晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

1月1日

私は、秋田で育ったので正月は雪の中だった。

雪が多いので、1月20日くらいまで冬休みだった。そのかわり、夏休みは短かかった。

子どもの頃のことを考えていたら、1月1日は登校日だったことを思い出した。

でも、小学校低学年くらいまでだったような気がする。

全校で、校長先生の話を聞いて、紅白のお饅頭をいただいて帰ったと思う。

そのほかは、あまり記憶がない。

雪の山道を学校まで30分くらい歩いて、行って、帰ってた。

 

正月の登校日って、いつ頃まであったのか、気になって調べてみた。

そうしたら、谷村新司さんが、ラジオで1月1日が登校日だったと話してるのを聞いた、という投稿があった。

谷村さんは、私より5歳年上で、大阪で育っている。

私は昭和35年に小学校に入学しているが、谷村さんは昭和30年頃に大阪で小学校に入学していることになる。

正月の登校日は、都道府県によって違うみたいだが、早いところで昭和20年代、遅いところでも昭和40年頃には、なくなったようだ。

戦前は、特別な儀式のための登校日だったらしいが、私の頃はふつうの登校日だった。

 

正月は、1日は出歩くものではないと言われてたので、静かにしていた。

2日に、父の実家と母の実家に年賀のものを届けるのが、末っ子の私の役目だったのでお使いに行っていた。

行くと、お年玉をもらえるので、毎年せっせと出かけていた。

私の田舎では、お年玉をあげることを、「馬っこ乗せる」という。

馬に乗せることが、どうしてお年玉をあげることになるのか、よくわからない。

「うちは、痩せ馬だから。」と言って、くれたりした。

もともと、日本では正月には子どもにおもちゃをあげる風習があったようなので、馬乗り遊びをしてあげる代わりに、おもちゃ代としてあげるということだったのかもしれない。

 

母の実家の道路向かいには、なんでも売ってる商店があった。万屋(よろずや)といわれる、今のコンビニの原型みたいなものである。

だいたい、どの村にも一軒くらいはあった。

お年玉は、そういうところで使っていた。

食べ物とかおもちゃが当たるクジがあって、人気があった気がする。

 

小学校高学年くらいになると、バスに乗って街まで出掛けて買い物をした。

プラモデルは、どこで買ってたんだろう。デパートかな。

文庫本は、又久書店という本屋さんは覚えている。

音楽に興味を持ち始めて、ウクレレを買ったこともある。

楽器屋の記憶はないので、これもデパートかもしれない。

 

田んぼの真ん中にあった我が家は、冬は真っ白な雪景色の中だった。

そこで、凧揚げをやっていた。

まわりには、じゃまになるものが何にも無かったから、気持ちよかっただろうな。 

 

  

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