晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

春の手賀沼散歩

天気予報では、夕方には雨が降りそうだが、昼間は大丈夫そうだ。

我孫子市立図書館に返却する本があるので、歩いて行くことにする。

自転車も考えたが、歩いた方が気持ち良さそうである。

天気が崩れる前に、帰って来れるだろう。

ついでに道の駅しょうなんのその後の様子も見たいので、手賀沼南岸から、手賀沼大橋経由で、図書館のあるアビスタに向かうことにする。

ふだんはあまり通らない道を歩いて行こうと、自宅から西方向に向かって歩き出す。

かつて三男が通っていた幼稚園のうらを通った。

今は、保育園も併設されて、「こども園」になっている。

送迎用の駐車場で、保育園児がお散歩の準備をしていた。

散歩用のカートに乗り込んで、保母さんは両手に歩きのこどもの手をにぎっている。

順番に出発していた。

なんともかわいかったが、あまり見ないように通り過ぎた。

つくしが丘の住宅地を通り抜けて行くと、東武鉄道野田線の線路にぶつかる。

新柏駅増尾駅の中間あたりに、歩道橋がある。

線路の向こうに、小学校と中学校があるので、通学用に作られたのだと思う。

東武鉄道野田線は、2014年に「東武アーバンパークライン」というオシャレな愛称名が正式に決められたらしい。

でも、あまり浸透してるようには思えない。

1911年に千葉県営鉄道として開業し、その後北総鉄道総武鉄道と名前を変えながら、東武鉄道野田線になったのは、1943年だというから半世紀以上経ってるわけだ。

線路も電車も特に変わってないようなので、名前だけ変えられてもすぐにはなじめないだろう。

歩道橋より新柏駅方向

小学校と中学校のわきを通り過ぎて行くと、その向かい側には最近まで乗馬クラブがあったはずである。

新柏駅から徒歩4、5分のところにあるという乗馬クラブが閉鎖したらしいというのは知っていた。

この道は、10年以上は歩いていない。

乗馬クラブの跡地には、ソーラーパネルがズラーっと並んでいた。

さらに進むと、反対側に雑木林があった。

我が家の次男は、小さい頃にボーイスカウトをやっていた。

この雑木林が活動場所の「野営場」だったので、毎回送り迎えをしていた。

カブスカウトという、ボーイスカウトの幼年版から始めたので小3くらいだったと思う。

雑草や石っコロの好きだった次男は、紺色の制服を着て、林の中を走り回っていた。

雑木林はなくなっていて、障害者用の支援施設、診療所、カフェなどができていた。

その裏側には、大きなゴルフ練習場があったのだが、そこには名戸ケ谷から移ってきた大きな総合病院が建設され、2年ほど前から開業している。

新柏駅から続く住宅地が、森林でさえぎられる。

森林の中を通る道を行くと、農村の風情の風景である。

地図を見ると、「上郷」となっている。

名戸ケ谷の集落に出たのだ。

ところどころに農家らしき住居の残る住宅地を進むと、県道に出る。

県道を柏方向に降って行くと、道路の向こう側に子どもの遊び場がある。

ブランコなどがあるが、子どもが遊んでるのを見たことがない。

今日も、子どもの姿はなかった。

降って行くと、前から気になっている屋敷門が、鬱蒼とした林の中に見える。

門につながる道があって、草刈りはしてあるが、ふだん使われている気配は無い。

すぐに、「中郷」というバス停があったので、村の中心だったのだろう。

この屋敷は、庄屋とか名主とかだったのだろうか。

交差点で、右に方向を変えて、大津川に向かう。

交差点にあった総合病院の建物は、すべて解体されて何も無くなっている。

次の信号を渡って、田んぼ道に出た。

信号の近くの空き地に、大きな石碑が建っていた。

土地改良事業竣工記念乃碑」となっていて、昭和35年の日付だった。

石碑の裏に、この辺りの歴史や事業の詳細が書かれているようだったので、後で読もうと写真を撮った。

帰ってから読んでみようとしたら、日陰だったので刻まれた字を判読するのは難しかった。

田んぼ道を歩いて行くと、ところどころの田んぼは耕されているが、まだ水も入っていない。

私の郷里である秋田では、雪が融けるのを待って、田んぼづくりを始めて、苗代などの準備に忙しかった。

私の記憶では、「5月」(ごがつ)ということばは、田植え仕事のことだった。

我が家は、田んぼは少ししか持ってなかったが、田んぼの多い農家の子は、手伝いのために学校を休むのが認められてたな。

この辺りの農家は、のんびりしたものである。

秋田では、雪が降り始めるまでに、稲刈りや稲干しを終えなければならなかった。

時間との戦いでも、あったんだな。

50年以上も昔の子ども時代の記憶である。

今は、そいうこともないだろう。

大津川の土手に出たら、菜の花がまだ咲いていた。

土手を北上して、手賀沼との合流地点まで歩く。

天気が良かったので、土手には釣り人がいっぱい出ていた。

大津川河口にあるヒドリ橋からは、手賀沼南岸の遊歩道を西方向に進む。

東西に広がる手賀沼のまんなかに手賀大橋が、南北に架かる。

その橋のたもとに、「道の駅しょうなん」がある。

それまでの道の駅の西側に、何倍もの敷地の新館が建設されて、昨年12月に営業を開始した。

もともとが農産物の売り場が中心の施設だったが、その売り場面積は何倍にもなっている。

かつては、売り場は狭いけれど、旬のものが多くて安かったので、時々出かけてきていた。

しかし、新装してからは、旬のものが安いという感じはなくなっている。

品数は多いけれど、遠くまでわざわざ出かけようという気にはならなくなった。

旧館はしばらく工事のために、閉鎖されていた。

どんなふうになっているか、のぞいてみた。

 

