晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

けふのせはのゝ③ 菅江真澄テキスト

二日 朝たつ。

をりしも恵音ほつし(法師)、とよりさしのぞき、又いつかなどいへるに、

昨日来てけふの細布たちさらばむねのひがたき別ならまし

とて、やを出て、小豆沢村(鹿角郡八幡平村)になれば、いかめしき大日如来の堂あり。

そのゆへは、そのかみ田山の庄のうちに、平間田本といふ処に男女すんで、耕をわざに、めお(夫婦)つねに出てうちかへし、鋤を枕にひるねしたりける。

男の鼻より秋津むし(蜻蛉)のさゝやかなるが出て、岩のはざまをめぐり莓(苔)の雫やなめたりけん、羽ぬれて飛かへり、ひだん(左)のはなの穴に入ぬ。

妻もひぢ枕してけるが、おどろき男をおこしぬ。

男起あがり、おもしろの夢見しといふとき女しか/″\と語るを聞て、さらばその処はいづこ、いで行て見てんと、女のをしゆるかたをさして尋至り、苔よりつたふ泉をむすべば薫りみちたる酒也。

あなうれし、あめのたすけにあへるものがなと、酒の泉のほとりに家たてで、風の吹付るやうに日あらずとみうど(富人)となり栄ふるを、かしこくも帝きこしめして、そが持たる子やあると問せ給ふに、かたち、あづまうどににざる、うつくしき女子うめるを、やがてうちにめし給ひて、御后にたゝせ給ふとなん。

里人蜻蛉をだんびるといへば、そのころの人だんびる長者といひたりけるとなん。

このたちに居る、いくばくの人のくふよねかしぐ水のしろく流て、行水も真白のふちせとなりたるとて、米代川とよぶ。

比河、鹿の角のやうにふり分てながるゝとて鹿角の庄といひ、郡は狭布といふべきを今はもはら、かづの郡といひならはせり。

長者身まかりてのち、この寺をたつべしの勅命ありて、義老の頃とかや、すなはち寺の名を義老山喜徳寺となん。

三野(美濃)の国、滝のむかし物語におなじ。

いづらやまことならん。

いとふるきみてらにや、運慶の作る五大尊あり。

何の仏ならん、くちたるみかたしろあまたをたてならべたり。

前なる大杉に養老のむかしを忍ぶ。

いまだ河あさからねば、河岸のさかしき山を左に分ゆき、からくして比河に渡したるといへる菱床橋はくちて、名のみかけたるそのもとに近う出たり。

むかし此橋や、天狗のわたしそめ給ひしとて人ごとに天狗ばしといひ、又こと処に鈎木のみわたして、しのゝめになりぬるとて、そのまゝに在けるあり。

そこを夜あけ嶋となんいふと、みち行友のしかかたりたり。

入逢のかねの音する山かげも島は夜明の名に聞えぬる

湯瀬(八幡平村)といひて、湯桁の三ならびたるところありけるに湯あびして、こよひはこゝに宿りぬ。

やまうどにまじりて、山がたな腰にさしたる翁は、万太幾(またぎ)とて狩人の名也。

かれがいはく、われ若かりしときは国々にはせありき、遠江三河などは分て久しうありつなど語るに、こは何わざしでかととへば、ずほう(偽をいへり)山とて露なきこがね出るとて、山てふ山をほり/\て、人のかねとりて、安げにくらしつる盗人やうのもの也。

そのむくひにや、今はかく夜さむのころさへ、あかづける布かたびらに、あしきものくひて、しし、ましをうちてはかなう世渡ると、むかしのおかし(犯)をくひ、又此むくひの、未の子かけてなじかはよかるべきと思へど、わざなければとて煙ふき捨ていぬ。

暮れば、女どもあまた苧筍かゝへてきあつまる、これを糸宿といへり。

うみそするに、左あるは右の膝をあらはし、それなんたよりによりぬ。

こは女の身もて、あるべきさまともおもほえねど里のならはしとて、露ばかり人にはぢらうけしきも見えず、夜とともに、よろづうちかたらひて更たり。

麻糸の長きよる/\をとめらが話るまどゐや楽しかるらん

宿近きあら河の波音、こゝらなく虫のこゑ/″\あと枕にひヾき、老ならぬ身も寝覚がちに、さめては、いとどこし方のみおもひも捨ず、いねもつかれぬに、軒ばの山ならん、鹿のゆくりなう、ないおどろかしたるに涙おちて、

ふる郷をおもひ出湯の山ちかくわきて物うき棹鹿の声

三日 湯舟のいまだ星の影あかうさしうつる頃起出て、人みな衣ふるふわざして、こゝを出遠ざかる。

人のいふ、過来し小沢てふ南に、長牛といへる山より砂金ほるといふは、皇の御代栄えんと、みちのく山はいづこもいづこも、むかしよりこがね花さきけるにこそあらあらめと。

斎田(八幡平村)、兄畑、佐比内などをヘて折壁(以上岩手県二戸郡安代町)といへる里あり。

こゝのあら恒に関手あらためて通しぬ。

われ持たるいさゝかのこがねは、やはしき世のよねのしろにつかひはてて、椎の葉に盛らん料もなければ、ゆく/\、うすきころもひとへをうりてむとおもひつつ、

いくちさときならし衣ぬぎかへてあしをかりねの長きせにせん

と、ながめたるをかたれば、人さもといひて又歌をわらふ。

やをら田山(安代町)といふ里に出たり。

このあたりの邑にては、ものかく人まれに、めくら暦とて、春より冬まで一とせの月日の数を形にかいて、田植え、耕の時をしれり。

世にことなれるためしなりけり。

吉沢たれといふがやにとまる。

四日 ようべ(昨夜)より雨ふる。

苗代沢村梨木峠(安代町)を行に、牛をふ男、けふはもゝさとを行て宿からんにいそげと、さきなる子らにいふ。

道をとへば一塚といひ、あるは一里といふ。

六町を一里とし、ひとつかとは七里を合て、よそぢふたまち(四十二町)をいふなりけり、この国のならひ也。

牛馬のゆきかひしげう、路は田の中のごとにぬかり、はぎふかうさし入て行なやめば、日たかう曲田(マカタ)(安代町)といふ邑に宿つきたり。

夕附ころ、雨は晴たるに露いとふかう、外山の鹿の声高けば、やのわらは窓にかしらさしいだし、あの山にて、かのしゝがさがぶことよといへば、男ら、鹿は世におもしろきもの也。

