送電線が、心臓に繋がる動脈や静脈になるんだろか。

その空白地帯が、霊園だったということなのかな。

人間の住んでないところは、狭い日本だけどけっこうありそうだから、意外に空白地帯は広いのかも。

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朝早くには、空一面にあった雲が陽が登ると、青空になっていたりする。

そういえば、山の頂上などで朝早いと、雲海が見られる。

一面が、雲の海である。

しかし、太陽が登るとその雲の海はほとんど消えてしまう。

それらの雲は、山よりも低いところにある雲なのだ。

地上から空を見ていると、みな同じ雲だけど、雲のある高度によってかなり違ってるようだ。

地上から低いところにある雲は、よく見てると流れがとても早く、いつのまにか消えてしまったりする。

高いところにある雲は、流れて行くのがわからないくらいに、ゆっくりだ。

人の手では描けないような、繊細な模様もある。

入道雲は、低いところから高いところへと、立ち上がるように延びていって、人の想像を超えたような造形を見せる。

真っ青なキャンバスに描かれた雲は、見ていて飽きない。

 

 

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晴れたので散歩② 名戸ケ谷台地

建物の前面に不思議なキャラクターが、いっぱい描いてあるビルが見えてくる。

ケーブルテレビの「J:COM東関東」である。

「東関東」という大そうな名前であるが、提供区域は柏市我孫子市鎌ヶ谷市野田市白井市の5市である。

J:COM東葛葛飾」というのが松戸市にあって、これは提供区域が松戸市流山市野田市、東京都葛飾区となっている。

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J:COM東関東

もともとは、「タイタス」という伊藤忠商事東芝が親会社のケーブルテレビ会社だったのが、J:COMに吸収合併したものだ。

私の住む集合住宅は、隣接の光ヶ丘団地の建て替えによって、電波障害が発生したのでタイタスからテレビ電波を再送信していた。

なので、ケーブルは入っていたので、ケーブルテレビ契約をしていたことがある。

その頃は、ジャンルを選択して契約できたのだが、その後ジャンル契約ができなくなってしまって割高になるのでやめていた。

現在は、インターネットの接続契約をしている。

 