旧館の農産物売り場は、半分は「ハレビノ」というベーカリーになっていた。

あとの半分は、“KIMURA PEANUTS"という看板がかかっていた。

どうも、ソフトクリームのお店らしい。

よく見ると、”MinamiBoso"という字も見えるので、どのあたりが本拠なのだろうか。

レジのスペースだったところは、「イートイン」であるらしく、すっかり明るい雰囲気になっている。

ロビーをはさんだ反対側には、レストランがある。

外側にテラス席が増設されていたが、店自体は変わってないだろうと良く見ないで帰った。

あとで、写真をよく見たら、「チャレンジ・レストラン」となっていて、柏市で飲食の開業や事業拡大を目指す店が、期間限定で入店する試みをやってるらしい。

ちょっと、楽しみである。

手賀大橋を渡って、手賀沼北岸を20分ほど歩くと、我孫子市立図書館が入っている複合施設のアビスタに着く。

受付で返却期日を過ぎてしまった書籍を返す。

図書フロアの先端にある地図コーナーに向かう。

閲覧テーブルは、明るくて広くとても気持ちいい。

さっそく、明治初期の「フランス式彩色地図」を広げる。

我孫子市立図書館の地図コーナーの地図はとてもきれいに整理されている。

「フランス式彩色地図」は、我孫子市とその周辺分とで、4セット25枚そろっていた。

地図は、すべてラミネートフィルムで保護されている。

たしかに、手にとってみるものなので、汚れ防止の点でも必要な処理だろう。

すべての地図を、ゆっくりと楽しんだ。

この地図は、手書きなので、担当者の個性がはっきりと出ている。

測図作業は、陸軍の陸地測量部が行なったので、測手と副手の2人で担当していて、それぞれ職名と氏名が記載されている。

住居や神社などの記号や、集落名や地名などの字の描き方にも違いが大きい。

今回気がついたのは、地図のタイトルである。

私の住む地域の地図のタイトルは、次のとおりである。

「千葉県下総国東葛飾郡小金開墾地及近傍村落」

千葉県という県名の後に、下総国という令制国名が続いているのだ。

この地図は、明治13年10月に測図されているので、この時期ならではの表記かもしれない。

1時間ほど地図を眺めたあと、館内をひと回りしてから帰途に着いた。

アビスタの建物を出て、手賀沼公園を抜ける。

子どもの遊び場の近くで、フェンスで囲って工事が行われていた。

オープンカフェ」の建設中です、となっていた。

子どもの遊ぶのを見ながら、お茶を飲めるのだろう。

手賀沼の湖面を見ながら、手賀沼北岸の歩道を北柏方向に進む。

ふりかえると、道の駅が遠くに見える。

このところ、雨もあったので、いつもより湖面は高い気がする。

北柏の先には、柏市街のビル群が見える。

歩道は、北柏の「ふるさと公園」あたりで、90度南東に方向を変える。

それほど気温が高いわけではないが、歩き続けていると汗ばんでくる。

湖面と並行していた道は、徐々に登り坂になり、柏の台地になる。

登り切ったあたりで、国道16号にぶつかり、横断歩道橋を渡る。

南東方向への道路はさらに続き、日立台の交差点である。

先日も通った柏レイソルサッカー場に出る。

試合がないので、サッカー場のホームゲートはしまっていた。

ゲートの向こうに、赤い鳥居が見える。

神社の建物は見えない。

地図を見ても、神社は載っていない。

でも、大きな池があるらしいので、見てみたいものだ。

サッカー場の真前に、柏のローカルのラーメン屋である「珍来」の店舗がある。

創業80年なのだそうで、柏レイソルのスポンサーでもある。

柏レイソル30周年」の横断幕が出ていた。

柏レイソルは、Jリーグのスタートした時は、JFLだった。

昇格したのは3年目だったが、当時の熱気はすごかった。

私も、小学生だった息子たちと応援に来たものだ。

ホームゲームだと、チケットがなかなか取れなかった。

サッカー場に近いローソンは、「レイソル・ローソン」いつもコラボしている。

ここまで来ると、私の散歩コースであるが、まだ40分くらいはある。

もうひと頑張りである。

 

午前10時出発、午後4時帰着だった。

一人で出かけるときには、出発前に食事するので、途中では食べない。

歩き4時間半、図書館1時間半といったところ。

万歩アプリによると、2万8千歩、22kmとなっていた。

ほんとかな。

我ながら、すごいかも。

 

 

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神様はどこにいるのだろう

墓参りに行ってきた。

お彼岸の時には行けなかったので、しばらくぶりだった。

孫娘を預かる日だったので、いっしょに行った。

いつものように、妻の父の墓と私の父母の墓の二箇所である。

墓石に水をかけてきれいにして、まわりの枯れ葉を拾って、雑草を抜く。

孫娘は、墓石に柄杓で水をかけていた。

ものごころがついてから、墓参りは初めてかもしれない。

花を生けて、お線香をあげて、お参りする。

みんな元気でいるよ。

見守っていてね。

そして、また来るね、といって帰る。

 

墓参りの時、亡くなった父母のことを考えるけれど、神様や仏様の存在を感じたり、考えたりはしていない気がする。

神社やお寺にお参りしているときも、神様や仏様のことを考えていないかもしれない。

私は、神話や仏教に関心のある方だと思う。

関係の本をいろいろ読んだりもしている。

経典や聖書などを少しは読んでいる。

それでもこんな感じなのだから、神様も仏様も信仰の対象ではないのだと思う。

生まれ育った村の周辺には、お寺はひとつしかなかった。

秋田を離れてからも、何年かに一度は葬式などで帰っていた。

その寺院は、道元のひらいた曹洞宗だったので、主たる経典は「般若心経」だった。

妻の実家は、日蓮宗だったので、親戚関係の法事があれば、「法華経」だった。

だから、そういうものになれてはいても、何かあっても仏様が身近にいるように感じてはいない。

 

神様はどこにいるんだろう。

いい歳をした人間が口にすることばではない。

あと一年とちょっとで七十歳になろうとしている。

神様ってなんだろう。

宗教ってなんだろう。

そんなことを、考えてしまう。

何がそうさせるかというと、今の世界の状況を考えるからだ。

 

ウェブサイトを眺めていると、外国人のこんな発言を見かける。

日本人は、無宗教だ。

日本人は、無神論者だ。

でも、そんなはずはない。

そんな国に、十万もの寺院や、十万もの神社があるはずがない。

そう考えるのは、無理もない気もするが、自分たちの考え方を基準に日本人についても考えるからだろう。

 

なぜ、日本にこんなに寺院と神社があるのか。

寺院と神社が、混在しているのか。

これについて考えていると、ヨーロッパはどうなのだろう。

ヨーロッパにとってのキリスト教と、日本にとっての仏教は似たような存在だと思う。

どちらも、後になってよそから入ってきたものである。

日本においては、仏教はすでに古事記日本書紀にあるような神話が成立してから、中国を経由して入ってきたものだ。

各地に国分寺国分尼寺が建設されたのだから、国教となったといえる。

ヨーロッパにおいても、ローマ帝国ユダヤ属州で生まれたキリスト教が帝国内に広まり、それを追認する形で、国教になった。

4世紀のコンスタンチヌウス帝が公認し、テオドシウス帝が国教に定め、それ以外は異教とし禁止した。

その頃のヨーロッパには、ギリシャ神話、ローマ神話ゲルマン神話北欧神話ケルト神話などがあったはずである。

世界史が苦手だった私には、その後このような神話がどんな運命をたどったかは、よくわからない。

パルテノン神殿のように遺跡としては残っていても、キリスト教が国教となってからは、そのような神殿は建設されなかったということなのかな。

日本には、仏教寺院と同じくらいの数の神社がある。

自宅の周辺を、ちょっと散歩するだけで、いくつもの神社とお寺がある。

ヨーロッパには、あの神話の流れを汲むものは遺跡以外にはどこにあるのだろうか。

キリスト教以外のものは異教とされたらしいので、消されてしまったのだろうか。

 

日本では、仏教は神道と一体化して受け入れられてきた。

さまざまな仏が、化身として日本に現れ権現となり、それが八百万の神である、ということにしてしまったらしい。

天照大御神は、大日如来の化身であり、八幡神阿弥陀如来の化身という具合である。

だから、明治維新までは、同じ境内にお寺と神社が同居していたし、「神宮寺」なんていうのもあった。

ヨーロッパの神話の世界も、日本のように八百万の神々の世界のようなものだっただろうから、残っていたらにぎやかなことだったことだろう。

どちらも、国教とされたことで、政治や権力に利用されてきたからこそ、こんなにたくさんの教会やら寺院やら神社が存在しているとは、言えるのだろうな。

 

 

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想像力が生み出した鳥瞰図というもの その2

「地表面を上空から斜めに見下ろしたようすを図に描いたもの。俯瞰図(ふかんず)ともいう。起伏のある土地に用いることが多い。立体感や遠近感がよく表され、土地の状況を把握しやすい。しかし、地図のように、距離、方向や面積を正しく読み取ることはむずかしい。また、遠方ほど省略されたり、山や丘の向こう側が表現されないという欠点もある。建物や樹木なども実物に近い形に絵画的に描かれることが多く、観光案内図などに用いられる[五條英司]」

                  (百科事典マイペディア)