何がしの神の夜みやありつるに、こもりあかしたるあした、笛つゞみの声にうかれて、放ちたる野がひの馬にまじりて、角ふりたてておどり/\めぐるを、この小童(ガキ)めがさかびしまま、木山の中にみなとび入ぬ。

われか、かや野にかくろひありて見しをりの楽しさとかたるを、ねぶり/\聞ゐたる翁あくびうちして、さるゆへ世中に在る獅子儛は、鹿踊を見てはじめたるといふが誠ならんとかたる。

鹿は声みやみもなうなけば、枕とりつつ、

さらでだにさびしき夜半の草枕なみだなそへそ小雄鹿の声

 

 

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日本語を読む 縦書きと横書き

スマホで、「銭形平次捕物控」を読んでいた。

何かの拍子で、縦書き表示だったのが、横書きになってしまった。

どこかさわってしまったらしいが、どうすれば戻せるのかわからないので、そのまま読んでいた。

スマホの縦長の画面で、横書きの文書を読むのはなんとも落ち着かない。

こういうアプリは、上部の隅あたりに切り替えのボタンがあるはずなのだが、ふだんは表示されていない。

いろいろやってみて、上の右隅のボタンを見つけて、やっと縦書き表示にすることができた。

 

日本語は、やっぱり縦書きするようにできてるのだろう。

でも、ウェブサイトは数えきれないほどあるけれど、縦書き表示のサイトは見たことがない。

これは、不思議なことである。

日本の新聞も週刊誌も、縦書きで印刷されて、販売されている。

ところが、新聞社のウェブサイトも、週刊誌をつくっている出版社のウェブサイトも、横書き表示である。

技術的には、ウェブサイトを縦書き表示することは可能である。

そのためのタグや、スタイルシートというやつを使えば、縦書きで表示することは簡単にできるようだ。

でも、縦書きを必要としている国は、日本ぐらいしかないらしい。

中国や台湾も漢字を使ってるのに、縦書き表示はいらないのだろうか。

 

現状としては、縦書きと横書きが混在しているのが、実態だろう。

私が現役で働いていた頃を考えても、仕事場の文書はほとんどが横書きだった。

昭和28年(1953年)生まれの私は、昭和35年(1960年)に小学校に入学した。

どんな教科書を使っていたのか、考えてみた。

国語の教科書は、たしかに縦書きだったが、他の教科の教科書は記憶が曖昧なのだが、横書きだったろう。

それは、中、高と同じようなものだったと思う。

高校の古文、漢文の教科書くらいしか縦書きは思い浮かばない。

大学は、法学関係だったが、その関係の本はほとんどが縦書きだった。

縦書きと横書きの使い分けは、何が基準になってるのか。

考えてみても、よくわからない。

 

久しぶりに、ウィキペディア電子書籍EPWING版をダウンロードした。

このブログでも、何回か取り上げたブックエンズというウィキペディアの各国語版を製作しているプロジェクトのものである。

パッケージ ja - Boookends - OSDN

数か月ごとに、最新版をアップロードしている。

画像データ入りの通常版だと、なんと15G以上もある。

画像無しのライト版やミニ版でも、5Gくらいある。

「EB‐Win」というアプリで開いてみると、こんな感じである。

縦書き表示ができることに気がついたのでやってみた。

ウィキペディア日本語版トップページ

かつて、ウイキペディアのデータを使って、人名事典を作ったことがある。

けっこう苦労して、画像入りの人名事典をつくった。

またやてみようと思って、やりかけたのだが、やめることにした。

メニューに「人名」という項目があって、それをたどっていくといろいろ分類された人名の一覧のリストがでてくる。

これ自体が、人名事典じゃないかと思いついたのだ。

ウィキペディア日本語版には、現在136万項目あって、そのうち9万項目以上が人名に関するものだという。

人名の一覧  歴史上の人物

いままで、電子書籍を読むときは横書きで読んでいたが、縦書きにすると印象が全く変わることに気がついた。

源頼朝の項目

フォントを縦書き用に切り替えるだけで、縦書きにすることができ、しかも青字のことばはリンクが埋め込まれていて、その項目に飛ぶことができる。

横書きだと情報を読む感覚だが、縦書きだと文章がより生き生きとした文章として感じられるような気がする。

これは、私の個人的な感覚かもしれない。

しかし、読者の反応に敏感であるだろう新聞社や出版社が、縦書きから横書きへ完全に切り替えることをせずに、使い分けしているのはそれなりの理由があるように思える。

 

 

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江戸時代の人名辞典 「先哲叢談」(せんてつそうだん)

古典文学関係のテキストを掲載しているサイトは、ネットの世界にはいくつもある。

そのうちのいくつかは、ときどきのぞいてみて、更新されていないかチェックする。

いつのまにか、リンク切れになって、サイトがなくなっているものもある。

「日本古典文学テキスト」は、お気に入りのサイトである。

Taijuさんという国語教師の方が、ひとりで運営しているようである。

とてもひとりで入力したものとは思えないような、膨大なテキストの数々だ。

古典文学の他に、「近代文学テキスト」のページもあるが、量的には古典文学が圧倒的に多い。

www2s.biglobe.ne.jp

そして、このほかに「先哲叢談」というページがある。

これは、江戸時代の伝記集である。

「先哲」というのは、昔の優れた思想家のことであり、江戸初期から中期にかけての儒学者について、漢文で書かれている。

儒学で、しかも漢文なので、敷居が高い。

特別に、儒学に興味があるわけでもない私には、ここで取り上げられている人物はほとんど未知の人である。

それでも、名前だけは知ってる儒学者が何人かいた。

日本史の教科書で見かけた名前である。

藤原惺窩、林羅山山崎闇斎、木下順庵、貝原益軒新井白石、室鳩巣、荻生徂徠

太宰春台、青木昆陽山鹿素行、山脇東洋

かろうじて、これだけの名前を覚えていたが、はたしてこの人たちが具体的にどんな人だったかというと心もとない。

 

私は、もともと人名辞典のようなものが好きである。

小学生の頃、学習雑誌付録の人名辞典を読んでいたのが、もしかすると本好きになったきっかけかも知れない。

今でも、そのような書籍やサイトがあると、惹かれてしまう。

 

Taijuさんは、この書籍をとりあげた理由をこのように述べている。

 

「この本は江戸時代の儒者を中心とした小伝の集成である。これを読むと、現代ではやや信じ難くなってしまった過去の日本人の世界観・人生観の一端に触れる思いがする。」

 