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スーパーの屋上駐車場より日立台方向を望む

名戸ケ谷の台地の斜面にスーパーがあるので、屋上駐車場から周りの景色を見た。

正面に日立台の森があって、柏レイソルの柏スタジアムの照明塔が見える。

この日立台から永楽台に続く台地が、この名戸ケ谷の低湿地の北側に位置している。

こちらの名戸ケ谷から増尾に続く台地が南側にあって、南北から囲んでいる。

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法林寺と大イチョウ

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立体地形 名戸ケ谷周辺  アプリスーパー地形

こうやって、土地の標高がわかる地図を見るとおもしろい。
中央のあたりに、名戸ケ谷の低湿地がある。

その北側に日立台の台地と永楽台から亀甲台につながる台地があるのだが、その間は低地になっていて川が流れている。

そういえば、勤めていた頃、この亀甲台を自転車で通勤していた。

たしかに、低いところを小川が流れていた。

幅が、1メートルもないような、かわいい川だった気がする。

そして、南側の名戸ケ谷の台地と増尾の台地の間も、低地になっていた川が流れて、大津川に流れ込んでいる。

これは、コンクリートで護岸が作られていて用水路のようになっていた気がする。

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陰影起伏図 名戸ケ谷周辺 アプリ古地図散歩

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名戸ケ谷の台地 香取神社の森

香取神社には寄らず、左に曲がって坂を降って行くと、道の両側は竹林である。

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竹林の中に入り口があった。

立ち入り禁止になっていて、雑草が生い茂っているが、よく見るとその奥に屋敷門がある。

かなり立派な作りのように見える。

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屋敷門

写真では、薄暗くてよく写っていなかった。

このあたりには、スーパー、ホームセンターなどの大型店舗があり、2、3年前まで救急病院もあったので、この辺りの地主さんのお屋敷かもしれない。

これが裏門で、正門は他にあるのだろうか。

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バス停 中郷

バス停があって、「中郷」となっていた。

「中郷」というぐらいなので、この辺りが村の中心だったのだろう。

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救急病院の解体現場

坂を降って行くと、救急病院の解体現場の前である。

半年ほど前から、解体工事を始めていて最近まで、2、3階の外壁が残っていた。

今日は、外壁はほとんとなくなっていて、瓦礫の山だった。

近くに、職員宿舎や広い駐車場もある病院だった。

現在は、新柏駅から近いところに、新病院が建設されていて、開業している。

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点と点がつながる

サスペンスドラマで、こんな展開がある。

複数のまったく関係のない人物のドラマが、同時に進行して行く。

それが、一つの事件にかかわることになる。

それぞれに存在していた点が、つながってしまう。

森村誠一さんの小説など、こんな感じが多かった気がする。

なにも、サスペンスだけではないかも知れない。

 

自分のことを、考えてみる。

私は、秋田の山奥に育ち、首都圏に出てきて、就職する。

妻は、東京の下町で育ち、都内で働くようになる。

その二人が、あるきっかけで家庭を持つようになっている。

点と点が、つながってしまっている。

自分だけではない、人はみんなそんなものかもしれない。

 

これとは、かなり違っているが、思いがけなくつながってしまってこともある。

私は、結婚し松戸市公団住宅に住んでいた。

そこで、やはり結婚してその公団住宅に住んでいた幼なじみと再会した。

私は、秋田の山間の農村で育った。

小さな学校だったので、小学校中学校と全く同じ顔ぶれで9年間を過ごした。

正確には、小学校入学前の保育園の1年間があるので、合計10年間である。

数人の出入りはあったが、最終的には男女36人だった。

卒業後は、ほとんど会う機会もなく、ばらばらになった。

数回のクラス会はあったが、会えば男女とも、名前は呼び捨てである。

 

同級生の彼女は、高校卒業後、東京方面に出てきたらしいが詳しくは知らない。

私は、たまたま千葉県で就職したが、結婚を機に両親と暮らしていた実家を出て、公団住宅に住んでいた。

卒業後、15年くらい経っていた。

首都圏に出てくるといっても、東京だけでなく、神奈川、埼玉、千葉とある。

公団住宅だって、松戸や柏の近辺だけでも、何ヵ所もある。

それが、こんなにピンポイントで会ったので、驚いた。

さらに、偶然はあるもので、妻の実家と同級生の配偶者の実家が、かなり近所だった。

新京成電鉄の沿線の駅から、徒歩で15分くらいのところに妻の実家はあったが、駅から歩いて行く途中に、同級生の嫁ぎ先はあった。

その後、私は現在住んでいる住居に転居したので、公団住宅に住んでたのは2年半ほどだった。

ありえないような偶然が、重なっている。

確率の問題かもしれないし、こんな偶然は稀だろうが、あり得るのだ。

 

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島内製菓 「大文字」

先日、郷里の大館市の銘菓を紹介したときに、島内製菓の「大文字」というお菓子のことを書いた。

「大文字」は、大館市で毎年夏に行われている「大文字焼き」にちなんでいる。

大文字焼き」は、京都の「五山送り火」にならって、大館市の「大」の字のつながりから始めたらしい。

「大文字」の包装紙には、「大文字」の上に「鳳凰山」と描かれている。

鳳凰山は、大館のシンボルである標高520メートルの山で、「大文字焼き」はこの山腹で行われている。

この鳳凰山という山名は、かつて山嶺にあった鳳凰山玉林寺に由来しているらしい。

この寺は、今は移転しているが、室町時代にこの地を治めていた豪族の浅利氏が建立したものだった。

浅利氏は、もともと甲斐国八代郡浅利郷を本拠としていたが、浅利義遠が、壇ノ浦の戦いの勲功により、比内郡を拝領されたとされており、比内の浅利氏は義遠の子孫といわれる。

甲斐国には、鳳凰三山と呼ばれる地蔵岳観音岳薬師岳からなる名山があり、玉林寺の山名の「鳳凰山」もこれに由来するのではないかといわれる。

 