人間は、鳥のように飛ぶことはできないので、自分の住む街を上空から見下ろすことはできない。

地上で描いたスケッチをもとに、上空から見た風景を想像して、再構築するのだろう。

人間の視点からは、絶対に見ることができない光景を人間は描いてきた。

 

「鳥瞰図」ということばから、私が思い出したのは、日本史の教科書に載っていた「洛中洛外屏風」というものである。

京都の街並みを、空から見下ろした光景が描かれていたような気がする。

それも鳥瞰図といえるだろう。

ja.wikipedia.org

屏風の全体に広がる金色のものは、雲でありその隙間から街並みが見える。

このような屏風は、戦国時代から江戸時代に多く作られたらしい。

内容的には、季節を表す風景や行事を描いたものが多いが、江戸時代に作られたものには「朝鮮通信使」を描いたものもあるらしい。

ja.m.wikipedia.org

ウキペディアには、現存する「洛中洛外屏風」の一覧があるが、それは168もの屏風のリストである。

他には、「大坂夏の陣図屏風」というものある。

これもやはり、雲の合間から戦場を見下ろして描いている。

ja.m.wikipedia.org

 

いろんな屏風を見ていて、もっと他にもあると気がついた。

源氏物語絵巻」のようなものである。

これも、教科書でみたことがある。

建物の中にいる人物が、斜め上から描かれている。

屏風よりももっと視点が近いので、人物の表情や服装が細やかに描かれている。

天井も壁も省略されているので、部屋の中にいるはずの人物を間近に感じられる。

ja.wikipedia.org

こういうものは、「絵巻物」というらしいが、屏風とは比べものにならないくらいに、多くのものが作られて、残っているだろう。

「絵巻物」には、物語絵、説話絵、戦記絵、社寺縁起絵、高僧伝絵、歌仙絵と、さまざまなものがあるらしい。

物語絵も、源氏物語の他に、枕草子伊勢物語宇治拾遺物語などがあるし、対象はさまざまである。

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

 

ja.wikipedia.org

 

これらの絵巻物も、斜め上からの視点で描かれていて、ふつうの人間には見ることができないはずである。

まあ、たしかに人間の視点から描いたら奥行きが出ないし、限られた紙面に多くのものを描こうとしたら、必然的にこうなってしまったのだろうか。

鳥瞰図というのは、英語では“bird's eye view"というらしく、上から下を見下ろす「俯瞰」というものである。

これに対して、下から上を仰ぎ見る「仰瞰」というものがあるらしく、鳥瞰にたいして虫瞰と言うのだそうだ。

海面から海底を見下ろした鯨瞰図や、海から陸を見た亀瞰図もあり、地面の中から上部を見た土竜図もあるというからおもしろい。

 

屏風と絵巻は、作られた時代や目的、大きさなどがまったく違っている。

ただ、人間が見ることのできない視点で描かれているというところが、共通している。

そして、壁や天井をないものとして省略してしまったところで、二重に想像力を働かせている。

 

今は、ドローンというものがある。

セスナやヘリコプターを飛ばさなくても、空から地上を見られる。

ハンググライダーというものもあるが、スピードが出過ぎる。

ドローンは、ホバリングというのかな、空中に停止するやつ、それだってできる。

人間がはるか昔から、想像力をはたらかしてやってきたことが、簡単にできる。

でも、写真では分からないことが、絵だからよくわかるってこともあるんだな。

 

 

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ロックの時代18 空飛ぶ円盤に弟が乗ったよ

ふとした拍子で、むかし聞いていた曲がよみがえったりする。

フォークやロックを聴き始めた中学や高校の頃の歌である。

フォークもロックも、同じ頃にやって来たような記憶がある。

フォークは、カレッジフォークとか言われて、フォークギターを持って学生風の人がやっていた。

ブラザース・フォーやジョーン・バエズの影響だろう、きれいな声とハーモニーだった。

ベンチャーズがやって来て、エレキブームというのがあった。

そのうちに、エレキギターを持った日本のバンドが現れて、グループサウンズと言われた。

カレッジフォークもグループサウンズも、歌謡曲の延長だったと言えるかもしれない。

高校生になった頃に、それまでとは毛色の違うフォークやロックが出てくる。

ボブ・ディランビートルズの影響だろうか、何でもやりたいことをやっていた。

それまでだったら、音楽にならないようなことが歌になっていた。

 

泉谷しげる 「黒いカバン」

何でもやりたいことをやって、何でも歌っていいんだという時代になっていった。

その頃に、聞いたのが泉谷しげるの「黒いカバン」だった。

黒いカバンをぶらさげて歩いていたら、警察官に呼び止められて職務質問された、そのやりとりが歌になってる。

トーキングブルースというのだろうか。

ひとり漫才のようなものだが、これを高校生の時ラジオで聞いて、これが歌になるのだ、とおどろいた。

当時の動画は見つからなかった。

泉谷しげる 「黒いカバン」 Izumiya Shigeru "Kuroi Kaban" - YouTube

 

四人囃子 「空飛ぶ円盤に弟が乗ったよ」

四人囃子は、1971年結成のロックバンドである。

この曲は、1974年に発売されたらしいので、私の学生時代である。

四人囃子というバンド名を知った時、なんてオシャレな名前なのだろうと思った。

ピンクフロイドやキングクリムゾンなんかの流れを汲むプログレッシブ・ロックということになるのだろうが、雅な名前の響きがなんとも言えないものだった。

空飛ぶ円盤に弟が乗ったよ - YouTube

 

遠藤賢司 「カレーライス」

遠藤賢司は、この曲の他にも「満足できるかな」とか「夜汽車のブルース」のような激しい曲もあった。

私は、「カレーライス」のほんわかした雰囲気が好きだった。

でも、歌詞の中に三島由紀夫の事件が出てくる。

高校の現代国語の教師が、授業に来るなり真剣な顔でこのことを話したことを思い出した。

テレビの速報で知って、私たち生徒に伝えたのだった。

1971年NHKドラマ「さすらい」での遠藤賢司「カレーライス」

https://www.youtube.com/watch?v=f79v7ghHgTc

 

友部正人 「一本道」

友部正人さんの曲をそれほど聞いてきたわけではないが、とても硬質なものを感じていた。

この曲のような歌詞には、後にも先にも出会ってないような気がする。

「何もなかった事にしましょうと

 今日も日が暮れました

 あヽ中央線よ空を飛んで

 あの娘の胸に突き刺され」

友部正人 一本道 - YouTube

 

私にとっては、10代後半から20代、時代は1960年代後半から1970年代に、こういう音楽に出会っていた。

他に類のないような個性の人たちの音楽だったと、私には思える。

今の若者たちも、そういうものに出会っているのだろうか。

 

 

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アマゾンのタブレットを使う

アマゾンのタブレットを使うことにした。

現在、タブレットiPadを使っている。

このブログも、iPadを使って書いている。

でも、iPadは妻のためのものである。

自分用のタブレットが欲しくなったのだ。

寝ころんで、タブレットを見ていることが多いが、長時間だとiPadは、かなり大きくて重い。

そこで、ここしばらくタブレットを探していた。

 

iPadは、金額的にかなり高価である。

そこで、AndroidOSのタブレットということになるが、できれば安いものがいい。

実は、5、6年前にAndroidタブレットを使っていたことがある。

すでに、使っているスマホAndroidだったので、使い方はすぐになれた。

中国製の、いわゆる「中華もの」の6インチのタブレットで、値段も手頃だったが、使いやすいものだった。

ところが、半年ほど経ったところで、突然起動しなくなってしまった。

電源を入れると、起動中のままで、固まってしまう。

何回もリセットしたり、バッテリーを完全にゼロにしてから、充電し直したりしたりしたが、どうにもならなかった。

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KindleFire HD8

いろいろ探していて、アマゾンのタブレットで良いかな、と思うようになった。

アマゾンのタブレットは、Kindle Fire というもので、アマゾンが提供する、音楽、ビデオ、電子書籍などのコンテンツを楽しむための専用のデバイスとして、かなり安価で販売している。