漢文で書かれた難解な文章を、電子テキスト化してくださっているが、このようにも言っている。

 

「漢文の書物の中では、きっとこれは易しい部類に入るのだろう。しかし、国語教員の私にとっても殆ど理解できない語句はいくらもあった。テキスト化の中で、何度も字引と辞書を引かなければ敷き写しさえ満足にできなかったのだ。」

 

江戸時代の教養人は、当たり前のように漢文で文章を書いていた。

読み下し文に、カタカナが使われていると、それだけで読むスピードと理解度がぐっと落ちる。

ひらがなに直すと、やっと日本語を読む感覚になる。

そういえば、明治の文豪夏目漱石は英語教師だったけど、友人の正岡子規漢詩のやり取りをしていたというのを、読んだ記憶がある。

明治の教養人にも、その名残が残っていたのだ。

 

先哲叢談」は、江戸中期の儒学者原念斎が正編を刊行した。

彼の死去により、東条琴台が後編と続編を刊行している。

江戸後期の儒学者については、原念斎の養子だった原徳斎が「先哲像傳」として刊行している。

今まで気がついてなかったが、漢文学資料のリストの中に南山道人の「日本諸家人物志」があるのをみつけた。

上下巻が書き下し文になって、しかも縦書き表示できるようになっていて申し分ない。

日本諸家人物志

日本諸家人物誌 2/2_Taiju's Notebook (biglobe.ne.jp)

この目次のページには、他にもいくつかの書籍があげられているが、そのほとんどは電子テキスト化されていない。

「近世先哲叢談」、「続近世先哲叢談」、「近世叢語」、「続近世叢語」、「近世畸人伝」、「続近世畸人伝」、「百家琦行伝」である。

わずかに、「続近世畸人伝」全五巻のうち第一巻と第二巻がテキストになっている。

これらの書籍については、多くの古典資料サイトで画像データとしては提供されている。

しかし、電子テキストはほとんどない。

国際日本文化研究センターが、すばらしいデータベースを提供しているが、この中に「近世畸人伝」と「続近世畸人伝」の本文テキストがあるのをみつけた。

データベース|国際日本文化研究センター(日文研) (nichibun.ac.jp)

近世畸人伝(正・続) (nichibun.ac.jp)

「近世先哲叢談」と「続近世先哲叢談」は、松村操によって、江戸後期の儒学者について書かれているが、明治になってから発行されている。

「近世叢語」と「続近世叢語」は、豊後岡藩の人角田九華の著作で、中国南北朝の書「世説新語」を擬した近世人物逸話集とされている。

「近世畸人伝」、「続近世畸人伝」、「百家琦行伝」は、書名にひかれてしまうが、ここでいう「畸人」「琦行」は、ことばとしては「奇人」「奇行」のことである。

しかし、「世人に比べて変わっているが人間としてのあり方が天にかなった」ということらしい。

「近世畸人伝」は、近江八幡の文筆家伴蒿蹊(ばんこうけい)の著書である。

「続近世畸人伝」は、三熊思考によって書かれたが、本来は画家で三熊花顛の名で「近世畸人伝」の挿絵を描いている。

「百家琦行伝」は、松江藩江戸詰め藩士であった萩野信敏によって書かれたが、調べたところによると、萩野という人もなかなか「奇人」「奇行」の人であったらしい。

 

これらの書物は、さきにあげた著作がほとんど儒学者についてのものであったのに対して、あらゆる階層の人物、たとえば、武士、商人、職人、農民、僧侶、神職、文学者、学者、さらに下僕、婢女、遊女から乞食者などに及び多彩な人々が扱われている。

江戸時代というのは、おもしろい時代だなと思う。

書籍は、木版なので本を発行するというのはたいへんな事業である。

それなのにこのような書物が、つぎつぎと書き継がれている。

そのような書物を読みたいという需要があったということである。

著者や登場人物が、日本全国に散らばっている。

これは、やっぱり「参勤交代」の制度が大きかったのだろう。

日本全国から多くの人間が江戸にやってきて長い期間生活する。

江戸では、そんな人たちが知り合う機会もあっただろう。

そして、国に帰って江戸で得た情報を共有する。

 

先日、大江健三郎さんが亡くなったニュースをテレビで見た。

たぶん、ノーベル賞受賞の際の映像がながれていた。

大江さんが、こんなことを言ってた。

文学は、他人を知る想像力である。

正確ではないが、こんな感じだった。

なるほど、「他人を知る想像力」か。

江戸時代の日本も、想像力が旺盛だったのだなあ。

 

 

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けふのせはのゝ② 菅江真澄テキスト

鶴田村(花輪町)の辺になみだ河といふめるは、あはぬ夜毎/\を根み、ながるゝなみだの顔をあらひたるより川の名におへりとも、又いつまで世にすみありつとも、あがおもふ女を見ることこそかたからめとや思ひけん、深き林に入て此男くびれ死けり。

又、その川に身をなげたるゆへ、なみだ川といふともいへり。

女も、ただ比男をのみ恋ひ、おもひやみて身はやせ、いたはり重く湯水のまれず、つゐに身まかりぬ。

翁うちおどろきふしまろびて、かくばかりおもひふかく、せちに契しなかと夢にもしりせば、あはせてんにとてくひなげけどいふかひなく、せんすべもなければ、親どもなく/\、男も女もひとつ塚の中に、男の立つる千束の錦木とともにこめつきて、其辺に寺を建て錦木山観音寺といひしとなん。

比男女の塚のもとにたゝずみて、なきたまに手向ばやと、五もとの木の枝の、すこしもみぢたるを折て莓(苔)の上にさし、紙に引むすびて、

 

   錦木の朽しむかしをおもひ出て俤にたつはじのもみぢ葉

 

   細布の胸あはさざりしいにしへをとヘばはたをるむしぞ鳴なる

 

といふ、ふたくさの歌をかいつけて、もとの田づらをつたひあぜみちをくれば、かの田の面の女休らひて、といふま、しばしとて芝生に在てものがたりを聞ば、中むかしの頃まで、ふん月のなかば、つかのうちにはたをる音の聞え、物見坂といふより見れば、かたちうつくしげなる女の、はたものにむかひ居て機をるを、ある士のあやしみて、此ふる塚の中に女あらん、ほり見てんと、こゝらの人に仰て鋤鍬立てほりこぼちてのちは、まぼろしに見えたりつるつかの俤も、さをなぐる音もたえはてにき。

