私は、姓氏や苗字とか地名とかが、とても気にかかるところがあって、すぐに調べないではいられなくなったりする。
ここで言う国名は、世界の国々の名前ではなく、 日本の律令制に基づいて設置された地方行政区分である令制国(りょうせこく)や律令国(りつりょうこく)の国名である。
今回は、明治初期に作られた「迅速測図地図」というのに興味を持って見てるうちに、葛飾郡、印旛郡、相馬郡などや下総国を調べるようになったのがきっかけでした。次々と、興味深いことがみつかりました。
令制国が成立したのは、大宝律令が制定された大宝元年(701年)である。奈良時代には、大きな改廃がなされたが、その後平安時代から江戸時代までのあいだはほとんど変更がない。
明治維新により、明治元年(1969年)に、陸奥国の五分割、出羽国の二分割、北海道11カ国の新設があった。陸奥国は、陸奥国、陸中国、陸前国、磐城国、岩代国の5カ国、出羽国は、羽前国、羽後国の2カ国であり、北海道は、渡島国、後志国、胆振国、日高国、石狩国、天塩国、北見国、十勝国、釧路国、根室国、千島国の11カ国である。
しかし、国司が廃止されたため行政的な地理区分の意味はなくなった。江戸時代にあった大名や旗本が、肥後守ーーーや上総介ーーーという名乗りはあり得なくなったのだ。
令制国数は、68カ国であった。現在の都道府県数と、そこまで大きな差はない。
いろいろやってみて、やっぱり自分の住む千葉県と隣県である茨城県について調べる必要を感じた。
令制国の成立した頃の、千葉県と茨城県は一体として考えた方がいいようである。
上総国と下総国は、令制国以前の国がそのまま令制国となっている。
安房国は、阿波国、長狭国、須恵国、馬来田国、菊麻国、伊甚国、上海上国、武社国、下海上国、千葉国、印波国の11カ国を統合してできた。
常陸国は、茨城国、筑波国、新治国、久自国、仲国、高国(多珂国)、道口岐閉国の7ヵ国を統合してできている。
この国数の多さはどういうことか考えてみる。中央の勢力が充分に届いてないような地方は、広い範囲に国数は少ない。たとえば、陸奥国とか越国だ。
ということは、国数が多いということはそれだけ中央の勢力が浸透していたということではないだろうか。
千葉県と茨城県は、一体として考えた方がいい、理由は「香取海」があったからである。
当時、下総国と常陸国のあいだには、霞ヶ浦、印旛沼、手賀沼を全部含む巨大な内海があった。著者名も書籍名もはっきりとは覚えてないが、そういう本を読んだことがあった。
ウィキペディアでは、こうなっている。
香取海(かとりのうみ)は、古代の関東平野東部に太平洋から湾入し香取神宮の目前に広がっていた内海を指す。江戸時代前まで下総・常陸国境に存在し、鬼怒川(および小貝川・常陸川)が注いだ。現在、利根川が流れる。
そういうわけで、香取神宮も鹿島神宮もこの香取海に臨んで建てられていたのだ。
かつて、香取神宮や鹿島神宮のような神宮を名乗るものが、どうして千葉県や茨城県にあるのだろうと不思議に思っていた。
神宮を名乗るのは、「日本書紀」では、伊勢神宮、石上神宮、出雲大神宮だけである。それが、平安時代に成立した「延喜式神名帳」では、大神宮(伊勢神宮内宮)、鹿島神宮、香取神宮になっている。
いったい、この間に何があったのだろうか。
考えてみると、やっぱり中臣氏藤原氏の存在しか考えられない気がする。中臣氏藤原氏が、権力の中枢にいたからである。
鹿島神宮と香取神宮を調べてみると、どちらも神職は在地の中臣氏と中央の大中臣氏が担っていた。しかも、中臣氏が奈良に藤原氏の氏社の春日大社を創建する際に、鹿島から武甕槌命(第一殿)、香取から経津主命(第二殿)を勧請した。
鹿島神宮と香取神宮はともに、それぞれ常陸国鹿島郡、下総国香取郡を全郡神領としていた。
中臣氏藤原氏の本拠地といっていい存在だった。
安房国の名前が阿波国とつながるように、千葉には白浜、勝浦のように中央と海でつながっていたことを裏付けるものが残っている。
こいうことは、歴史の時間に習わなかったな。
はるか昔のこと、ああだこおだと言ってもしょうがないけど、面白いなあと思ってるうちに時間は過ぎてゆく。
* 「香取海」という内海の存在を知った書籍が気にかかって、図書館へ行って探した。見つかったので、もう一度借りてきた。
「常総内海の中世 地域権力と水運の展開」 千野原靖方 著 崙書房出版 2007年