南アルプスを代表する鳳凰三山は、私も登頂したことがある。

また、「鳳凰山」や「鳳凰」という言葉は、大館ではいろいろなところで使われている。

いろんな名称や、校歌などにも登場していると思う。

山梨県は、友人の郷里でもあり、南アルプスの山々は自分にとって身近な存在であった。

大館の領主だった浅利氏が、甲斐国から来たということも知ってはいたが、「鳳凰山」という名称でつながるとは思ったことがなかった。

 

考えてみれば、大館の隣は陸奥国であり、南部藩が治めていた。

南部氏もまた、もともとは甲斐国巨摩郡南部郷を本拠にしていた豪族であった。

頼朝の平泉攻撃の際に、従軍し功により南部光行陸奥国糠部五郡を給されたとあり、それが奥州の南部氏のはじまりとされている。

たぶん、このようなことは日本全国にいろいろとあるのだろう。

そうして、点と点がつながってきてるのかもしれない。

 

 

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晴れたので散歩① 新柏さくら通り

朝起きた時は、空は雲がいっぱいで、すきまにちょっと青空が見えた。

新柏駅方面に用事があったので、歩いて行った。

空は、ほとんど青空になっていて、ところどころに雲がある感じになっていた。

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用事が済んだので、天気もいいことなので、もっと歩くことにした。

陽射しが強くなりそうなので、気温は上がってくるかもしれない。

とりあえず、新柏駅に向かう。

 

東武野田線新柏駅は、私が柏市に移った頃に新しくできた駅だ。

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新柏駅前の広場

駅前の広場に、この地域の区画事業の記念碑があったが、内容をよく読んではいなかった。

柏市名戸ケ谷前土地区画整理事業完成記念碑」となっていた。

内容を読んでみると、次のようになっていた。

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このあたりは、大津川支流によって形成された肥沃な沖積層で、ここに住む人々に天与の恵みを多く与え続けてきました。たわわに実る稲穂は、人々にこれまでの苦労をいやし、更に働く意欲をかき立ててくれたのでした。

時の流れは、社会状況の変化や産業構造の発展へと進み、首都近郊都市として特に住環境にに利便の地を求めるようになりました。

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記念植樹のクスノキ

この文章だとわかりにくいが、農地として使用されてきた低湿地を、農地としてだけではなく、柏の中心部に近いという地の利を生かして住宅地としても開発しようとしたのだと思います。

こうして、昭和54年に柏市名戸ケ谷前土地区画整理組合を設立し、32.5ヘクタールの整備事業を始めたのだそうです。

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古地図 明治初期 名戸ケ谷周辺 アプリ古地図散歩

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古地図 1960〜1980年頃 名戸ケ谷周辺 アプリ古地図散歩

事業内容は、この区域に幅員16メートルの幹線道路を縦横に配置し、さらに都市排水の流下能力を高めるために、道路下は大型の暗渠水路にいたしました。また、この事業の進行とともに東武鉄道野田線新柏駅が開設され、その駅前に2,600平方メートルの広場を設置して、利用者の便宜を図ることにしました。

さらに幹線道路に桜を植樹して将来桜祭りの催しも可能なように配慮しました。

 

この碑文を読んで、なるほどと納得したことと、あれっと疑問が残ったことがあった。

 

幅員16メートルの幹線道路とあるのだが、そんなに幅があるかなということである。

片側1車線の道路であるが、両側の歩道は自転車の走行も可能なかなり広いものである。

また、車道の路側帯も広めなので、この数年は自転車専用通行帯になっている。

16メートルくらいは、あるのかも知れない。

 

区画整理前の地図を見ると、西から東に大津川の支流の流れがある。

区画整理後には、川の流れは消えてしまっている。

区画整理によって整備された幹線道路にしては、微妙に曲がっている。

道路下は暗渠水路になっているということなので、それまでに流れていた大津川の支流の流路を生かした形で、幹線道路を建設し暗渠としたと考えると、納得できる。

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古地図 2000〜2015年頃 名戸ケ谷周辺 アプリ古地図散