さるころより、毛布をるわざはもはら絶うせたりけるといひ捨て、又鎌とりおりたち苅ぬ。

うべ「今は世に在るもまれなる奥布のもちひられしはむかし也げり」といふふるき歌思ひあはしたり。

この古河(十和田町)の村をさ、黒沢兵之丞といふものの家に伝て今もをるといへば、それが宿を尋て、あるじのものがたりを聞に、いまはさらに鳥の毛まぜてをることはえし侍らじ。

をりとして君に奉ることあるに、そのころは、家のうちと清らかに注連ひきはへて奉る。

その織る女も湯あび、いもゐして、うみそつくりて、をりいとなむとなん。

はたはりのいとせばきゆへ、衣にぬひてはむあらはるゝよりいふにや。

今も南部布とて村々よりせばき布をり出しぬ、此たぐひにこそあらめ。

いにしへのみつぎものには、きよらかに織て奉りたるならん、比黒沢がやに、そのかみよりつたへたるもゆへやあらん。

 

「道奥のけふのせばののほどせばみ胸あひがたき恋もするかな」

 

「おもへたゞ毛布のさぬのの麻衣きても逢見ぬむねのくるしさ」

 

とながめおけるも、みな比毛布郡のこの宿にをる布の、むかしをよみし歌のこゝろ也。

やをらこゝを出て、松の木村(十和田町)といふをくるに、石のおばしかた(陽形)をならべたる祠あり。

これや、しなの、越後、いでは、わきて陸奥にいと多し。

冠田村(十和田町)をへて涙川を渉る。

 

「おほ空にわたる鵆のわれならばけふのわたりをいかになかまし

 

とよめるは、この流とも、又古川と神田のあはひのわたりをいふとも、たれしれる人なし。

鶴田(花輪町)を過て村の名をとへば、鉄砲とこと/″\しういらへたるとき、たはれうたつくる。

羽よはきつる田のひなは心せよ鉄砲村の近くありつゝ

花輪の里に出たり。

 

「わがことひとりありとやはきく」

 

とありけるはこと処にて、おなじ名のこゝにもあるにこそあらめ。

此里をはじめ、比あたりのわざとて紫染るいとなびあり。

これを染るに、かならずにしこほりてふ木の灰をさすといふ。

なにくれと子の字のみ付て物いふを聞て、おなじう。

野に出てひがしこにしこほりためて染るとぞきくかづのむらさき

かち染る餝摩(しかま)の里にひとしく、筑觜(つくし)、むらさいの野の外に、かく名の世に聞えたり。

こゝを離て木の下に休らひ、

たけくまにあらぬ花回の松陰もひとり行身のたづきとぞなる

大里村にいたりて、作山誰とかいふ宿にとまる。

廿八日 うらぶれて、おなじ旅館に居る。

遠かたの、山の尾こと/″\に雲のいづるやと見やるは、銅ふくけぶりなりけるとか。

その山より来るわらは、あぢかのごときものに茸あまた入て、馬の歯つぶれてふくさの実を、ひたにくひ/\行たりけるを見て、

 

「あなうまのはつぶりくらふ童かな」

 

とうちたはれたり。

廿九日 夜辺よりの雨つれ/″\と、晴行けぢめも見えねば家にをるに、菊池何某といふ村の長とひ来てかたる。

なが月一日 いまだあまもよの空なり。

川水やふかからんとて、やのぬしせちにとどめれば、けふもおなじ宿に在て近きあたりを出ありくに、福用山大徳寺に遊びて、恵音といふ僧としばしうちものかたらひ、此かへさ、やのをさなき童のあるにとらせばやと、物あきなふやに入て、くだものかはんとあぐらによれば、年高き翁ふみどもやりて、つづらこ、あるははこやうのものを、しぶのりもてぞはりける。

なさけふかからんふみもやとうかゞひ見る中に、錦木山観音寺由来話としるして、黒うすゝづける冊子あり。

それしばしといへば翁ゆるしぬ。

ひらき見ればこはいかに、そのすぢ/\は正しからざれど、大化のむかしに恵正法師のかい残せるに、遠きいにしへを忍びてこゝにのす。

 

「此観世音者、人皇卅六代皇極天皇之御願所、

当国之大守、敏達天皇第五之宮、瑞褵皇子之御建立也、

其源者、人皇捨三代成務天皇之御宇、奥州黎民、動干支戌度度也、

其来由者、地理不分明、而民争奪境、小者無勝、大者結党、而闘争、

故置郡司、正邪正、北奧州五郡者、大已貴命廿六代之苗裔、狭名大夫、

同帝三歳御下向当国、置吏長、分地理之上下、定町数限堺、令開塘溝、

教農耕之道、自是農夫等、悦伏、而無争堺、民人伏、帝褒美其勲功、

改豊岳里、狭名之以狭字、称号狭郡、狭名大夫、居官三捨七歳、

仲哀天皇二年、於狭郡豊岳之邑薨、狭名大夫八代之後流、

攻子女、得工布絹、或時織始毛布、民間之児女習之、而色雑鳥毛織毛市、

其頃同郡草城里長之子、某、恋慕政子女、而立錦木三歳、既及千束、

政子女、初程有慙、人恐父心、重月而見彼皃、吾故不似初、

面痩恨声入身中、如為砭身、乍在身者古河里、心者在草城里、而業即荒、

父大海云、先祖文石不幸而落民間、家貧再雖在民間、自狭名大夫八代家名、

人知之、嫁里子耻家名、先祖不孝之至也、制之不許嫁、長子自是伏病床、断鍼薬飲食、

推古天皇七歳、七月十日、遂早世、政子女、哭泣無止、心胸大痛暈到、

而同月十五日、誘引無常風、命葉忽落、大海悲嘆余、乞長子之亡骸、

同穴政子女、而以千束之錦木共埋之、故号錦木塚、

其後、敏達帝之皇子、第五之宮者、臣守屋之女、岩手姫御子也、

故除皇子之列、奉成庶人配流奥州当国之部、吏猪人依蘇我馬子下智、

為奉弑北奥之部、吏有麻呂、竊奉迎五之宮、造奉恭敬、

猪人初、五郡之官司等、来豊岳里、敬伏、

三十六代、皇極天皇元、壬寅之歳、

〔天註‐‐皇極天皇元年は舒明天皇卅七年にあたりて己丑にして壬寅にあらず〕

五之官七捨三歳、配流有勅免、

而上京、在配所五十二年、比時当国之産物、毛布細布三百反、砂金百両、献之、

自是為貢物、帝曰、大職官鎌子、朕、拍父七人、叔母十人、幸五之宮残命、

父大兄皇子、為再会之念、御落涙甚、

其時鎌子、毛布細布之由来、達叡聞、押御感涙流、狭名者、在往昔。

又云 勲功臣旦而名也命哉、至政子女家断絶、

堪痛哭、草創一宇之堂、慰亡魂、賜正観音一軀、御長一尺八寸、

求法之僧善信、自百済国持来木像也、誠以難有勅願也、

同四年、五之宮造立一寺所賜之、安置観世音称号錦木山観音寺、

孝徳天皇大化乙巳歳、八月、導師、恵正法師敬白」

 

