晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

森林鉄道の時代

人間の記憶は、他の何かと細い糸で繋がっているようだ。

ひとつ引っ張り出すと、それに繋がった何かも引っ張られて姿を現す。

ものごとは、常に他のなにかと繋がっている。

記憶の奥底に積もっていたものが、何かを思い出そうとした途端に動き出す。

 

先日、長男に誘われて大宮の鉄道博物館に行った。私は、鉄道マニアではない。でも、現物の車両が36両もあり、素晴らしい展示だった。また、ゆっくり見たいものだと思った。

かなり、行き当たりばったりで見てたけど、ちゃんと順を追って説明をよく読みながら見たらすごいだろう。当日は、孫娘がいっしょだった。

 

鉄道つながりで、いろんなことが思い出された。

 子どもの頃、バスで国鉄の駅まで行ってそこで汽車に乗って大館まで行ってた。奥羽本線は、「汽車」だった。蒸気機関車だった。

学生時代に、北海道へ行った。青森から青函連絡船で函館へ行った。札幌行きの函館本線はまだ蒸気機関車だった。

卒業年度に、九州へ行った。鹿児島本線もまだ蒸気機関車だった。トンネルで、みんないっせいに窓を閉めたのを覚えている。閉めないと、車両中が煙で大変なことになった。

たしか東京オリンピックの頃に東海道新幹線ができている。それから10年くらい経っているはずだが、全国的には電化にはなっていなかった。

 

そして、もっとさかのぼると我が家の真ん前に線路があり、鉄道が通っていた。鉄道といっても「森林鉄道」というかわいい鉄道だったけど。だから、一番近い家が、なんでも売ってる商店だったが、線路を越えて行ってた。バスが開通するずっと前の時代から、森林鉄道は走っていた。

森林鉄道は、「森林から生産される木材を搬出するために設けられた産業用鉄道」であるので、国有林があるようなところには、全国にあった。あくまで木材搬出用だったので、連結していたのは貨車だけで客車はない。子どもたちは、「ガソリン」と呼んでたけど、ディーゼル機関車だったと思う。

軌間は、特殊狭軌といわれる762mmである。ちなみに、日本の在来線は、狭軌の1067mmであり、新幹線は標準軌といわれる1435mmである。

標準軌は、19世紀にイギリスで採用されていた規格である。明治時代、日本も標準軌を採用しようとしたが、コストの問題で狭軌を採用したらしい。

新幹線計画においては、高速に対する安全面の点で標準軌が採用されたのだろう。

 

私の育ったところは、白神山地田代岳の麓の町だった。秋田県北部を東から西に流れる米代川の支流岩瀬川が北から南に流れておりその流域に集落があった。岩瀬川上流には広い国有林があり、その木材を運搬するために森林鉄道が建設されたのである。白神山地の東部にあるが、国有林として秋田杉の植林が進められた、そのために世界遺産の地域には含まれていない。

岩瀬林道       14100m  1925年開設 1966年廃止

岩瀬林道 目名市支線 5340m    1911年開設 1953廃止

岩瀬林道 繋沢支線  7710m     1916年開設 1963廃止

岩瀬林道 平戸内支線 4545m    1930年開設 1967年廃止

岩瀬林道 内町支線  8060m    1930年開設 1969年廃止

岩瀬林道 大川目支線 16478m   1917年 1966年廃止

(支線はいくつかの分線を持つ)

支線の名前は、岩瀬川の支流の名前である。懐かしい名前だ。

目名市沢は、学校のあった集落から隣町の花岡へ続く県道沿いに流れる支流である。

繋沢と内町沢は、最上流の集落からの支流で、よくなべっこ遠足に行ったところ。

平戸内沢は、やはり最上流の集落の手前からの支流ですぐに鉄橋だった。父の炭焼小屋があった。

大川目沢が、岩瀬川の本流で遡ると、すばらしい糸滝や五色滝があり、田代岳の登山道に至る。

この各鉄道線の開設廃止の状況を見ると、それぞれの山林の木材をどのように搬出していたかがわかる。

自動車の発達と林道網の充実により、1975年に本州最後の森林鉄道が廃止された。しかしその後、観光面で評価されて復活したところが何ヵ所かあるらしい。

 

流域の集落は農業を主としていたが、農業をしながら林野庁の出先の営林署に勤めて国有林の管理の仕事に従事するものも多かった。私の母親の兄や姉の夫も営林署に勤務していた。

上流の隣り村に、母の姉が嫁いでいたが、その家のすぐ近くに森林鉄道の停車場があった。そのまん前に製材所があったからである。木材のための駅だった。

森林鉄道は、私が中学生の頃に廃止になった。森林鉄道からトラックの時代になっていった。

営林署の、存在感はとても強かった。毎年冬に小学校中学校で校内スキー大会をやっていたが、営林署の叔父さんお兄さん達が、運営の中心になってサポートしていた気がする。

 

森林鉄道の終着駅のある最も上流の集落は、田圃がなく畑だけという、営林署の関係の村だった。

私が、郷里を離れた後、多目的ダムが建設されることになった。1977年着工、1991年完成。

発電所でもあるみたいだけど、常時出力540kwってどれぐらいかな?

「山瀬ダム」ロックフィル式ダム。

ダム湖は「五色湖」 10km上流にある五色の滝にちなんで命名されている。

終着駅のあった集落は、ダムの底に沈んでいる。

 

 

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