新柏駅からの幹線道路は、進んでいくと国道6号線を分岐してJR常磐線の隧道を潜ってきた道との交差点にぶつかる。

この幹線道路の両側には、桜並木が整備されているが、植樹されてから30年以上になるので、春には見事な桜並木を楽しむことができる。

なんと、1500メートル近いさくら通りなので、区画整理の計画段階でこれを組み込んだ方々の先見の目だと思う。

後になってから、このようなことはなかなかできることではない。

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桜並木は、桜の葉は黄色くなり始めていて、地面に落ちているものもある。

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交差点で右方向に曲がると、登り坂になっていて名戸ケ谷の台地である。

かつてはこの辺りに、集落があったのだろう。

 

 

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くめじのはし① 菅江真澄テキスト

(序文)
天明四とせ(二七八四)の甲辰の夏、六月三十日旧洗馬村をたちて、越のうしろ洲に行とて、清水の里、桐原のまき、つかまのみゆ、などを見めぐりて、水内の郡に到りて曲橋(この橋を久米路の橋といへり伊那の郡にも同名聞こえたり)を渡りて、この冊子の名を来目路濃橋(クメチノハシ)といふ。
 
ふるきところ/\゛のかんみやしろに、ぬさむけたいまつらまく、はた、名だたるくま/\゛も分見ばやと、このも、かのもにはせめぐり、
去年の夏五月雨のはれなん頃ほひ、此科埜の国なる束間の郡に来て、むかしかたらひし友がきをとへば、世をはやうさりてなきが多かりければ、ありつるひとりふたりにこととひかはし、
いざ、ことかたにとおもふ折しも、可児永通てふくすしの、あがやどに、たびごろもうらぶれやすめよなど、夏野の草のねもごろにいへれば、いざ、ひと日ふつかもありなんと思ふほどに、木襲の麻ぎぬ浅からず、
須羽の海のふかきなさけに、なにくれと、ひくあみのめやすうなりむつび、こゝらの友どちの円居に、かたらひなづさひて、たびの空のくもらはしきこゝろもなう、月日のうつるもしらぬに、ふる里のかたしきりに偲ばれて、
まだ見ぬかたにとこゝろひけど、この里の余波はさらにもいはず、をさなきわらはべ、砌にあさるくだかけ、門にはふ狗すらも、朝夕めなりがほに、もりとがめざりければ、
しかすがに、わかれんことのいとど心ぐるしう、むねつとふたがるに、老たるどちは、又逢事は片山里の太山木、やがてくちなん身は、いふかひなけんなど、せちに聞えたるいらへさへ、
夏引の糸のいとこゝろぼそくも、水無月のつごもりの日、蒙騰西播の郷を出なんとほりするに、いましはと止めて此里の人々、うまのはなむけして、とり/\゛に歌ながめてわれに贈ける。
屋戸のぬしかにながみち。
 