とかいたり。

からふみのまねびふかからぬ人の、はかなう作なせるもんじやうながら、そのことばつばらにしるく、遠き千とせのむかしまでそれと偲ぶに足れり。

 

 

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電子図書館が身近なものになる①

私の住む柏市の市立図書館が、電子図書館のサイトを開設した。

そんな噂は聞いていたのだが、サイトをチェックしていなかった。

今年の1月24日から、サービスを開始していた。

なるほど、こんな感じである。

柏市電子図書館

web.d-library.jp

検索ワードを入力せずに、検索ボタンを押してみた。

検索結果が、「11140件中100件表示となった。

閲覧可能な電子書籍が、11140冊あるということだろう。

「利用カード」があれば、誰でもログインできて、貸し出し期間も紙の書籍と同じで2週間となっている。

期間が過ぎると、自動的に返却されてしまうということだ。

書籍の下に「予約者数」の人数が表示されているので、0人だったらすぐ借りられるけど、5人だったら随分と先のことになる。

 

私は、近隣の市の図書館の利用カードを持っている。

我孫子市流山市鎌ヶ谷市、千葉県立西部図書館、そして柏市の利用カードである。

松戸市の図書館も行ったことはあるが、カードは発行してもらっていなかった。

いずれも、柏市とは隣接の市だが、隣接でなくても利用可能なのだろうか。

昨年、古地図の所蔵状況を調べているときに、流山市立図書館がすでに電子図書館を開設していること知った。

今回、再度流山の電子図書館のサイトをチェックした。

流山市電子図書館

柏市のサイトと、デザインがまったく同じである。

ということは、同じ電子図書館システムを採用しているのだろう。

サイトの記載を読むと、千葉県の市町村で流山市が最初に電子図書館を開設した、とある。

ワードなしで検索すると、1001件となっている。

流山市電子図書館を設立したのは、いったいいつだろうと思い調べてみた。

しかも、柏市と同じシステムというのは、どんなものだろう。

それぞれの、市のサイトには電子図書館のシステムについて詳細な情報はないようだった。

 

電子図書館」という言葉に、私が興味を持ったのは、インターネットが身近になった頃だったので、たぶん2000年頃のことだと思う。

電子図書館の草分けといえる「青空文庫」が設立されたのは1997年のことらしいが、その頃はインターネットは身近なものではなかった。

なにしろ、インターネットに接続しようとしたら、電話線のモジュラーを差し替えなければならなかった。

その間、電話は使えなかったし、長電話してるのと同じ状態だったので、長い時間はネット接続できなかった。

Yahooを傘下におさめたソフトバンクが、それまでの高額なインターネット接続料に対して低額な接続料を武器に、乗り込んできたのは2001年のことである。

我が家も、さっそく契約して

Yahoo!BBで常時接続できるようになった。

ずいぶんと、昔のことのような気がするのだが、まだ20年くらいしか経っていない。

これで、やっとインターネットが身近になったわけだ。

 

ところで、柏や流山の電子図書館がどんなシステムによっているのかは、各市のサイトを見てもわからなかった。

ネットでいろいろと検索してみて、やっとわかった。

図書館流通センターという会社の「TRC-DL」というシステムらしい。

 

www.trc.co.jp

TRCが「図書館流通センター」で、DLは「デジタル・ライブラリー」である。

なんとも、わかりやすい。

流山市の方が、柏市よりも10年も早い2013年にシステムを導入している。

ところが、電子書籍の冊数は、今年開設した柏市の方が10倍以上である。

これは、システムの運用によるものかもしれない。

電子書籍は、ブラウザで扱えるものならば、自前のものでも用意できるらしいからである。

 

「電子出版流通制作協議会」という電子書籍業界の団体のサイトに、電子図書館の現状の調査が掲載されていた。

全国の公共図書館が、どれくらい電子図書館を整備しているかの最新の調査結果によると次のとおりである。

今年1月に公表されているが、2022年の調査である。

2022年10月01日現在で、461の自治体によって、369の電子図書館が設置されている。
自治体数と図書館数の差は、複数の自治体が共同で図書館を設置していることによる。

自治体の導入数   461/1788                25.78%
利用可能人口    6867/12614           54.44%
図書館導入率    1349/3315             40.69%

つまり、国民の54.44%は、電子図書館を利用できる状況であるのだ。

これは思ったより高い割合だと思う。

aebs.or.jp

電子図書館というのは、単に図書館を進化させるという問題ではないような気がする。

この社会の中で、情報をいかに共有していくか。

それが、情報を提供する側と、情報を受け取る側という、一方的な方向ではなく、もっと広い可能性のあるものにつながっていくものだと思う。

その辺りを、もっと考えたいと思った。

 

 

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雪のある生活

私は、雪国で育った。

このことについては、ブログに何回か書いている。

秋田県青森県の県境をなす白神山地の南麓の村で、生まれて高校卒業まで暮らしていた。

11月に初雪が降って、12月からから根雪となって、3月頃から溶け始めて4月初めには、あちらこちらにまだ雪が残っている。

というのが、私の記憶である。

ということは、1年のうちの4か月くらいは、雪の季節ということである。

温暖化が進んだ今は、少しちがっているだろうか。

 

テレビのニュースで、酸ケ湯の積雪が4メートル近いことを伝えていた。

古くからの湯治場として知られる青森県の酸ケ湯温泉のあたりは、日本屈指の豪雪地帯でもある。

酸ケ湯は、18の山々からなる八甲田山中の標高890メートルの場所にある。

これに対して、私の郷里の村は山に囲まれてはいたが、標高は100メートルほどしかない。

標高が高ければ、必ずしも降雪量が多いわけではないだろうが、関係なくもないだろう。

積雪量は、1メートルは越えていたが、2メートルまでになっていたかは自信がない。

それでも、一晩の降雪量が50センチを超えることがよくあった。

 

