晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

父と山

父は山師だった。

山師ということばはいくつかの意味で使われている。

 1 鉱脈の発見・鑑定や鉱石の採掘事業を行う人。

 2 山林の買付けや伐採を請け負う人

 3 投機的な事業でおおもうけをねらう人。投機師。

 4 詐欺師。いかさま師。

              (デジタル大辞泉)

父は、2番の意味の山師だった。本人もこのことばを使っていた。

国有林の木材の払い出しを受けて、伐採し、運送して製材業者に引き渡すということをやっていた。昭和30年代はトラックなどまだ一般的ではなく、運送には、馬そりを使っていた。秋田杉を伐採し、馬そりまで移動させ運ぶには、雪のある冬が都合がよかったので、冬の仕事だったと思う。人を何人か雇っていたが、木材価格の暴落があり、借金ができて事業を辞めたと聞いている。

 

そのために父は出稼ぎをはじめた。小、中、高と父は家にはいなくて、お盆と正月に1週間帰る人だった。母子家庭みたいなものかな。私の記憶に有る限りでは、北は北海道、西は大阪である。東京オリンピック前の三鷹での高速道路の工事現場の写真が残っている。そして大学生になって、横浜に転居し、父母と3人で暮らすことになった。通常とは反対のパターンだった。

 

私が、頻繁に山に行くようになった頃、父に言われた。

「何をするために山にいくんだ?」

私が、山は楽しいんだ、と言うと

「山は仕事するところだ。遊ぶところじゃない。」

私が、秋田にもどりたいか、と聞くと

「もう、雪のあるところはいい。」

秋田に帰る気持ちはなかった。

父は、雪山での作業の事故で、ケガして入院したことがあった。

たしかに、雪の中での生活は厳しい。一年の半分近くは、雪の中だ。母も、雪の中を雇われ仕事に出ていた。子供たちも、幼稚園の五歳の時から中学卒業まで、雪山の道を30分かけて通学していた。車道もあったが、遠回りで1時間以上かかったので。毎日冬山登山だったな。それが当たり前だったけど。

父には、私の登山は理解できなかったと思う。

 

 

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