何ヶ月か前に、隣の市の図書館に行った。
その時に、ポスターが貼ってあった。
「本の世界は海である。」みたいな標語が書いてあった。
いいなと思ったのだが、正確なことばが思い出せない。
千葉県内の公共図書館の蔵書は取り寄せができますとあった。
図書館を歩いていて、自分は今までどれくらいの本を読んだんだろう、と考えてみた。
今までに、私がどれくらいの本を買ったのか。図書館でどれくらい本を借りたのか。
私は、本が好きな方の人だと思うが、それでもたいしたことはないような気がする。
図書館にある大量の書籍からしたら、ほんのわずかである。
世の中に、本当に本が好きな人がいる。本の虫のような人でも、たかが知れてる。
一生かけても、読み切ることはできないし、その必要もないだろう。
今までにどれだけの本が、この世に生まれてきたのだろうか。
その本の海を、人間は漂っているようなものだ。
私が出会えた本は、その海のわずか0.01%にもならないだろう。
私が、最初に本というものに出会ったのが、どういうものだったかは思い出せない。
ただ、小学生くらいの頃の、本の中の世界と自分のまわりの現実世界の境をすごくあいまいに感じていたことは、なんとなく記憶にある。
何か、ひとつのものに出会って、それがきっかけになって、また別のものに興味を持っていく。
その頃読んだ本で、今思い出せるのは、「十五少年漂流記」と「ロビンソン・クルーソー」そして「義経物語」。
そういうものがスタートになって、自分の世界を広げてきたのだと思う。
自分の興味でしか世界を広げることができないのだから、人はそれぞれに違った世界を持つことになるのだろう。
音楽もまた、私にとってたいせつなものである。
音楽もまた、膨大な作品がこの世界に生み出されている。
私が、今まで出会った音楽と言われるもの。
童謡、歌謡曲、民謡、カントリー、ブルース、ロック、ハワイアン、フォルクローレ、シャンソン、カンツォーネ、ファド、ポップス、ジャズ、クラシック、
私の記憶にあるものをあげただけで、こんなになった。
民謡だって、民族音楽と言われる世界各国のものがあるし、日本民謡だって、津軽民謡や秋田民謡、沖縄民謡、その他にも日本各地にそれぞれ違うものがある。
ロック好きだった私が、学生時代にジャズやクラシックを聴くようになった。
クラシックは、ベートーベンやドヴォルザークなどが、コンサートなども多かったし私の好みにあっていた。
そのうちに、シベリウスというフィンランドの作曲家を見つけて、好んで聴くようになった。
我が家には、三人の息子がいるが、クラシックに興味があるのは三男だけだった。
しかも、小学校の高学年くらいからバッハとかモーツァルトなどが好みだった。
私のとっては、バッハとかヘンデルは、古くさい、堅苦しいというイメージだったが、聴いているうちに、だんだんと変わっていった。
クラシック音楽の成り立ちが、なんとなく見えてくる気がした。
今、私がアルビノーニとかボッケリーニなどの古典的なのを好むのも、この辺から繋がっているかも知れない。
息子のおかげで、フランスのプーランクなどという不思議な作曲家も知った。この人は、クラシックらしくない音楽で、私一人なら絶対に出会うことがなかったと思う。
音楽の世界もまた、広い海のような世界である。
一人の人間が出会えるのは、ほんのひと握りだろう。
「ともだち百人できるかな。」って歌があった。
ほんとに、百人できたらすごいな。
子どもの頃、日本の人口はあと少しで1億人、世界の人口30億人って言ってた。
今は、日本は1億3000万人、世界は76億人だ。