私が、学校へ通っていたころは、スクールバスなどというものはなく、歩いて通っていた。

学校までの道は、川に沿って大きく蛇行していたので、1時間くらいかかった。

そこで、山越えの道でショートカットしていた。

それだと、30分くらいに短縮できた。

車の通れない登山道のような道である。

一晩に50センチなどという大雪が降ると、道がなくなってしまう。

そういう日の朝は、上級生が除雪をして道を作っていた。

小学校へ入る前の幼稚園のときから、その道を通っていた。

今考えると、うそのような話である。

5歳のこどもが、毎日冬山登山のような道を通学していた。

 

それがあたりまえだったから、当たり前のようにやっていた。

それだけのことである。

日本中に、私のように育ったこどもはいっぱいいたことだろう。

だいぶ前に、日本中で多くの集落が消えて行ってる、ということをこのブログに書いた。

廃村になってしまった集落を訪ねている方の記事を読んだのがきっかけで、知ったことである。

「ポツンと一軒家」というテレビ番組がある。

あれなども、最初から一軒家というのもないわけではないが、多くは集落だったのが、だんだんと家が減少して一軒になってしまったのも多いようだ。

車社会なのになのか、車社会だからなのかは、わからないが人間の住む範囲が狭まってるのは確かである。

 

若いころに八甲田連峰を歩いた時に、酸ケ湯のあたりまで行った。

私が泊まったのは、谷地温泉という酸ケ湯の隣の温泉で、湯治部門と旅館部門がある昔ながらの宿だった。

そのときは、秋田側から十和田湖、そして奥入瀬渓谷、それから八甲田を目指したのだった。

私の郷里は、十和田湖からそれほど遠いわけではない。

でも、家族旅行などほとんどしたことのない時代だったので、十和田湖には行ったことがなかった。

あんなに有名な観光地なのに、秋田をはなれて10年くらいしてからの山旅の途中で寄ったのだった。

 

酸ケ湯の最高積雪量は、2,013年の566センチなのだそうだ。

毎年春になると、豪雪地帯である立山への「立山アルペンルート」開通の映像が放送される。

10メートル近い積雪を、GPSを駆使して道路情報によって雪を掘削するという「雪の大谷」は10メートル近い雪の壁である。

吹き溜まりだと20メートルにもなるというのは、想像できない別世界である。

地球の温暖化というのは、たしかに全体的には気温が上昇しているのだが、今までとは違う気象になることがあるらしい。

暑さや寒さが、より極端になる。

暑いところはさはさらに暑く耐えがたいものになるかも知れないし、寒いところはさらに寒く、降雪量も今までよりも多くなるところが出てくるかもしれない。

 

私は、雪国に18年間いたわけだから、1年のうち4ヶ月を雪の中で生活したとすると、1年の3分1である。

18年間のうちの6年間は、雪のある生活だったことになる。

これが、もっと北の北海道だったら、1年のうち6ヶ月くらいは雪の中かもしれない。

日本は、小さな国だと思うけれど、半年は雪の世界になる地方もある、沖縄のように常夏といってもいいような地方もある。

日本では、今やスキーは若者には存在感が、無くなっているらしい。

今が夏である南半球の国から滑りにきた人たちが、日本のスキー場に多いという不思議な時代になっているのだ。

 

 

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けふのせはのゝ① 菅江真澄テキスト

天明五年(一七五八)の秋、つがろじをへて南陪の鹿角郡になりて錦木のむかしを尋ね、岩手郡、和賀郡を過て仙台路にかゝり、江刺郡に片岡邑に宿りたるまでをかいのせたり。

其言葉みじかういひもたらされば、《けふのせはのゝ》と名づく。

 

天明五年―一七八五)葉月廿六日 あしたのま雨ふりてぼどなう晴れ行。

遠近のやまのけしきたぐふかたなう見やりつつ行ば、遠う行ならん鴈の声のみして、しばしのうちに露ふかうこめて、そことかたもしらざれば、

 

「いづこにかさして行らん山たかみあさゐる雲に消るかりがね」

 

とながめたるいにしへ人の心までおもひ出られて、あはれいとふかく過れば、又村雨ふり出て枯れつゝ来れば、みちのおくの南部鹿角郡土深井秋田県鹿角郡群十和田町)とふ里を左に出て、松山の館をへて岨路わけくれば、木ふかう茂る山陰にはら/\と鳴る音のうちしきるは、いかにと草かるあげまきにとへば、鹿のなづきおしとて、雄鹿どしの、ぬかとぬかとをおし合ひ、角と角とを打たゝかはしけるその音といふ。

いづこにやとうかゞヘば、雄鹿ふたつ木立よりいでて奥山に去ね。

これなん「伊夜彦の神の麓にけふらもか鹿の伏らん皮のきぬきて角つきながら」とあるを、此こヽろにもいはばいひてんか。

わきてこの山路は鹿のいと多しといへば、このわらは聞て、名さへ鹿角にてとうちわらふに、

 

   いづれをかかづの郡の名もしるくおじかあらそふ秋の山かげ

 

ゆく/\も又おなじう、

 

   つれなしと待やわぶらん角つきに雄鹿つまとふわざもわすれて

 

新田〔神田とも〕(十和田町)といふ邑につきたり。

川水ふかくいでまさりて、舟わたさねばこゝに泊る。

夜更て、かざ戸の鳴るに寝ざめて、

 

   荻の葉の音せぬ夜半も身にぞしむたびねの床に通ふ秋かぜ

 

廿七日 水あせ行たれば舟渡しぬ。

比河を毛布の渡といふか。

 

   夢にさへふる里人にあひがたきけふの渡に袖ぬれにけり

 

古川(十和田町)といふ村につきて、錦木塚と聞しやあると尋れば、稲かる女田の中の立て、かりあげたる田の面を行て、大杉の生たるあなたと鎌さして、そことをしへたり。

としふる椙のもとに、ぬるでの木、桜の梢、かへ手など、すこしもみぢたる木々生ひまぢりたる中に、土小高くつきあげて犬のふせるがごとき石をすへたり。

これやそのかみ、赤森の郷の辺に、月毎に市たちて家居あまたに、とみてにぎはゝしき処ありてけり。

其近となりの里に、柴田原といふにすむ、としたかき翁、いづこよりかをさなき女子ひとりをやしなひ来りて、あがほとけとはぐくみたてて、この女ひととなりてかたちきよらに、心なをく、あいきやうづきて、あけくれのわざには白鳥のにこ毛をまぜて、はたはりせばき布ををりて、その市にもて出てうるを、見る人ごとにこの女にけさう(懸想)し、又毛布のめでたさとて、われ/\とひこしろひあらがひてかふ。

