晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

精密機械としての人間

江戸時代には、運動することは寿命を縮める行為とされていたらしい。

だから、よっぽどでないと、走ったりしなかったそうだ。

運動を、趣味とするなどもってのほかだった。

 

心臓という臓器は、一定の心拍数で寿命にならるらしいという考え方がある。哺乳類の心臓は心拍数が、20億回が寿命という説を唱えた学者の方の本が出て評判になった。

これは、生物学者の元川達雄先生が、“いろんな種類の哺乳類を調査したところ、寿命にいたるまでの心拍の数は身体の大きなゾウも、小さなネズミもほぼ一定で20億回だった”という、内容を「絵ときゾウの時間ネズミの時間」という本に書いたところから来てる。

20億回が寿命として、人間で計算すると50歳が寿命になる。今の、平均寿命からして同じ哺乳類でも霊長類は20億回ではないのだから違うだろう、といことになってるようだ。

心臓に寿命があるということは、心臓は精密機械であるということだろうか。

人間が精密機械のように部品で組み立てられてるのだとすると、江戸時代の人たちの考え方も、あながちおかしなものでないかもしれない。

人間が一生のあいだにできる運動の総量に限度があると考えれば、無駄に運動すればそれだけ寿命を縮めることになると考えることは、それはそれで理にかなっているし、不思議な考え方ではない。

 

たしかに、運動をすると心拍数が多くなる。しかし、スポーツ心臓というのがあって、 ハードな運動を長期にわたってしている方は、運動時の心拍数に心臓が耐えられるよう鍛えられ、一度に多くの血液を送り出すことができるようになり、平常時は一般の人よりも心拍数が少なくて済むようになるのだという。

心臓が効率的に働くようになったということだ。

そうすると、トータルで考えたら、必ずしも運動すると心拍数が多くなるともいえないかもしれない。

 

心臓に寿命があるとしても、メンテナンスの状況などによって寿命も左右されるだろう。

適度な運動は、心臓にとっていいメンテナンスになるかも知れない。

単純に、心拍数だけでは計算できない。

 

私は、運動するにしても、思いつきで、ちょこちょこ走ってるくらいなので、一回の運動で心拍数がどの程度増加したのか計算しても大したことはないだろう。

運動による寿命短縮を心配する必要ないだろう。

マイペースを旨とするので、走るたびにドンドン抜かれていく。

今まで、人を追い抜いたのは数えるほどである。

抜いていった人の脚を見ると、私の脚とはまったく違っている。

無駄な筋肉がついていない。

毎日、走ってるんじゃないだろうか。

 

走るという行為は、1日に何時間もできるものではない。

一般の人だったら、せいぜい1時間頑張っても2時間というところかな。

それを、毎日続けるとなるとなかなか大変なことだ。

一般じゃない人、走るのが仕事のような運動選手は、どれぐらい走るんだろうか。

適度な運動を越えてしまったら、体のメンテナンスどころではなくなりそうだ。

寿命をむしろ延ばすような適度な運動があるとすれば、おもしろい。どれくらいが適度か研究している人は、いるんだろうか。

 

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