   行旅をめぐりも帰れこの里の馴しわがやを栖家とはして
 
となんありける歌の返し。
 
   たび衣たち別てや行ほどもなれにし宿にとく帰りこん
 
今井の村よりふみにこめて来るを見れば、あが国の道の友とかたらひしほどもなう、けふの別は夢うつつともおもほえぬなどありて、梶原景富。
 
   いかがせんみち尋ね来てかたりあふ友にわかるゝけさの余波を
 
   十かへりの例もあれなかはらずよ又逢ふことを松に契らん
 
かくなん、ふたくさのありける返し。
 
   別てもあしたにききしみち芝の露もわすれし君が情は
 
   尋ねこん心の色もかはらじとつゝむにあまる松のことの葉
 
青松山長興寺僧洞月。
 
   一とせは夢てふものをけふしはや別にそそぐ袖のむら雨
 
   ひとり行旅路の空はうかりともながめにあかじちまつ島やま
 
   初秋のおく露わけてみやぎのゝ名だたる萩の花や見るらん
 
みちのおくに、かねていなんとこゝろざせば、かくなん三くさの歌もて贈り給ふ也けり。此返し。
 
   一とせは夢うつつともなくばかりおそぶる袖に村雨ぞふる
 
   わかれ行空こそうけれながめあれと人やしのばんちまつ島山
 
   分まよふ袖や朽なん露なみだ君をしのびてみやぎのゝ原
 
くまがへなをかたが、  
 
   あすよりは誰と語てなぐさまんわが友がきはけふに別て
 
とある返し。
 
   こよひより草の枕の夢ならでなり見し人といかでかたらなん
 
備勝の翁が、
 
   なれ/\て別はつらし来ぬ秋の時雨ぬ生も袖ぞしぐるゝ
 
かくなんありける返し。
 
   人にけふ別おもへばこぬ秋の袖の時雨はなみだ也けり
 
琵琶橋(木曾路にあらねど、源の岐岨山なればにや、又の名は犀河といへり。
それにわたすはしなり)の辺に在るくすし義親。
 
   涼風頻到琶橋辺 
   唱送離歌楊柳篇 
   願是鮫人為一涙
   一珠日夜照岨川
 
といふ、しゐんをくれける。
 
このくしの用てふ文字を歌の末において、返しのこゝろを、
 
   わすれずよびはてふ橋のかけて人音信てまし木曾の山川
 
ふたゝび、よしちか。
 
   青柳の糸ぞみだるゝ別路のたび行人にいかヾ手折らん
 
となんありけるに、返し。
 
   折わぶる柳の糸のいとど猶みだれてものをおもふわかれぢ
 
葦の田にすめるほふり吉重。
 
   円居せし花や紅葉を別ては見るにしのばん春秋の空
 
とありけるに返し。
 
   花紅葉ながめむたびに春と秋わきて別し人や偲ばん
 
まづ高志の洲にいなんといふを聞て、このよしあつ、けふの別猶せちにおもふのあまり、ふたゝび。
 
   おもはずよ君がこしぢの浦波の見送る袖にかゝるべしとは
 
   君が行こしの浦浪へだつともわきて尋ん八重の隈路を
 
かゝる二くさの歌つくりける、返し。
 
   いとつらき別に越の浦波のかゝらぬ袖もけふ沾にけり
 
   高志の波よし隔つとも君がかたに立帰りこん八重のくまぢを
 
あさゆふ、こととひむつびたる政員。
 
   別ては雲路はるかにへだつとも雁の往来のたよりをぞまつ
 
政員がやにとへば、あるじの母なん、みづわざしたる姿して出たちけるに、ふたたびとひ侍らんといへば又とのたまへれど、わが身すでに老たり。
かく、ぼけ/\゛しうなりては、ゆふべの露ともたのむべき命なれば、けふをかぎりの別にこそあらめと涙をさきだてて、長き旅路をはやめぐりて、父ははにまみえてあれ、われだに、ひとりうき旅にと思へば、さぞやおぼしてんと涙にしはぶきまぜて、わが子をおもふがごとにいひけるに、
 
「わがははの袖もち撫て我からに哭しこゝろをわすれえぬかも」
 
とずして、いよよおやます国の恋しう、いかなるすぐせにや、かく人のおやの心の、やみにおもひたまへらんと、なみだをとどめて、
 
   いかなれば老のなみだのわが袖にかゝるなさけをえやはわすれん
 
まさかず、とりあへず母にかはりて此歌の返しをす。
 
   老の波いや高砂の松のごとかはらず見せよいくちとせまで
 
可児ながみちがやに、かい残しおくふたくさ。
 
   ふる郷にいそぐならひもたび衣きなれし宿はたちうかりけり
 
   それとえもいはで心のやま/\をへだても行か雲のちさとに
 
やをら首途せるに、政員も旅よそひして、追ついて来けり。こは、いづこにといふに、近きさかひまでは、ひと日ふつかも、かたらひ送りしてんといざなへるもうれしく、いざなひ、桔硬が原に出て、
 
   秋ちかうなるもしられて旅衣ひもとく花を分てきにけり
 

くめじのはし  菅江真澄テキスト

天明4年6月末、真澄はみちのくをめざして信濃国東筑摩郡洗馬村を出発し、長野を経て上水内郡を通過し、7月末に北国街道から越後に入る。

「くめじのはし」(久米路の橋)は、このあいだの日記である。

 日記の序文にあるように、「くめじのはし」という題名は、水内郡にある曲橋の名前からとっている。

原本は、小型本で、全43丁、図絵8図である。

菅江真澄全集では、36ページある。

このあと、真澄は越後から、庄内をとおり、9月末に秋田に入る。

そして、翌年天明5年8月までを、秋田で過ごす。

 