広河原といへる里に男ありて、世を渡るわざには楓の木、まきの木〔まゆみの木ならんか、鬼箭に似たり、犬まきとか〕酸の木〔勝軍木のたぐい〕かばざくら、苦木〔あふちの葉に似て葉さゝやかに長く、星のかたありて、味ひ苦ければしかいへり〕この五もとの木の枝を三尺あまりにして、一束にゆひ、なかどう木といひてけるは、仲人木といふ言葉にてやあらん。

世にいふ錦木とは、この木どもわきて色よく紅葉すれば、うべいふにやあらん。

むかしよりこと/″\にいへど、いかゞあらんか。

ひろ河原の男、なかどう木を市路にもて行てあきなふを人々かひて、わがおもふ女ある門のとにたつれば、女見て、わがすべき男とおもへば此木を夜るのまにとり入るを、おやは其こととしりておはせたりといへり。

千束といふも、この木をひとつか、ふたつかといふにてもしるべし。

此にしき木うり、毛布あきなふ女のみめことがらよきに恋て、あさからず契りて夜毎に入しらず通ひ、今は人あはヾからぬがたらひもしてんと、錦木のたかやかなるをその女の門にたつれば、女うれしうとり入なんとせりけるを翁とどめて、この男なせそ、よな/\あまたして立つるなかどう木の中にまだよき男やあらん、いかにも智あらん男をこそむこがねともなさめと、錦本うる男をおとしめそねみてければ、すべなう翁の心にまかせたり。

日毎に重る、いくつかの錦木はそのまゝに朽ぬ。

此こヽろをや、けふの細布胸あはさたることに世にはいひなしぬ。

女おもへどもそのかひなう、男くれどもえあはで、物ごしにしのび、あからさまに夜な夜なない別ぬ。

翁、みそかに男の夜半にかたらふことをしりて、ひねもすひるはねて、よるはいもねず比女をまもりて、いさゝかもとには出ださず、布もうらせず。

男いかゞしてか女を見てんと、翁のまどろまんまにとうかヾヘど、いとものがなしき声に、けぢかくふくろうのなけば、翁ねざめしてしはぶきぬ。

ある夜は来りて板戸さと明て、いまはものいはんとおもふに、きつねの軒近う叫ぶに翁の夢おどろかいて、ほゐ(本意)とげざりき。

このことをのちにいひつたふにや、いま梟が谷、狐が碕といふ名あり。

翁ともすれば、あかしぶとて、山ぶどうのかづらの皮を縄になひ、たえまつとして火ともし、うちふり/\うちとを見めぐれば、男くる夜もくる夜も逢がたく、こゝかしこと、あらぬかたにみちふみ迷ひ広河原に帰りぬ。

その行かひのすぢを、奥の細みち、けふの細道といひて、風張といふ処のしたつかたに中りてあり。

其通路に涙も露もいとふかう、物うしとはらひしとて、其まゝ草の露むすぶなしと、田に在る女どものいへるにおもひつづけたり。

 

   しら露のおくの細みち物うしとはらひし草や今もむすばじ

 

 

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紙の本とデジタルの本②

私にとって何度目かの「電子書籍ブーム」が訪れている。

今までため込んでいた歴史書や古典文学などのテキストを、パソコンやタブレットで読めるように、電子書籍に変換している。

きっかけは、「吾妻鏡」である。

このブログに、「令制国」のことを書いていて、陸奥国について調べていたときに、奥州藤原氏の滅亡があった。

頼朝に、義経討伐を要請された奥州藤原四代目泰衡は、義経を自殺に追い込むが許されなかった。

そこで、家臣の河田次郎を頼って比内郡に向かうが、贄の柵において河田の裏切りによって殺害される。

比内郡贄の柵は、現在の秋田県大館市であり、私の郷里である。

 

その記事が、「吾妻鏡」に記載されていた。

吾妻鏡」は、幕府中枢の複数のものによって編纂されたと思われる文書で、幕府の事績を編年体で記している。

初代将軍源頼朝から、六代将軍宗尊親王まで、82年間が全52巻にまとめられている。

しかし、文体は変体漢文の一種で、「吾妻鏡体」というものらしい。

たとえば、泰衡の最後は次のように描かれている。

 

「文治五年(1189)九月小三日庚申。泰衡被圍數千軍兵。爲遁一旦命害。隱如鼠。退似鶃。差夷狄嶋。赴糠部郡。此間。相恃數代郎從河田次郎。到于肥内郡贄柵之處。河田忽變年來之舊好。令郎從等相圍泰衡梟首。爲献此頚於二品。揚鞭參向云々。」

 

たしかに、すべてが漢字であり、漢文ではある。

でも、使われている漢字の多くは、見慣れている漢字が多くて、なんとなく内容はわかる。

やはり、このままでは読み続けるのは難しので、読み下し文にする必要がある。

ネットを探してみると、加藤さんという方の「吾妻鏡入門」というサイトに、52巻すべての読み下し文があった。

しかも、現代語訳まで掲載されていて、ほんとに入門には申し分ない。

 

「文治五年(1189)九月小三日庚申。泰衡數千の軍兵に圍被(かこまれ)、一旦の命害(みようがい)を(遁のが)れん爲、鼠(ねずみ)如く隱(かく)れ、退くこと鶃(げき)に似たり。

夷狄嶋(えぞしま)を差し糠部郡(ぬかのべぐん)へ赴く。 

此の間數代の郎從(ろうじゅう)河田次郎(かわだのじろう)を相恃(あいたの)み肥内郡(ひないぐん)贄柵于到る之處、河田忽(たちま)ち年來之舊好(きゅうこう)を變(へん)じ、郎從等泰衡を相圍み梟首(きょうしゅ)令(せし)む。此の頚於(くびを)二品(にほん)に献(けん)ぜる爲、鞭(むち)を揚(あ)げ參向(さんこう)すと云々(うんぬん)。」

adumakagami.web.fc2.com

漢字はまったくそのままなのに、漢字の順番を入れ替え、かなを補うだけで、日本語になってしまっている。

言ってみれば、中国語が日本語に変換してしまっている。

吾妻鏡入門」に掲載されている加藤さんによる現代語訳は、次のとおりである。

 