これは、AndroidOSをベースに開発したFireOSのタブレットであり、アマゾン専用に使えるように、グーグルのPlayストアは使えないようになっている。

その代わりに、アマゾンのストアのアプリが使えるようだが、ネットの書き込みだとストアのアプリは数も少なく使えない、ようである。

グーグルのストアが使えるようにする裏ワザはあるらしいので、いざとなれば使えるだろう。

Android OSをベースにしたのは、2011年のKindleFireからで、それ以前のKindleLinux OSベースのものだったらしい。

私の使い方としては、自分が用意した電子テキストの読書を中心に考えていたので、サイズは6インチでいいかなと思っていた。

今なら、6インチは大きめのスマホ程度の大きさだ。

アマゾンのサイトで見ると、これだと6000円くらいのものである。

予算に余裕のない身としては、助かる。

ところが、8インチのものが、何とか割引セールで、7000円になっている。

たった1000円しか違わないのだったら、8インチのほうがいいし、しかも5回分割もできて、送料手数料なしである。

さっそく申し込んだ。

 

届いたアマゾン・タブレットを使ってみて、いかに自分がiPadに馴染んでしまったことだろう、と実感した。

Windowsを長年使ってきて、アップルはなんかブラックボックスでわからないと言いながら、しっかりと慣れてしまっている。

タブレットとして、よくできている製品だということだ。

いつ頃に買ったか覚えてなかったので、機種番号から調べてみた。

我が家のiPadは、現在2台目である。

最初に買ったのは、2011年のiPad第2世代であるが、もしかすると翌年2012年の第3世代が出る前に買ったのかもしれない。

我が家で一人だけパソコンを使わない妻が、インターネットの調べものなどができるように、誕生日にプレゼントした。

パソコン知らなくても、使えたからこれは家電と言えるかもしれない。

2台目は、2018年のiPad第6世代である。

バッテリーも持ちが悪くなって、買い替え時だった。

ということで、なんと10年も使っている。

どちらも、9.7インチであるが、重さは600gから469gと軽くなっている。

ディスプレイは、同じ9.7インチながら、1024×768px 132ppiから、1536×2048px 264ppiとなっていて、アスペクト比は4:3である。

金額的には、どちらも4万円前後だったと思う。

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iPadとkindleFire

これに対して、kindle Fire HD8は、重さ355gで、ディスプレイは8インチ 1280×800px 189piiであり、アスペクト比は3.1:2ということになるのだろう。

iPadに比べて、ひとまわり小さいのでかなり軽く感じる。

縦横のアスペクト比はそれほど違わないと思うが、実際に画面を見ると、iPadよりも細長い感じで、ウェブページを見ると、とても狭い。

テキストを読むために、アマゾンストアからテキストビュアーのアプリをダウンロードしてみたが、やはり使い勝手がよくない。

動作もiPadほどスムーズではなく、カクカクする感じだ。

フォントもあまりきれいではないのは、アプリのせいだろうか。

フォントを変える必要があるかもしれない。

今回、iPadのことを調べていて、知らないうちにどうも「iクラウド」というクラウドストレージを使っていたらしいことがわかった。

iPadで扱った写真は、そこに保存してあったようだ。

だから、Windowsからそこにアクセスすれば、PCとiPadで写真のやりとりができたらしい。

それを知らないので、DropBoxというクラウドストレージに移すという、二重の手間をかけていた。

クラウドストレージというのは、他に「アマゾン・ドライブ」もあるし、Microsoftの「OneDrive」もある。

でも、無料でもっと大容量が使えるのは「グーグル・ドライブ」のようで、15GBまで使える。

これをうまく使えば、マイクロSDカードなどを使う必要はないかも知れない。

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クラウドに置いた自作PDFファイルを読む

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図書館で借りた高価な書籍をスキャンしてPDFファイルにしたもの

ウエブページを見るためのブラウザは、iPadは「サファリ」で、KindleFireは「Silk」というアプリである。

そのブラウザのデザインのせいか、頭でっかちで画面が狭い気がする。

とりあえずは、今のままでいろいろ試してみようと思う。

どうしてもダメなら、裏ワザを使ってみよう。

 

 

 

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柏ウォーキング①

柏駅の近くに用事があったので、出かけた。

鉄道で一駅分あるので、ふつうは歩く距離ではない。

天気もいいことだし、運動のために歩いて行った。

この数日陽気がよかったので、桜はだいぶ散っていた。

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柏レイソルサッカー場前を過ぎて、交差点にある日立台公園は、ハナミズキが満開だった。

公園の入り口には、柏レイソルの「スタジアムマップ」と試合スケジュールの大きな看板がある。

先日、アウェイのサポーターの集団が歩くのを見かけた。

水色だったので、「川崎フロンターレ」と思っていたが、どうも「ジュビロ磐田」だったようだ。

最近、Jリーグを見る機会もあまりないので、鈍っているかも知れない。

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交差点を渡ると、交番があってその前に、柏レイソルのマスコット「レイくん」の銅像があって、黄色いユニフォームをはおっている。

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ここから、柏駅前に向かって、斜めのショートカットの道である。

通称「レイソル通り」で、商店街にはレイソルの黄色い小旗がたなびいている。

歩いたのは久しぶりだったが、商店街はとても元気そうだった。

さびれた感じはしなかった。

コロナ禍で、大変だったと思うが、安心した。

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保育園のフェンスにレイソル応援フラッグ

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目的の柏駅の周辺に着いたのは、出てから1時間15分くらい経っていた。

自宅近くの銀行の支店が、3月で閉鎖してしまったので、柏駅前の支店まで来たのだ。

支店は閉鎖したが、ATMは今までどおり使える。

キャッシュカードが破損して、使えなくなってしまった。

カードの再発行の手続きは店舗でないと出来ないので、わざわざやって来た。

手続き自体はすぐ終わったが、カードは後日1週間後くらいに、自宅に送られる。

自宅に近いところで、これで銀行の支店が3つくらい閉鎖している。

2つは、10年以上前に金融機関の合併が多かった頃に閉鎖された。

各所にあるATMの機械も、最近台数が減らされている。

2台あったところが、1台だけになっている。

1台だけだと、すぐに行列になってしまう。

ATMだけではなく、これからは支店も減らされていくのだろうな。

今までのやり方では、商売ができない時代になっているのだと思う。

ほんとにそれが必要なのか、ということである。

そう言えば、数日前に新聞販売店から勧誘の電話があった。

もう購読するつもりはありませんと、断った。

私の3人の息子は、誰も新聞を購読していない。

日本の新聞社は、いつまで持ちこたえることができるのだろうか。

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裏道に「桜株稲荷神社」があった 「桜株」ってなに ?

