晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

駅と宿と町

手賀沼印旛郡?」で、沼のまわりは、村しかないように書いた。

周辺をよく見ると、町はあった。

小金町と野田町。そして、我孫子宿と松戸駅

明治11年に「郡区町村編制法」が制定され、

「府県ノ下郡区町村トス」となっており、町か村しかないように思われる。

ところが、宿と駅がある。

宿は、江戸時代の宿場である。

駅は律令制の駅家のことで、読みかたは「えきか/うまや」である。

うまやという読みからわかる様に、駅馬の用意が大きな役割だったと思われる。

その言葉が、まだ生きていた。

駅と宿が、同時期に作成された地図の中で混在している。

その後、明治22年町村制が施行された際の資料を見ると、

例えば、松戸町が発足した際、その前身として

松戸駅、下矢切村、中矢切村、上矢切村、小山村、栗山村

となっているが、我孫子町ではその前身として我孫子宿と表示されており、混乱が感じられる。

 この時期、明治4年に廃藩置県が行われている。

これは、藩を県に置き換えただけで、大小の県が300弱あったらしい。

その後、県の統廃合を繰り返し、規模を適性化目指している。

明治5年には大区小区制を実施するがうまくいかず、明治22年の町村制になっていく。

近代的な地方自治体を作っていくために、試行錯誤を繰り返していた時期だったように思われる。

 

我孫子へ行く機会があったので、我孫子市立図書館に寄った。

我孫子の古い地図はあるかなと思って、探してみた。

我孫子宿」という、2万分の1の地図があった。

参謀本部陸軍部測量局の作成となっている。明治13年測量同17年製版同20年9月28日出版である。

内容は、明治13年測量のフランス式彩色地図を明治16年にドイツ式一色地図に変更になったのにあわせて、置き換えたように思われる。

フランス式彩色地図と比べて、変わっているところ。

 

① 彩色地図はA3縦型だったが、それを横に二枚並べたA2くらいの大きさになっている。

我孫子は、右の端っにあって柏がほとんどなのに、地図のタイトルは「我孫子宿」である。

この時点では、柏よりも我孫子の方がはるかにネームバリューがあったのかも知れない。

 

② 土地利用の表示が漢字を使った文字表示だったのが、地図記号を使っている。

 

③ 地名や神社仏閣の名称の表示が、手書きではなく活字体になっている。

不揃いな気もするので、活字そのものではなく、活字体を模したレタリングかも知れない。

 

④ 神社名の表示が祠に統一されている。

香取神社が香取祠、香取社が香取祠のように。

 

保管してあったのは、白黒コピーだったので断言できないが、一色地図だと思う。

古地図が発行された明治20年には、まだ「宿」が生きていた。

 

 

 

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