60歳で定年のあと、1年間再雇用で勤務して退職した。
長年の念願だったフリーな生活になった。
それから早いもので、6年目である。
その間に、いろいろなことがあった。
初めて家族で、海外旅行に行った。
初孫が生まれて、おじいさんになった。
親子4代で、秋田の母の姉さんに会うために旅行に行った。
母が入院して、一年後に亡くなった。
妻の母が入院したが、コロナ禍のため面会できなくなった。
妻の母が入院している病院は、自宅から歩いて2、3分のところなので、毎日会いに行っていた。2月から面会謝絶となり、会うことができなくなった。
誕生日なので顔を見たい、とお願いしたが、立ち入りはできないのでと、断られた。
病院の事情はよくわかるので、納得するしかない。
私の日々の生活については、このブログでいろいろ書いてきた。
サイクリングやランニングそして散歩。
寺社仏閣、城址城郭、図書館めぐり。
その時の気分と天気で、出かけることが多い。
妻は、週何日かは仕事や友人と出かけることがある。
妻は、私よりも忙しい人である。
私が一人留守番という日が、私の出かける日になる。
二人の息子と妻と四人家族なので、食事の献立が私の重要な問題である。
遠い店への買い出しは妻と行くが、日々のコマコマした買い物は私がやる。
料理は好きな方なので、楽しんでやっている。
結婚して、妻が揚げ物は苦手だというので、揚げ物は私が担当してきた。
おかげで、だいぶ上達したと思う。
天ぷらやフライや唐揚げは、中華鍋でやる。
結婚してすぐに買った両手の中華鍋は、30年以上愛用している。
年季が入っていて、一生ものだと思う。
中華鍋は、揚げ物にはとても使いやすい。炒め物にも最適だ。
もしかすると、私は調理師になっていたかもしれない。
もしもの話をしても、しょうがないが。
私は、就職が決まって千葉にやってきた。
千葉への採用通知は、卒業式の直前に届いた。卒業式からそのまま卒業証書のコピーを提出に行った記憶がある。
その時期に採用通知ということは、誰かが採用辞退したのだろう。
私は、その時期で就職先が決まっていなかった。
1年間アルバイトをやって、また採用試験を受けるつもりでいた。
そして、何を考えたのか、私は調理師学校へ入学しようとしていた。アルバイトしながら通うつもりでいた。
たしかに、食堂でアルバイトしたことはあった。
でも、今考えると4年間何を勉強してたんだ、ってことである。
自分がやってることは、時々そんなことがある。何を、考えていたのだろう。
話は変わるが、私の父は、炭焼きをやっていた時期がある。
姉と二人で、父の炭焼き小屋を訪ねたことがある。
ずいぶんと山道を歩いて、着いた炭焼き小屋で父は寝泊まりして仕事していた。
炭焼きは、木炭を作ることである。
木炭は、樹木を不完全燃焼させることで作ることができる。
炭焼き窯に、樹木を詰めて不完全燃焼させる。煙は出るが、炎が出ないように夜もつきっきりで面倒を見る。燃えてしまったら、灰になってしまう。
父は、そこで何日も、自分で自炊して寝泊まりしていた。
その後、父は何年も出稼ぎ生活をやっていた。やっぱり、自炊をしていた。
だから、父はなんでも自分でやる人だった。
世の中には、男子厨房に入らず、みたいな人もいる。
私は、そういうところでは育たなかった、ということだ。