晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

きりたんぽ

鍋物の季節である。

スーパーにはいろいろな鍋物のスープと食材が並んでいる。

私は、秋田出身なので、「きりたんぽ」である。

今でこそ、どこのスーパーの売り場にも真空パックの「きりたんぽ」と「比内鶏スープ」があるが、かつてはどこにも売ってなかった。

どうしても食べたくて、母親ときりたんぽを作ったことがある。

つぶしたご飯を、菜箸に巻きつけて、ホットプレートで焼いてみた。

「きりたんぽ」は、秋田県北部の郷土料理である。あくまでも、家庭料理なので、お店では食べたことがない。

食材は、きりたんぽと鶏肉であるが、そのほかは家庭によって違うと思う。我が家は、牛蒡と芹だった。今は、たいてい舞茸などが入っているが、きりたんぽをつくる冬には、キノコ類は塩漬けくらいしかなかった。今は、キノコ類はいつでも手に入れられる。

芹を探して、スーパーをいくつも回ったことがある。芹がどうしても見つからなかったことがある。芹の入ってないきりたんぽは「きりたんぽ」ではなかった。

 

郷里の大館市では、きりたんぽをつくる会社がいくつもあるようだ。比内鶏の名前になっている「比内町」は、合併で大館市になっている。

当時は「きりたんぽ」で使う鶏肉は自家調達だった。その辺を走りまわっていたニワトリが使われた。だから、「きりたんぽ」は、めったに食べられないご馳走だった。

人がたくさん集まる機会に作られていた。杉の細い棒につぶしたごはんを巻きつけたものをいっぱいつくる。これが、たんぽだと思う。鍋に入れるために、たんぽを斜めに切る。それが、「きりたんぽ」。言ってみれば、焼きおにぎりみたいなものなので、鍋に入れてもくずれにくい。

杉の細い棒は片方が尖らしてあって、それを囲炉裏の灰に刺して炭火で焼いていた。

それは、おじさん達のしごとだった。

おじさん達が世間話をしながら、たんぽを刺し変えて向きを変えていた。

わたしは、それを隣に座って見ていた。

 

「きりたんぽ」は、手間と時間がかかる。手早くすぐに食べたい時は、「だまこもち」にする。きりたんぽのかわりに、つぶしたごはんを、だんごにして鍋に入れる。焼いてないので、くずれやすい。

 

できた「きりたんぽ」は大勢で、どんぶりで食べた。

一冬に、一回か二回くらいしか食べる機会はなかったと思う。

だから、今でも食べたいな、と思う。

 

それとは対照的に、お餅はあまり食べたいと思わない。

父親が出稼ぎで不在だったので、私が母親と餅を何臼かついた。

冬の間、お餅を食べていた。

言ってみれば、嫌になる程食べたので、今は苦手である。

 

「きりたんぽ」は、誰でも知っている料理になった。

どこでも売っているようになった。

50年前とは、ずいぶん変わった。

 

 

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