晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

夜行列車

夜行列車に座って、車窓の外を眺めている自分がいる。 

 

高校三年の三学期、大館駅から夜行列車に乗った。

窓の外は、真っ暗だった。

ひとりで、旅行したことなんてなかった。

受験のために、出稼ぎに出てる父がいる横浜に向かった。

父が、とても授業料の安い学校があると教えてくれたのだ。

その学校を、受験するためである。

翌朝、上野駅に着いた。

父が迎えに来てくれていた。

父は、横浜の星川というところに住んでいた。

会社の宿舎になっているアパートに住んでいた。

 

受験は、翌々日だったので、1日ひとりで部屋にいた。

テレビを見てたら、浅間山荘の赤軍派と警察の攻防を中継していた。

受験日は雪が降っていたな。

私は、理数系がまったく不得意だった。

なので、受験できる学校は限られていた。

文系の三科目だけで受験するわけだから。

 

結局、この学校に入学することになる。

今考えると、不思議なことがある。

この時期、2月だと思うが進路がまったく決まってなかった。

滑り止めみたいなのも受けてなかった。

どうするつもりだったのだろう。

たぶん、3月に入学が決まり、母と二人で大館を引き払い、横浜に引っ越している。

父は、新しい仕事と住居を用意してた。

なんと、手際がいいことだろう。

 

確かに、授業料は安かった。

夏休みにアルバイトしたら、2ヶ月で、年間の授業料支払分を稼げたのだから。

日本でも何番目かに安かったらしい。

私立だったが、高いところは何倍もしていた。

 

受験といえば、思い出すことがある。

高校受験のころ、私はまだ生まれ育った村に住んでいた。

秋田では、夏休みは短く、冬休みが長い。

雪が多いのだから、そういうことになる。

冬休みの朝、起きるとテレビで中継をやっていた。

東京大学安田講堂で、やはり全共闘の学生と機動隊の攻防だった。

あれは、何日か続いたんだろうか。

その年は、東京大学の歴史上、唯一入学試験が中止になった。

 

横浜で、4年間の学生生活を送った。

入学早々、内ゲバで死亡事件、そういう時代だった。

4年間のうち、ちゃんと机に座って試験を受けたのは2年間だ。

あとは、試験前になると学内封鎖されて、レポートを郵送してた。

 

卒業時期になって、秋田へ戻ることを考えた。

Jターン目指して、受験もしたが、面接で駄目だった。

そして、縁あって、それまで足を踏み入れたことのなかった千葉にやってきた。

秋田で嫁いでいた上の姉は、初孫は抱いたが、かなり若くて亡くなった。

 

いろんな、ことがあって、現在に至っている。

父の時代、私の時代、息子たちの時代、同じように時は流れても、

見える風景はそれぞれに違うのだろう。

 

 

 

seiko-udoku.hatenadiary.jp

seiko-udoku.hatenadiary.jp

seiko-udoku.hatenadiary.jp

seiko-udoku.hatenadiary.jp

seiko-udoku.hatenadiary.jp

seiko-udoku.hatenadiary.jp

seiko-udoku.hatenadiary.jp