裏道から旧水戸街道に出て、駅方面に向かうと柏神社がある。

神社には、「水戸街道の木戸」という大きな看板が建っている。

江戸時代には、関所の役割を果たす木戸があって、周囲には野馬土手があったようだ。

小金牧の馬が、街道に出てくるのを防ぐためのものだったのだろう。

「水戸土浦道中絵図」の絵で、それがよくわかる。

柏神社は、昭和初期にはただの「稲荷神社」だったらしいが、いつ頃に名称が変わったのだろう。

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柏神社


銀行の用事がすんで、柏市役所の隣にある市立図書館に向かう。

その途中に、かつて「柏そごう」の立体駐車場があったのだが、その跡地に高層マンションができていた。

そのマンションに付属で、オシャレな保育園が完成していた。

マンションの建物とつながっているよう思える。

マンション付属の保育園というのは、今まで聞いたことがない。

これからは、こういうものもありなのかも知れない。

駅まで徒歩で2、3分である。

居住者以外の需要もあるだろうな。

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図書館で、1時間ほど「鳥瞰図」を見ていた。

館内には、「長時間の利用はお控えください。」との貼り紙が掲示してある。

図書館が、単に図書を借りるだけではなく、読書の場所であった人にとっては、生活のルーティンを変えざるを得ない事態である。

帰りは、電車で帰ろうと、駅まで歩いた。

ついでに、キネマ旬報シアターがどんな作品を上映しているか気になるので、のぞくことにする。

線路の向こう側なので、歩道橋を渡る。

歩道橋の階段を降りると、正面に日本語学校がある。

柏市内には、他にも日本語学校がある。

どんな人が通うのだろうか。留学生だろうか。

たしかに、市内には大学が5校あるらしいし、隣の流山市我孫子市にもある。

自宅近くの麗澤大学では、それらしい学生を見かける。

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映画館の入り口に、チラシ用のラックがある。

その中で、ひときわ目を引いたのが、「ひまわり」である。

ひまわり畑をバックに、ソフィア・ローレンとマストロヤンニがいる。

「1970年の初公開から50周年」とある。

1970年は、私は高校生だったが、この映画は観ていない。

ひまわり畑は、当時ソ連で撮影したが、現在のウクライナだということは最近知った。

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ロックフィールド伝説の音楽スタジオ」というのにも惹かれたが、上映リストに見当たらない。
スクリーンが三つで、それぞれ1日5作品を上映している。

合計15作品から、選ぶことができる。

パラパラ見ていて、「SAYONARA  AMERICA」というのを見つけた。

「はっぴぃえんど」「YMO」の細野晴臣さんのライブドキュメンタリーとなっている。

細野さんも、デビュー50周年だという。

ベーシストであるが、YMOではキーボードも演奏していたし、ボーカリストでもある。

作曲家であり、プロデューサーと何でもできるミュージシャンなのだろう。

ニューヨークとロサンゼルスでのライブの記録らしい。

はっぴぃえんどの後期、「SAYONARA AMERICA SAYONARA NIPPON」というフレーズが繰り返される曲があったのを、思い出した。

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今週限りで、上映が終わるらしいので、きっと観に行くことになるだろう。

最終20:05からスタートで、上映時間83分となっている。

シニア割引で、1100円で見ることができる。

 

 

 

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あきたのかりね⑤ 菅江真澄テキスト

廿四日 雨ふればあるじの上人、けふはなにくれかたらん、とゞまりてと、せちに聞え給へば出たゝず。

ー湯あみの日なれば、大鼓、なる神の頻がごとくにうちならして、開山禅師の御杖をまつさきによこたえ、手ぬぐひ、香炉など、あまたのすけとり/\゛にもちて、「おんすり/\」といふことを、こゑどよむまでとなへて、ゆあみどのにいりて御杖のもとをそゝぎて、待たる手ぬぐひして、おしぬぐひてかへりぬ。

玄翁ぜじのみかたち、いけるがごとに、とばりあけて人々をがみたり。

あるじの上人すみてける、眠蔵といひてける埋火のもとに、夜ひとよかたりて明たり。

甘五日 靱竜山をくだりて、しばしのほどに吹浦といふ磯やかたにつきて、人のゆきかひしげかりけるを見やりて、

 

   あさまだき汐風さむく吹浦に波かけ衣きぬ人ぞなき

 

こゝの関屋に入て、さか田よりもていたりしせき手あらためて旅人を通しぬ。

鳥崎のはま、滝の浦をあゆみて女鹿の関になりて、せきての札わたしぬ。

椿のみ生ひしげりたる岩つらのみちにあしさし入て、やをらくだりて三碕阪に至る。

慈覚大師の御堂は、もがさ、はしか、かろらかにまもらせ給ふとて、子のため、むまごのためとて人まうでたりけるが、此みまへにうづくまりぬ。

この御堂のしたには、手ながにとられたる人のかばね、あまたありしかど、いまは岩落かさなりて見えざりけりといふ。

手ながは水のじち(術)もありけるにや、海に入ては行かふ舟とゞめてける。

世におそろしのものなりけりと、かたり伝へ侍る。

坂の半をくだれば慈覚大士(大師)の御足の跡とて、石のおもてに蓮のひらけるかたにひとしと、行人ゆびさしで通りぬ。

柴人二人山より出来て、是たがへて(何にてもあれ手にとることを、たがくとはいへり)とて、あらこに入たるを見れば、やま葡?(葡萄)の実に似たるもの也。

こは、よき歯の薬なりとて市路にうるめる。

味は葡?(葡萄)にひとし。

人のふみあつらへたるまゝ小佐川(秋田県由利郡象潟町小砂川)といふ磯家に至りて、其ふみの名たづねて入れば、しら豆、おしきに盛てさし出しぬ。

これや手かけとて、誰にても入くなる人に、かたはらの煙管、たばこ入、なにゝても手にさはるものをさしいだせば、来けるもの、そが手をいたゞきておきぬ。

いざ立出んといへば、われも汐越にいかんととどめければ、やがてくれたり。

あるじの云、あが生れたる里は、過来給ひつる庄内なる、おこしやすめといふところなりしが、こゝに養れ来しといふ。

つな舟くるところの河あるさとか。

しかり。

いかなるみこしをか、やすめ奉りしところならんかといへば、さならじ、往来のへたにて、いねたるやの扉を叩て、ふねやれ、さしかへれば又ふねよばふこゑの頻りけるまま、人ごとに、おこしやすめずといふつるに、やがて村の名となりけるとかたるに、何ならんうちならしありくは小走といひて、そがくびに、ちいさき板をかけて此村をめぐる。