「文治五年(1189)九月小三日庚申。泰衡は、数千の軍隊に囲まれてしまったので、一時の命逃れのため、鼠の様に隠れ、逃げる様は〔げき〕のようにすばやく、北海道へ渡ろうと津軽へ向かいました。途中で先祖代々の部下の河田次郎を頼って、大館の贄柵(にへのき)に付いた時に、河田は先祖代々の恩義を裏切って、家来達が泰衡を取り囲んで討ち取ってしまいました。泰衡の首を頼朝様へ献上するために馬に飛び乗って向かっているとの事です」

 

これを読み比べてみると、現代語訳はとてもわかりやすいが、読み下し文の方が、時代の雰囲気や状況を感じることができるような気がする。

漢文を読み下し文にしてしまうという方法があったので、日本では長い間、歴史書や文学書に漢文が使われたのだろう。

今回、他にもいろんな文書を探してみたが、思ったよりも多くのものが漢文で書かれていたことに驚いた。

本来は漢文で書かれていたが、読み下し文にされて読まれていた例が、多いのかもしれない。

古事記」や「日本書紀」はもちろん、「万葉集」は漢文ではないが、「万葉仮名」によってすべて漢字である。

江戸時代後期、頼山陽によって書かれた史書日本外史」も漢文体で記述されているし、明治維新後に西洋からの思想や技術に関する新語が漢字で作られたのも、そういう歴史があるからなのだろう。

 

子どもの頃から本好きだった私は、20代には部屋の壁がほとんど本棚に占められていた。

それが、PCに出会ってから本を購入することが、ほんとに少なくなってしまった。

吾妻鏡について調べているうちに、今まで知らなかった面白いサイトを見つけてしまう。

そのおかげで、テキストがさらに増えてしまった。

テキストがPCに埋もれてしまうと、なかなか新しい本に出会いにくい。

電子書籍の良さは、複数の本を一つの書籍にまとめてしまえることで、言わば本棚を作る感覚である。

一覧性があるので、まだ読んでいない本に出会う機会がある。

しばらくは、楽しんでやっていこう。

一覧性のある電子書籍 自作の古典文学集



 

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Windows11にしてみた

愛用しているノートパソコンを、Windows11にしてみた。

数年前に、Windows8からWindows10にアップグレードしたものである。

パソコンの調子がおかしいと、初期化するようにしていた。

だいたいは、いつものアプリが立ち上がらないというようなことだが、初期化するとまた使えるようになっていた。

ところが、いつものように初期化しようとすると、途中で「予期しないエラーのため変更しませんでした」のようなメッセージがでる。

2回やってみたが、同じような状態だった。

Windows10のサポート期間が、あと2年くらいで終了することは知っていた。

ノートパソコンの機器自体は、まだ使えそうなので、そのうちアップグレードしなければとは、思っていた。

 

これを機会に、Windows11にアップグレードしてしまおうという気になった。

今使っているノートは、DELLのInspiron11の3000というシリーズである。

Windows8が搭載されいて、とにかく安さに惹かれて買った。

たぶん、2015年くらいだから、充分に元は取れている。

あまり性能など考えずに、5万円位でメーカーのショッピングサイトで買った。

でも、この製品はよく見るととても値段からは考えられないくらいに、よくできている。

デスプレィは11.6インチでのタッチパネルで、360度回転できるヒンジ設計で、画面も回転できて、タブレッドとしても使える。

外部接続も、USB 3.0、USB 2.0x2、Bluetooth 4.0、無線LANHDMI と必要なものは装備している。

それでいて、使い勝手も良く丈夫で、あと何年か使えそうなのだ。

Youtubeで、自称パソコン博士の方が、Windows11へのアップグレードの動画をあげていた。

Microsoftのアップグレードの機種についての条件は、かなり厳しいが裏ワザを使えば古い機種でもアップグレードはできるということだった。

条件のチェックを回避するというだけで、私にもできそうな簡単なことだった。

 

まず第一にやることは、Microsoftのサイトからダウンロードすることである。

なんと5.1Gもあったので、けっこう時間がかかった。

作業は簡単である。

普通のアプリのように、setupのファイルをクリックして、インストールを始める。

あとは、ひたすら待つだけである。

作業進行状況のパーセントの数字が、いっこうに変わらない。

それでも、時計のようにくるくる回ってはいる。

気がつくといつの間には、数字が飛んで変わっている。

なんだかんだで、半日近くかかってアップグレードは終了した。

 

起動させてみると、画面はそれほど変わっていない。

動作も、そんなに重くなったわけでもない。

でも、画面をよく見ると、フォントやアイコンが違っている。

フォントは丸くてやさしい気がするし、アイコンも色使いやデザインがかわいい感じである。

言ってみれば、マックぽいのかもしれない。

インストールしてあったアプリは、ほとんどそのままで使えた。

考えてみると、昔はOSのアップグレードは大変だったな。

 

私にとって最初のPCは、今は無くなってしまったDECというメーカーのノートパソコンで、Windows3.1搭載だった。

Windows3.1は、まだGUIにはなっていなくて、DOSプロンプトというまったく無の画面に文字を打ち込んで、起動させていた。

Windowsの場合は、フロッピーを差し込んで、“win”でリターンキーである。

ロータス123は、“123”でリターンキー。

しばらく使ってから、Windows95にアップグレードした。

フロッピー20枚ほどの箱入りで、けっこういい値段だった。

フロッピーって容量は、たしか1枚1.4MBくらいだったから、20枚でも30MBにもならなかったのだな。

その頃40代になっていた私は、独学でやってたけど、OSのアップグレードは敷居の高いものだった。

 

前回、Windows8からWindows10にした時あたりから、グレードアップは無償になったのだろうか。

ダウンロードしたデータをUSBに入れて、USBから起動させたような気がする。

それを考えると、気分的にも、経済的にも、負担の軽いものになっている。

今は、OSを金で買う感覚は無くなっている。

機種の値段に、OSの分が含まれていてアップグレードも無償でやってくれるというシステムになっているのだ。

私の最初の2台のスマホのOSは、Windows Mobileだった。

でも、Windows Mobileは、もう消えてしまったのかな。

アップルとMicrosoftだったPCの世界に、今はGoogleAndroidが加わって、三つ巴になっている。

これからどうなって、行くのだろう。

 

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