「手賀沼は印旛郡?」で、沼のまわりは、村しかないように書いた。
周辺をよく見ると、町はあった。
明治11年に「郡区町村編制法」が制定され、
「府県ノ下郡区町村トス」となっており、町か村しかないように思われる。
ところが、宿と駅がある。
宿は、江戸時代の宿場である。
駅は律令制の駅家のことで、読みかたは「えきか/うまや」である。
うまやという読みからわかる様に、駅馬の用意が大きな役割だったと思われる。
その言葉が、まだ生きていた。
駅と宿が、同時期に作成された地図の中で混在している。
その後、明治22年町村制が施行された際の資料を見ると、
例えば、松戸町が発足した際、その前身として
となっているが、我孫子町ではその前身として我孫子宿と表示されており、混乱が感じられる。
この時期、明治4年に廃藩置県が行われている。
これは、藩を県に置き換えただけで、大小の県が300弱あったらしい。
その後、県の統廃合を繰り返し、規模を適性化目指している。
明治5年には大区小区制を実施するがうまくいかず、明治22年の町村制になっていく。
近代的な地方自治体を作っていくために、試行錯誤を繰り返していた時期だったように思われる。
我孫子の古い地図はあるかなと思って、探してみた。
「我孫子宿」という、2万分の1の地図があった。
参謀本部陸軍部測量局の作成となっている。明治13年測量同17年製版同20年9月28日出版である。
内容は、明治13年測量のフランス式彩色地図を明治16年にドイツ式一色地図に変更になったのにあわせて、置き換えたように思われる。
フランス式彩色地図と比べて、変わっているところ。
① 彩色地図はA3縦型だったが、それを横に二枚並べたA2くらいの大きさになっている。
我孫子は、右の端っにあって柏がほとんどなのに、地図のタイトルは「我孫子宿」である。
この時点では、柏よりも我孫子の方がはるかにネームバリューがあったのかも知れない。
② 土地利用の表示が漢字を使った文字表示だったのが、地図記号を使っている。
③ 地名や神社仏閣の名称の表示が、手書きではなく活字体になっている。
不揃いな気もするので、活字そのものではなく、活字体を模したレタリングかも知れない。
④ 神社名の表示が祠に統一されている。
香取神社が香取祠、香取社が香取祠のように。
保管してあったのは、白黒コピーだったので断言できないが、一色地図だと思う。
古地図が発行された明治20年には、まだ「宿」が生きていた。