夜まはりといふものなり。はや亥の時(十時)ちかしといへば枕とる。

廿六日 波風はげしく雨ふれば、おなじ家にくれたり。

あるじの翁、見たまひし沖の飛嶋の尾がみがしま(御積島)には、こがねの竜、巌のつらにわだかまれるは、まさしく其鱗まで作りたらんがごとし。

夏の海ならばいざなひてんに、をりあしく侍る。船みち(九里あまり)いとちかし。

此春行たりしかば大なる鯨八ツ、せをならべてうかび出たるに、こは、ふねかへさんとかぢとゞめて、おほんゑびす、さまたげなせそとたのみしかば、海そこにかくろひたり。

又とど、あざらしなどいふ、うなのけものもとびあがり/\て、あまた比なみぢにすみけるといふに、風ふきおこりたり。

こや、だし〔東風をいふなり〕なり、ひよりよからじ。

だし、山ぢ〔北風なり〕ぢみなみ〔南風なり〕かかる風をなべて浦西とて、四方の空に雲集りてあれ(荒)となりて、舟をあやまつことなり。

かくありては二日二日もよき日あらじ。

しかはあれど空なをりたらば、あすはあゆの風ふかん、いで行給ひてといへり。

夜更て、こは、なる神すといへば、あるじの翁枕がみにふして、くだり穴とて岩にうつぼのありけるに、あら波のうちいるゝ其音にてこそ侍らめと、はなうちならしてけり。

廿七日 風西より吹ば、空よからんとてたつ。

坂ひとつ越てくれば、川袋(象潟町)といふはまをへて関村(象潟町)に至りぬ。

此関むらこそ、いにしへの、うやむやのせき(有耶無耶関)のあとならめ。

三崎山の地獄谷の辺とは、人のいひあやまちたらんか。

小河ふたつ渡りて右の方に岡あり。

小松むらだてる、しらすなごのこだかきところを鳥耶杜といふは、まことに、とや/\鳥のうやむやの関のむかしならんか。

頓面(やがて)、しほこしの浦につく。

まづ蚶潟のはしかばかり見えたるに、

「世中はかくてもへにけり象がたの海士のとまやをわが宿にして」

とずして、やのあはひ、橋のうへなどより、嶋いくつも見えたるはおかしとおもふに、行人、「八十八潟十九社」とうつふ。

由利郡干満珠寺の西なる袖かけ松の辺にゆけば、風の音さはがしく、あられふりて、又時雨で来り、めにあたる島/\みな曇リて、?の色のみうすくてれり。

たゞ風のをやみなくふきて、ここらのしまの梢の紅葉雨よりもふり増り、つりする海士は棹よこたへて、舟とくさしてにげ行など、め(目)しばしもはなたれず。

 

   あま衣にしきにかへて蚶潟の嶋山あらし誘ふもみち葉

 

又雨しきりてければ、ある磯やかたの軒によるとて、

 

   たび衣ぬれてやこゝに象潟のあまの苫やに笠宿りせん

 

たゞきさがたの歌の夕ぐれと空うちながめて、比さとにやどりたり。

 

 

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想像力が生み出した鳥瞰図というもの その1

「鳥瞰図」を見に柏市立図書館の本館に行ってきた。

「千葉県市街鳥瞰図」というものが、蔵書としてあることがわかったからだ。

この鳥瞰図は、松井天山という方が、昭和2年(1927)から昭和13年にかけて作成したものである。

保存されていた1市25町26枚の鳥瞰図が、平成元年(1988年)に復刻されたものだ。

私はこのうちの、「柏町鳥瞰図」を見たことがあった。

これは、山本鉱太郎氏の「新利根川図志」という書籍のなかに、資料としてとじ込まれていた。

ネットを検索すると、この鳥瞰図を掲載しているサイトが、いくつかあった。

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柏町中心部

自分が知ってる街である柏の昭和4年の姿に、感激した。

昭和4年は、1929年であり、あと数年で1世紀前になってしまう。

描かれている街並みを見ていると、ほとんど覚えのあるお店や会社の名前はない。

かろうじて道路が、現在の道路とくらべて、あのあたりだろうとわかるだけである。

 

図書館の禁帯出という貸出の不可の図書だけがある「参考室」に行った。

目的の「鳥瞰図」は、一般書架にはなく、窓口担当者に声をかけて出してもらうようになっていた。

図書館のウェブサイトで検索したところでは、この鳥瞰図は購入価格が、4万5000円となっているものや、3万6000円となっているところもあり、よくわからない。

紙箱入りの鳥瞰図を受け取って、閲覧机の上で広げて見た。

折り畳まれた26枚の鳥瞰図と解説書が入っていた。

解説書には、各市町の歴史に詳しい研究者の解説文が収められていた。

収録されているのは、次の各市町だった。

千葉市街 船橋町 東金町 四街道 市川町 本納町 勝浦町 佐倉町 津田沼

中山町・葛飾村 八街町 柏町 木更津町 幕張町 茂原町 検見川町 佐原町 

大多喜町 松戸町・明村 一宮町 大原町 八日市場 多古町 八幡町 笹川町 成田山

市町村合併によって、無くなってしまった町もあるが、県内の主な市町はあるような気もするが、ムラもあるような気もする。

私の住む東葛飾の地区でいえば、収録されているのは、「松戸」と「柏」だけである。

野田、流山、我孫子鎌ヶ谷は、入っていない。

千葉県は、安房国上総国下総国からなるが、江戸幕府のお膝元であり幕臣が配置された。

大多喜、佐倉、関宿などには、重臣が置かれた。

小藩の多かったこの地域では、3万石以下の大名は、城を築かず城門のある陣屋を築いたようである。

そのような町の成り立ちの事情も、これらの市町のリストににつながっているかもしれない。

 

鳥瞰図は、きれいに折りたたまれていた。

開いてみると、鳥瞰図はそれぞれに大きさが違っていた。

柏市立図書館のウェブサイトの検索では、詳細な内容は掲載されていなかったが、松戸市立図書館の方には各市町の鳥瞰図ごとのサイズが載っていた。

たとえば、柏町の鳥瞰図は、縦横が47×61cmであり、A2サイズの42.0×59.4cmよりも大きい。

このサイズが最も多く、14の図がこれに近いものだった。

さらに大きなサイズもあって、千葉市のものは56×81cmもあって、A1の59.4×84.1cmよりも小さく、8市町であった。

このサイズを、細長くしたものあって、39cm×81cmという特殊なものであり、東金町、佐倉町、中山町・葛飾村、八日市場である。

このうち中山町は市川市と、葛飾村は船橋市と合併し消滅している。

また、成田山のものは、成田市ではなく「成田山新勝寺鳥瞰図」となっており、当時の代表者であった大僧正の方の肖像が図の中に載っていて、しかも唯一色刷りである。

 

小さめのサイズでも、A3サイズで2枚分近くの大きさだ。

図書館にあるコピー機はA3対応なので、コピーはできない。

そこで、山本鉱太郎さんの他の著書に鳥瞰図が掲載されているかもしれないと、思いつく。

「新利根川図志」の他に、「江戸川図志」、「房総の街道繁盛記」、「旧水戸街道繁盛記」が、山本さんの地元流山の崙書房から発行されていた。

特に、「房総の街道繁盛記」には、10枚以上の鳥瞰図が掲載されていた。

見開き2ページで、一枚の鳥瞰図であり、それでちょうどA4の大きさになる。

4分の1から8分の1に縮小されているので、詳細は判読するのがむずかしい。

しかも、製本の都合上、見開き部分が接着してしまって、つぶれている。

とりあえず、10枚ほどコピーした。

A4で等倍コピーしたのだが、帰ってから気がついた。

A3に拡大コピーすることは、可能だったじゃないか。

その方が絶対に見やすい。

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今日の成果 鳥瞰図コピー

鳥瞰図というのは、私のような地図好きには魅力的なものである。

限られた長方形の中に情報を収めるので、犠牲になるものがあるのは確かである。

ネットに鳥瞰図の詳細なデータがないか、探してみた。

拡大すると、細かい部分の文字が読めないものが多い。

その中で、素晴らしいサイトを見つけた。

多古町の鳥瞰図である。

多古町といえば、現在は「多古米」で知られていて、我が家は「道の駅」やアジサイを見に行くことがある。

戦国時代には、多古城があったらしいが、江戸時代は城ではなく、陣屋があった。

多古町デジタルアーカイブ」にある「鳥瞰図」は実物を手にして見るように楽しめる。

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多古町全体図

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陣屋跡の中心部

trc-adeac.trc.co.jp

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今のところ、千葉県内で鳥瞰図を掲載している市町村のサイトは、「多古町」しか見つからない。

鳥瞰図は、奥が深そうなので、続編を書きます。

 

 

