晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

綱島温泉は東京の奥座敷

学生時代、東急東横線の沿線に住んでいた。

東急東横線は、東急電鉄が運行する渋谷駅から横浜駅までの路線である。私が、利用していた当時は、横浜からさらに路線は延びていて桜木町駅が終点だった。

日吉駅付近に1年、隣の綱島駅付近に3年住んでいた。

綱島駅から徒歩10分ぐらい。

そこから、3、4分歩くと、鶴見川の土手に出ることができた。

眺めが良くて、気持ちいいところだった。

ときどき、散歩に行っていた。

でも、当時日本で一番汚染された川だった。

 

アパートにはお風呂が付いてなかったので、駅近くの銭湯に通っていた。

その銭湯のお湯は、赤黒いようなお湯だった。そういうものには、慣れていなかったので、はじめのうちは気持ち悪かった。

これは、「ラジウム温泉」というものだったらしい。

その銭湯は、休憩場のような広い和室があって、どうも昼はお年寄りたちが歌をうたったり、宴会のようなことをしているらしかった。

後になって知ったのだが、綱島というところは、かつては「東京の奥座敷」と言われる大温泉地だったという。

大正時代にお湯が出て、昭和初期には駅名も「綱島温泉駅」で温泉宿70軒、芸者100人以上だったと言うからすごい。

 

しかし、1964年の東海道新幹線が開通してから、状況が変わってしまったらしい。

熱海方面に客を取られてしまって、旅館も激減する。

私が、住むようになったのは1973年なので、旅館はチラホラあるかなくらいだった。

もう、「東京の奥座敷」の面影はなかった。

綱島は、渋谷からたしか40分くらいで行けたと思う。

浅田美代子さんが、子ども時代の思い出を語って、

綱島温泉によく行った、みたいなことを言ってた。

東京の人たちにとっては、身近な温泉だったんだろう。

銭湯の名前が、「東京園」だった。

 

就職が決まって、千葉の我孫子市まで行くことになった。

卒業式の直前に決まったので、アパートはなんとか決まったが、引っ越しが着任に間に合わなかった。

最初の1週間は、横浜から我孫子まで通った。東京を越えなければならない。

東急東横線綱島駅から中目黒へ、中目黒から都電の日比谷線で北千住、北千住から常磐線我孫子駅に到着する。

ところが、我孫子駅から勤務先までバス路線がない。

職場のみんなは車通勤だった。30分近く歩いた。

その後、近道になる道ができたけど。

まったく何もわからない新任で、定時で帰してもらったとはいえ、今考えるとよくやったものだと思う。

それが、スタートだったな。

 

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