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くめじのはし なるほど曲橋である

 

 

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プリキュアとウルトラマン

5歳の孫娘は、今は「プリキュア」というアニメがお気に入りである。

これは、女の子向けアニメのシリーズで、ずいぶんと長く続いているらしい。

いろんなキャラクターが登場するのだが、孫娘がとても気に入っているキャラクターがある。

最近は、好きな色がパープルになっているが、このアニメの影響らしい。

ちょっと前までは、ピンクが大好きで、身につけるのもは、なんでもピンクだった。

そういえば、物心ついた頃は、オレンジがお気に入りだった。

これからも、変わっていくのだろうか。

 

わが家の三兄弟が小さい頃、「戦隊シリーズ」というのがあった。

チェンジマンとか、数え切れないくらいあった。

登場するキャラクターが、だいたい男女5人で、キャラクターのカラーが決まっていた。

それが、毎年新しいものに変わる。

どうして人気があるのに、まったく変えてしまうのだろう、と不思議だった。

普通のドラマだったら、登場人物は変わらないで、どんどん放送期間を延長していく。

不思議でならなかったのだが、ある時その理由がわかった。

スポンサーである玩具メーカーの事情だった。

毎年毎年、キャラクターを変えることで、新しいキャラクターグッズが売れる。

しかも、ヒーローは1人ではなく、複数の方が売り上げが多くなる。

なるほど、そういうことだったのか、としっかりと納得できた。

 

わが家の兄弟が小さい頃に、「アンパンマン」が登場した。

まだ、小学生の頃に、「ポケットモンスター」だった。

でも、考えたらいまだに、ちゃんと残ってるのは、すごいな。

兄弟3人、興味もそれぞれ違っていた。

映画も、「ドラえもん」、「クレヨンしんちゃん」、「ゴジラ」も行ったし、松戸にあったサンリオ劇場も行ってる。

あの頃は、インターネットも無かったし、今とは違うな。

孫娘も、YouTubeはなくてはならないものに、なってしまっている。

 

私の生まれた1953(昭和28)年に、日本で最初のテレビ放送が始まったらしい。

高級品だったテレビ受像機が、一般家庭に普及していくのが、私の小学生時代である。

地方や地域によって、普及状況はずいぶん差があるだろう。

テレビが入る前には、ラジオがあってラジオドラマをみんなで聴いていた。

ラジオは、木製で真空管が光っていた記憶がある。

小学生の頃には、テレビの子供向けドラマを観ていた記憶がある。

 

ウルトラマン」と「仮面ライダー」というのが、テレビの古典的特撮ものとして、必ずあげられる。

しかし、私はどちらもほとんど見ていない。

もちろん、名前と姿は知ってるが、具体的な設定とかは知らない。

どうも、どちらも私が男の子向けのテレビドラマを、見なくなってからのものらしい。

ウルトラマン」は、中学生になったあたりで始まってるし、「仮面ライダー」が始まった時は、もう高校生になっている。

その前の、小学生時代に見てたものなら、かなり思い出せる。

「少年ジェット」は、小学生ながらスクーターに乗った探偵で、「ウー、ヤー、ター!」というウルトラボイスで、大声の振動で敵を失神させる。

不思議な少年」は、超能力を持った主人公の少年が、「時間よとまれ」という言葉で、自由に時間を止め、「時間よ動け」で時間を動かし、犯罪者と戦うのだ。

白馬童子」は時代劇で、山城新伍扮する白馬童子が白装束で白馬に乗って登場し、悪人を退治した。

仮面ライダー」前にも、仮面ものがあって、「月光仮面」、「七色仮面」もあった。

七色仮面は、千葉真一さんが扮していたのは、最近知った。

子ども向け番組をを卒業した私は、どんなものを見ていたのだろう。

 

 

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