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桜も咲いたので江戸川にいく

今年はなかなか桜が咲かないな、と思っていたらいっきに咲いた。

あっという間に、満開だ。

サイクリングで、江戸川を走って柴又まで行くことにした。

この2年ほど、柴又の桜を見ている。

昨年は、帝釈天にお参りして、京成金町駅前の寅さんにもあいさつした。

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いつものように、麗澤大学の通りを旧水戸街道に向かって走り出す。

至るところ、桜が満開である。

地面には、まだほとんど花びらが落ちていない。

水戸街道に合流する中新宿は台地上になるので、登り坂を登る必要がある。

それを避けるために、上富士川の支流である小さな流れ沿いに方向を変えて、まわり路する。

根木内城址公園の手前あたりで、旧水戸街道街道に合流する。

さらに進むと、新水戸街道である国道6号を横断して、旧小金宿に向かう。

この道は、かなりの登り坂が続く。

小金宿の手前の交差点で街道をはずれて右折して、しばらく行くとJR常磐線を越える跨線橋である。

次に本土寺参道を横切ると、傾斜の大きい長い下り坂がある。

考えてみると、小金宿や本土寺あたりのある一帯は、とても大きな台地上にある。

坂を下ると、右手には小金城址の歴史公園があり、流鉄流山線の小金城址駅がある。

 

低地を進んでいくと、右手に大学のキャンパスがあり、桜満開である。

母親が元気な頃に、ここでお掃除の仕事をしていた。

その頃は女子大だったけれど、現在は男女共学らしい。

流山市街に入る手前に、ちょっとした山越えである。

自転車を降りて、歩いて進む。

このコースは、けっこうアップダウンが多く、サイクリングとしてはきついのだ。

この山の下を、つくばエクスプレスの線路のトンネルが通っている。

流山市街を抜けて、江戸川土手に出ると、流山橋は渋滞中だった。

ここは、渋滞の常習箇所である。

他にも、千葉県と埼玉県に架かる橋はあるのだが、ここに集中してしまうらしい。

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流山橋から桜並木を振り返る

流山橋から筑波山の方向を見るが、霞んでいてなにも見えない。

かわりに、江戸川河川敷の斜面に菜の花が咲いていて、一面黄色である。

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橋を渡って、三郷側のサイクリングコースに入ると、すぐに休憩所がある。

自宅を出発したのが9時頃で、到着が10時過ぎというところなので、1時間くらいだがアップダウンが多い。

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休憩所には、サイクリングコースの大きな案内板がある。

「川沿いを走る日本一長いサイクリングロード」とある。

江戸川をさかのぼると、関宿で利根川に合流し、さらにさかのぼると、なんと170キロメートルあるのだそうだ。

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円筒の建物はトイレである

ここは三郷市であるが、江戸川の川沿いには各市各区に災害時用の緊急船着場が作られている。

この辺りにも、河川敷の船着場と広場が作られている。

今日は、天気も良く花も咲いているので、幼稚園の子どもたちが外遊びに来ていた。

桜も満開だけれども、菜の花も満開である。

菜の花は、本来はもっと早い時期に咲くのだろうが、今年は桜と一緒に咲いている。

菜の花の華やかな色に比べると、桜はおとなしく感じる。

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船着場と保育園児

ひと休みしたところで、自転車で走り始める。

両側を菜の花に囲まれたサイクリングコースを走るのは、気持ちの良いものだ。

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江戸川土手のサイクリングコースを、水元公園に向かって行く。

河川敷には、数え切れないくらいの野球グランドがある運動公園になっている。

水元公園に近づいたあたりで、河川敷の道路に降りて走ることにする。

土手のサイクリングコースは、歩行者や自転車も多いが、河川敷の道路は広くてほとんど人影もなく、のんびり走れる。

1時間ほど走って、柴又公園に着いた。

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柴又帝釈天の裏にあるこの公園は、いつもに比べて人出が多かった。

やはり、桜満開で天気も良かったからだろう。

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昨年まではなかった「寅さんミュージアム」の看板が新しく作られていた。

河川敷には、矢切の渡しの船着場もあるが、災害時用の緊急船着場も設置されている。

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旧江戸川の分岐まで、足を延ばしたいので、帝釈天には寄らずに出発した。

30分ほど南下すると、江戸川区に入り小岩菖蒲園の前を通るが、今はなにも咲いてはいない。

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この先に、京成本線千葉街道の鉄橋がある。

いつもは、国道14号千葉街道の橋を渡って、市川に入りサイクリングコースを北上して帰る。

今日は足を延ばして、旧江戸川と新江戸川の分岐である江戸川水門まで行くことにする。

数年前に、一度サイクリングで来たことがある。

30分ほど走ってると、京葉道路の鉄橋をくぐると、篠崎というところに「ポニーランド」という子どもをポニーに乗せてくれる施設があった。

ちょうどお昼時だったので、ポニーは厩舎に戻っているらしく姿は見えなかった。

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ポニーランド

江戸川水門が、見えてきた。

旧江戸川を堰き止めるように水門が作られ、流水量を調整しているようである。

旧江戸川は河川敷といえるようなものも無さそうなので、そうでもしないとすぐにあふれてしまうのだろう。

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江戸川水門

旧江戸川は、水門から南西に向きを変えて流れる。

そして、新中川と合流して、南下し東京ディズニーランドの西を通って、東京湾に流れ込むのである。

ほんとは、新中川との合流点あたりまで行ってみたかったが、とてもそんな元気はなかった。

出発から3時間、もう12時を過ぎていた。

帰りの体力と時間を考えなくては、ならない。

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水門の管理をする河川事務所出張所

旧江戸川もかなりの河幅があるが、新江戸川はその3、4倍の河幅があり、しかも河川敷がある。

新江戸川に架かる行徳橋を渡り、市川市に渡り帰路につく。

あとはひたすら、北上するだけだ。

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千葉街道に近づいて行くと、土手の堤防の幅がとても広くなっている。

スーパー堤防というものらしい。

通常の堤防はせいぜい広くても10メートルはないだろうが、ここは何十メートルもある。

これで、増水しても堤防の決壊を防ごうとするのだろう。

桜の木の記念植樹がしてあって、植樹者の札が建っている。

結婚記念だったり、居住50年記念とか、様々である。

桜が満開の木の下では、シートを広げてお花見をしていた。

堤防の上なので、風通しもよく、広くてそれぞれかなり離れているので、気持ちよさそうである。

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走っているうちに、空模様があやしくなって来た。

陽が翳って、風も出てきた。

なだらかではあるけれど、帰りは上流に向かうことになる。

体力的には大丈夫だが、お尻が痛くてしょうがない。

さいわいに、松戸市に入ると、休憩ポイントがいっぱいある。

スーパー堤防を公園として整備しているようだ。

ベンチやトイレが整備されていて、サイクリングだけでなく、近所の人がお散歩に来れるようにしているのだろう。

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サドルから降りて歩いたり、ベンチがあるたびにひとやすみ。

平坦なサイクリングコースはなんとかなるが、そこまでのアップダウンの多いアプローチがきびしい。

なんとか、帰宅したのが4時だった。

7時間のいい運動だった。

 

 

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日本旅行記、訪問記、滞在記の類いについて④

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一年前に、このタイトルで、 ハーバート・G・ポンティングの「英国写真家の見た明治日本」について、取り上げた。

