晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

忘れられない山

山と渓谷」という山岳雑誌があって、ずいぶん長く購読していた。

私が、購読していた頃は月刊で、かなり厚手の雑誌だったので、何年かのうちに本棚のうちのかなりのスペースを占めるようになった。

山岳雑誌は、他に「岳人」と「山と仲間」と「新ハイキング」というのがあった。

山と渓谷」は、昭和5年創刊という老舗で、今も山と渓谷社から発行されている。

「岳人」は、昭和22年創刊で、東京新聞から発行されていたが、今はモンベルブックスというところから発行されているようだ。アウトドアグッズのモンベルだと思う。

「岳人」は、夏山特集とか、面白そうなのだけ買っていた。

「山と仲間」と「新ハイキング」もかつては、書店に並んでいたが、最近は見かけない気がする。

 

山と渓谷に連載されたという、新田次郎の「孤高の人」という小説を、「単独行」ということばにひかれて読んでいたことがあった。

孤高の人」は、加藤文太郎という大正から昭和初期に、単独行によって数々の登攀記録をのこした登山家をモデルにした小説である。

加藤文太郎は、グループでガイドを雇って登山することが当たり前の時代に、ひとり粗末な装備で登山を続け「単独行」という著作を残した。

そして、1936年(昭和11年)1月、槍ヶ岳北鎌尾根の猛吹雪で遭難し、30歳の生涯を終えた。

単独行にこだわった彼の、最後の山行は単独ではなかった。

 

若かった私にとって、ひとりで山に登るということは、魅力のあることだった。

ひとりであることに、自分にとっての価値があったのだ。

山は、いろんな意味で、危険がつきまとっている。

天候や、登山道の選択、その他いろいろな状況判断。

「熊出没 注意」こんな看板があったりする。

鈴を鳴らすか、歌でも歌うしかない。

頼るもののない心細さ。

でもそれを、味わうことを楽しんでいたのだと思う。

そんな、頻繁にひとりで出かけていたわけではない。

忘れられない山旅の記憶がある。

 

今でもよく思い出すのは、北海道の山々を10日間くらいかけて歩いたことである。

北海道の山は、それまでも登ろうとしたことはあった。

この山行の数年前に、友人と羊蹄山に挑戦している。

羊蹄山は、蝦夷富士の別名を持つ円錐形の山である。北海道らしい広々とした開拓の村を登山口に向かった。農家の家先にあるタチアオイがきれいだったことが印象に残っている。

その時は、友人が登山途中に体調が悪くなり、登ることはやめて帰っている。

山行の対象に選んだのは、4つの山である。

暑寒別岳十勝岳斜里岳羅臼岳

当時はそれなりに、記録していたと思うが、今はかなり断片的な記憶である。

 

暑寒別岳は標高1492m、石狩平野北部に位置し、広い高層湿原である「雨竜沼湿原」を有する。

雨竜町の旅館を出て、バスに終点から林道を歩き、登山道に出るまでが長かった。

雨竜沼湿原近くの避難小屋に泊まる。焼酎のワンカップを登山前に仕入れていたので、それを飲んで夜を明かす。

雨竜沼湿原は、「北海道の尾瀬」といわれるだけあって、広々ととした開放感のある高層湿原だった。

 

十勝岳は標高2077m、北海道中央部に位置し、十勝岳連峰の主峰であり、いまだ噴煙をあげる活火山でもある。

美瑛のビズネスホテルを出発する。

登山時も噴煙を上げていたが、入山は可能だった。

縦走路を、富良野岳方面に南下する。

上ホロカメトック避難小屋に到着し、ここに泊まる。

記憶では、木造でしっかりした避難小屋だった。

翌朝、富良野岳には登らず、十勝岳温泉方面に下山する。

 

斜里岳は標高1547m、知床半島の付け根に位置する成層火山であり、オホーツク富士、知床富士ともいわれている。

登山口にある清岳荘から、登り始める。

頂上からの展望は、道東一円がみわたせる、すばらしいものである。

下山後、斜里町のホテルに泊まった。

名前は、記憶では「巴旅館」である。

旅館となっているが、客室は洋室だった。

木造の部屋で、古びてはいるがベッドもテーブルも木造で、食事は部屋で食べられた。

まるで、自分が明治時代の文豪にでもなった気分だった。

今まで、こんな体験をしたことがない。後になって、いろいろ調べて見たが今はもうなくなっているようだ。

 

羅臼岳は標高1661m、知床半島の中央部あり知床火山群の主砲であり、成層火山の上に鐘状火山を乗せたような形である。

羅臼の町から少し離れたキャンプ場に幕営した。その頃は、ツェルトといってた個人用のテントを張った。

翌日の登りは、沢のような登山道で足元が悪くつらいものだった。

展望が開ける羅臼平で休憩して、頂上に立つことはあきらめて、下山した。

キャンプ場のすぐそばにある、熊の湯という無料の露天風呂で汗を流した。

羅臼の町まで下り、宿を探す。

紹介してもらった宿で夕食を食べようとしてたら、カニがあります、ということだったので注文した。

でっかいカニを、ひとりで食べた。

翌日、朝早く羅臼を出発して、一日中列車に乗って夕方に函館に着いた。

北海道は、やっぱり広い。

 

今だったら、飛行機を使って、もっと楽に行って来れるだろう。

夜行列車と青函連絡船は、必須だった。

この頃の、北海道は、タクシーにも冷房が無かったし、十勝岳に登る前に泊まった美瑛のビジネスホテルにも冷房が無かった。

もう、1980年代になってたはずである。

この時の流れは、何と言ったらいいのだろう。

 

seiko-udoku.hatenadiary.jp

seiko-udoku.hatenadiary.jp

seiko-udoku.hatenadiary.jp

seiko-udoku.hatenadiary.jp

seiko-udoku.hatenadiary.jp