これは、私の日本の歴史の勉強のための覚書です。調べたこと、考えたことを書きとめてます。
令制国というものに興味があって、気が向けば調べたりしている。
私は、秋田で生まれ育ったので、東北というところが日本の歴史の中で、いったいどういうものだったかが、ずっと気になっている。その割には、東北の歴史についての知識がない。
日本史の教科書にあった「前九年の役」とか「後三年の役」という言葉は知っていても、その前後の事情とか詳細については、わかっていない。
令制国というのは、8世紀の初めに大和朝廷が律令制を採用した時に、それまでの国造による国から移行した地方行政区分である。国造が世襲化していたので、国司という行政官を派遣するようになった。国司は、守、介、掾、目があった。
武蔵国とか下総国とか、旧国名などとも言われたりもする。66ヵ国又は68ヵ国あったようである。対馬国と壱岐国を、嶋として除外すると66ヵ国ということらしい。
これを調べていて、最も驚くのは制定後1000年以上にわたって、ほとんど手直しされずに使われていたことである。
律令制ができた頃の東北は、陸奥国と出羽国である。北海道は、まだ存在しない。
陸奥国は、東山道の常陸国から分割されてできているが、それ以前にあった国造は次のとおりである。
陸奥菊多国造、岩城国造、染羽国造、浮田国造、思国造、白河国造、石背国造、阿尺国造、信夫国造、伊久国造。
これを現在に置き換えると、茨城県北西部、福島県全域、山形県内陸部、宮城県中南部が、その領域であった。
出羽国は、北陸道の越国から出羽郡を分割し、さらに陸奥国の置賜郡と最上郡を加えて成立した。
こうして見てみると、東北北部の青森県、岩手県、秋田県は、まったく大和朝廷の支配の外にあったということになる。
いったい、どのような世界だったのだろうか。
記録では、陸奥側は「蝦夷」、出羽側は、「蝦狄」と書き分けているようだ。
蝦夷や蝦狄というのは、いったいなんなのかというのは、東北で育った私が、ずっと考えてきたことだ。でも、よくわからない。
秋田にはアイヌ系の地名が残っていると言われる。地名で言ったら、今住んでる東葛飾のあたりにもアイヌ系と言われる地名はある。
では、蝦夷とアイヌは、どのような関係になるのだろうか。調べて見ても、やっぱりわからない。
大和朝廷は、版図の拡大のため軍事拠点たる城柵を設置する方策をとった。それにともない国府も北上している。
陸奥国724年(神亀元)に多賀城(宮城県多賀城市)、759年(天宝宝字3)に桃生城(宮城県石巻市)がつくられた。
さらに、802年(延暦21)に胆沢城(岩手県奥州市)、803年(延暦22年)に紫波城(岩手県盛岡市)、812年(弘仁3年)に徳丹城(岩手県矢巾城)が設置されている。
一方で、出羽国が成立した頃、出羽柵は現在の山形県庄内地方にあった。
しかし、733年(天平5)には、雄勝郡を設置して、出羽柵を秋田村高清水岡(秋田市)に移している。
759年(天平宝字3)に、雄勝城を設置して、平鹿郡を置いた。翌年には、出羽柵は、秋田城に改変されることにより国衙機能を有するようになった。780年(宝亀11)には、出羽国の次官国司である出羽介が、秋田城介として常置されるようになっている。
804年(延暦23)に、秋田城が停止され、秋田郡が置かれる。
このあいだに、川辺郡、山本郡が置かれて、現在の秋田県中部まで勢力を延ばしているが、私が生まれ育った秋田県北部は郡制が施行されず、勢力範囲には入っていなかったようである。
このように、律令制とともに成立した陸奥国と出羽国は、平安時代初期には、岩手県及び秋田県までその軍事拠点を築いていった。
大和に帰服した蝦夷は、男女集団で全国に強制移住させられ、「移配俘囚」といわれる。
移配俘囚は、給付を受け、狩猟と武芸訓練を行い、国内の治安維持のための主要な軍事力に位置付けられた。俘囚の中から優秀なものを俘囚長に任命し、俘囚社会の刑罰権を与えた。
俘囚の武芸は、乗馬と騎射を中心としたものだったので、当時登場しつつあった武士に大きな影響を与えたといわれる。
陸奥国、出羽国に残った俘囚は、租税を免除され、食糧、布を給付される代わりに、特産物を貢いだ。
のちに大きな勢力となる安倍氏(奥州)は「俘囚長」を、奥州清原氏は「俘囚主」を、奥州藤原氏は「俘囚上頭」を称している。
俘囚つまり帰服した蝦夷の末裔を称する勢力が、その後陸奥出羽を支配していくことになる。
そして、貢租を怠ったとして、朝廷は懲罰のために兵を送ります。
この次のことは、次回までに調べてみます。