ポンティングは、南極体験隊にも同行した職業写真家であり、日露戦争に従軍したことが縁で来日して、その後3年間日本に住んでいた。

原著は、全20章からなる大部であるが、訳本は半分の10章に削られていた。

私は、削られた章の中に、「日本の家と子ども」というのがあったことを知って、それが読みたくてしょうがなかった。

それで、ネットで原著を探して、archive.orgというサイトで見つけた。

とりあえず、必要な章をデスプレィに表示して、スマホで撮影した。

16ページほどだったので、あとで読もうと思って、そのままにしていた。

テキストファイルだったら、翻訳アプリでも使えるだろうが、それもできない。

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最近になって、それを思い出して、また図書館サイトを見ていた。

そうしていて、ファイルをダウンロードできることがわかった。

PDFファイルとEPUBファイルがあるので、さっそくダウンロードしてみた。

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この種類のファイルは、画像だけのものと、画像にテキストを埋め込んだものだあるが、これはテキスト入りのものだった。

テキストをコピーして、テキストファイルにすることができた。

訳本にのっているのは、次の章である。

第1章 東京湾 第2章 京都の寺 第3章 京都の名工 第4章 保津川の急流 

第5章 阿蘇山浅間山 第6章 精進湖と富士山麓 第7章 富士登山 

第8章 日本の婦人について 第9章 鎌倉と江ノ島 第10章 江浦湾と宮島

英語の原文と比べてみると、次の各章が削除されているように思える。

写真家の著書だけに、写真が100枚も収録されていて、500ページ近いボリュームである。

講談社学術文庫なので、ページを調整せざるを得なかったのだろう。

どのような基準で、それを行なったかはわからない。

1 The Last Days of Feudalism             3 The Flower Festivals of Tokyo

5 The House and the Children            7 MiYANOSHITA AND LaKE HaKONE

10 Nikko and Chuzenji                          11 Matsushima and Yezo                    

15 Uji AND THE Fireflies                       16 Nara—THE Heart of Old Japan     

17 The Rapids of the Katsura-Gawa  18 Hikone and its Castle

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“5 The House and the Children”が、私が読みたかった「日本の家と子ども」であるようだ。

今まで、いろんな人の日本訪問記や滞在記を読んでみたが、面白いなあと思うのは、日本の子どもについての記述である。

どうも、日本における子どもと大人の関係は、他の国々とは違ったものがあるらしい。

子どもに対する、教育やしつけ方が日本独自であるらしく、だいたい誰でもそのことを書いている。

日本人である私にとっては、何がどうして、という感じで不思議である。

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翻訳アプリを探してみた。

Yahoo!翻訳というのもあったと思うが、いつの間にか無くなっていた。

とりあえず、「グーグル翻訳」でやってみた。

ところどころに、理解不能な部分もあるが、なんとか意味はわかる。

しかしながら、文章としては微妙である。

なぜか、家と子どもについて、同じ章で述べられている。

 

日本の家については、畳、火鉢、障子、布団などについて説明している。

畳については、こんな感じである。

日本人は人生の大部分を畳に費やしています。彼は彼らの上に生まれます。彼らの上を歩きます。彼らの上に座ります。彼らの上で食べます。彼らの上で眠ります。そして彼らの上で死にます。彼らはすぐに床になります。テーブル、椅子、そして日本の寝台、そしてそれ自体は、彼らが日常的に密接に接触する人々の性格の多くを反映しているので、通知を通過する以上の価値があります。

原文は、次のとおり。

The Japanese spends the greater part of his life on tatami .He is born on them walks on them sits on them eats on them sleeps on them and dies on them .They are at once the floor the table, the chairs, and the bedstead of Japan, and as such are deserving of more than passing notice, for they reflect much of the character of the people with whose life they come into such close daily contact.

 

来日した方々の文章を読んでいると、日本の子どもについて書いてあることに共通していることがある。

日本の子どもの方が、(私たちの)の子どもよりも、堂々としていて、しぐさが優雅であり、大人のようである、というようなことを言っている。

初めてそれを読んだときに、少し驚いた。

ヨーロッパの方が、一人の人として自立するのが早いのでではないかと思っていたからだ。

どうも、ヨーロッパでは、子どもは子どもあつかいして育てるので、大人になるのが遅いということらしい。

日本では、小さいころからひとり前扱いして育てていることに感心している。

ポンティングは、明治時代に来日した人であるけれど、戦国時代に来日した宣教師などの記録でも、同じようなことを述べている。

考えてみると、日本では元服などのように、10代半ばくらいで大人になり、結婚も早かったので、早く一人前になるように育てていたのだろうか。

それが、もしかすると、最近外国人が驚く、子どもが一人で買い物したり、電車に乗るのは当たり前ということにつながってるのかな。

これは、治安がどうとかではなくて、そういうふうに育てていて、まわりもその目で見ていて、見守っているということかもしれない。

それでいて、大人がいつも子どもといっしょに、同じ目線で遊んでいると言っている。

 

老人は彼ら自身がかつて若かったことを決して忘れません。そして若者は年齢のために本能的に神聖に見えます。相互の配慮と礼儀があります。幼児期から日本の子供たちは自己抑制が最大の美徳の1つであると教えられています。そしてこの教えは多くのヨーロッパ人の苛立ちのすべてのクラスの中で完全に欠如していることを示しています。

すべての街路はゲームをしている若者でいっぱいです。子供たちがそれをしているだけでなく年長者も参加しています。父と母は若い人たちと同じように陽気に遊びに来ます。

日本が子供の楽園であることは、陸地に到着した時間から明らかです。通りすがりの交通量に関係なく、コミカルな小さな人々が通りを歩き回っています。

 

そして、おもしろい観察と感想を残しています。

小さい子が、赤ちゃんをおんぶしている姿です。

うんと小さい子は、人形をおんぶしてたな。

もうそんな光景も見ることがないけれど、私の姉も小学生の頃に近所の赤ちゃんをおんぶしていたのを、思い出した。

 

やわらかい年の日本人の子供たちが赤ちゃんを背負って走り回る様子は、外国人が最初に気づいたことのひとつです。数ヶ月の赤ちゃんを、公道で4歳の子供に信頼するのは無謀なことのようです。 それでもこれはどこでも見られるかもしれません。すべての子供は歩き始めた時から別の子供を運ぶように訓練されています。 2歳で背中に大きな人形が結ばれ、人形は大きな人形に置き換えられます。

幼い頃から、日本の赤ちゃんはすべてのゲームで兄妹と付き合っています。したがって、他の土地の赤ちゃんがまだ揺りかごで遊んでいるときに、彼らは彼らの周りのすべてに知的な関心を育んでいます。

 

おんぶしている子どもだけではなく、おんぶされている子にとっても、社会勉強だというのは考えたことがない視点だった。

外からの視点で見ないと、気がつかないことがある。

変わってしまったこともあるだろうし、変わらずにそのままなこともあります。

どんなところが、どうして変わったのか、変わるにはそれなりの理由があるだろう。

それをしっかり考えて、自覚することは大事だと思う。

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読んでみたかった「家と子ども」の章は、読んでみた。

残りの章は、ゆっくり読んでいこうと思う。

今回思ったことは、日本でも著作権保護期間の過ぎた古い著作について、公的な図書館がライブラリとして公開し始めている。

しかし、ほとんどは、たんに画像をデスプレィで閲覧できるに過ぎない。

PDFやEPUBなどのファイルで、ダウンロードできる図書館はほとんどない。

しかも、テキストを埋め込んであるのは、すばらしいことである。

テキストが埋め込んであれば、古い書籍を読みながら、文字検索もできるのである。

利用する可能性が、とても広がることになる。

日本にも、こういうサービスがあって欲しいものである。

私の知る範囲では、まだ存在していない。

 

 

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