晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

特定地方交通線と第三セクター

恥ずかしながら、今になって「第三セクター」の意味を理解した。

もちろん、「第三セクター」が、公民が出資経営する企業であることは知っていた。

なぜそれが、「第二セクター」ではなく、「第三セクター」なのかということである。

何のことはない、私企業が「第二セクター」なので、公民の出資経営が「第三セクター」だった。

でも、国際的には「第三セクター」は、NPOや市民団体などの非営利団体のことであるようだ。

そのために、日本では、このような団体を「第四セクター」と呼んでるようだ。

 

第三セクター」ということばが、マスコミなどで使われるようになったのは、日本国有鉄道いわゆる国鉄が、分割民営化することになったことからである。

私は、国鉄の分割民営化のために、そのために赤字ローカル線を切り離して、整理する必要があった、というふうに考えていたのだが、どうもそうではないらしい。

国鉄再建という観点からの、赤字ローカル線対策であり、分割民営化とは全く別の政策だった。

鉄道事業は、国の国策として行われたので、日本の隅々まで鉄道網を広げる必要があった。だから、採算の取れない路線が多く存在していた。体の隅々まで、血管が通っているように、鉄道網も日本列島の隅々まで巡っていた。でも、それを支えるほどの人口が存在しなかったところが多かったのだと思う。

赤字ローカル線は、国鉄を再建するために解決しなければならない問題だった。

 

1968年に、国鉄諮問委員会は赤字83線を廃止すべきとの意見書を出した。

 その時の選定基準は、営業キロ100mk以下、定期客の片道輸送量3000人以下などであった。しかし、十分な成果を上げることができなかった。

1980年の「国鉄再建法」によって、幹線と地方交通線に分類された。さらに、地方交通線のうち、旅客輸送密度4000人未満、 なおかつ貨物輸送密度4000トン未満の鉄道路線は、「特定地方交通線」とされ、バス転換が適当とされた。

 

「第一次廃止対象路線」は、1982年度末までに廃止すべきとして、40路線(729.1km)が選定された。

最終的には、第三セクター鉄道への転換されたのが16線、私鉄への転換が2線、バス転換が22線である。

さらに、「第二次廃止対象路線」として31線が、「第三次廃止対象路線」として12線が選定された。

路線廃止にあたっては、地元市町村に対して転換交付金を交付したり、転換後5年間は、バスや鉄道事業者に対して赤字の補填を行った。

 

千葉県においては、木原線が第一次廃止対象となった。大原駅と上総中野駅を結ぶ26.9kmの路線であり、輸送密度は、1815人/日であった。

1988年、第三セクターいすみ鉄道に転換された。主要な株主は、千葉県34.20%、大多喜町15.17%、いすみ市14.28%、小湊鐵道5.58%、千葉銀行3.72%となっている。

このように、公民による第三セクターと言いながらも、圧倒的に公の比率が高い。もともとが、採算のとれない赤字路線だったので、廃止にしようとしたのである。

慢性的な、赤字経営が続いているようである。

 

特定地方交通線の廃止によって、設立された第三セクター鉄道は、全国で40社くらいあるようである。どこも、事情は同じようなものではないだろうか。

鉄道だけではなく、バスに転換したところだって、今のように車社会では路線維持が難しいんじゃないのかな。実際に、第三セクターの鉄道会社を作ったが、結局は廃線になってしまったところもあるようだ。

もともとが、採算取れない路線だったのだから。

鉄道やバスのような交通事業は公共的な性格のものだから、単に採算が取れるとか、とれないとかでやってはいけないことではないんじゃないかと思う。

赤字路線もあって、黒字路線もある。それで、全体でなんとかやっていければ、いいんじゃないかな。

赤字路線を切り捨ててしまって、黒字路線路線だけ残す。当然、採算取れる。

でも、切り捨てられた赤字部分は、そのうちにどうしようもなくなって、消えてしまう。

結果的には、国鉄民営化のための地ならしになってしまってる。

ほんとに、それでよかったのかな。

 

 

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