私にとっての恩師と言える人は、一人だけで他に第二候補はいない。
ということは、私はたまたま恩師と言える人がいただけである、ということも言える。
私にとっては恩師でも、恩師である先生にとっては、私はたぶん数え切れないほどの教え子のうちの一人だろう。
それでいいと思う。そういうものだと思う。
私にとってだいじな人である、ということがだいじなのだ。
なぜ、私にとってだいじかというと、私のターニングポイントにいた人だからだ。
私が、小学五年の時に担任として現れた。
五年の時、私は文芸クラブにいた。
六年になった時、野球部のマネージャーをやらないか、と話があった。
担任が野球部の監督で、1年間、マネージャーをやった。
主な仕事は、スコアブックをつけることだった。
他のスポーツのスコアブックは、見たことがないので比べようがない。
野球のスコアは、かなり複雑なものだった。
打者のボール、ストライク、ヒット、アウトを記録する。
ストライクも、空振りかどうか。
ストライクも、高めか低めか、難しかった。
ヒットも、ゴロかフライか、どの野手のどの位置に転がったか、飛んだか。
アウトも、同様である。
塁にいる走者が進塁したら、誰のヒットや打球で進塁できたか。
書き始めたら、キリがない。
試合が終わったら、打率を計算する。それまでの、通算成績も計算する。
特に教えてくれる人はいなかった。
そういう作業が、私は好きだったと思う。
でも、中学へ行ったら卓球部に入るつもりだった。友人と決めていた。
中学へ行ったら、監督だった担任から申し送りがあったらしく、中学の野球部の監督からマネージャーをやらないかと、話があった。
結局3年間マネージャーをやった。
自分で文芸を選ぶような人間が、野球部に4年間いることになった。
山に登るということを、教えてくれたのも恩師である先生だった。
私は、山に囲まれた村で育ったが、山で育ったからといって山に登るようになるわけではない。
村にそびえる山に登ったが、あまりにも山が村に近すぎて、頂上から自分の村が見えなかった。代わりに、ずいぶん離れた隣の村が見えた。
先生は、理科が専門でよく白衣を着ていた。
学芸会で、実験劇というのをやった。
舞台に、シュバイツァーとキュリー夫人と湯川博士が登場して、ゆで卵とか、バナナにクルミを刺してローソクにしたやつとか使って実験した。
私は、湯川博士だったと思うが、記憶が曖昧だ。
他のクラスは、「泣いた赤鬼」とか「 浦島太郎」とかやってた。
今考えると、先生はヒンシュクをかったんじゃないだろうか。
そういう先生だったのだ。
就職して10年ほど経った頃、その先生がある雑誌に出ていた。
ザリガニの研究者として、秋田の北部がザリガニ生息の北限みたいなことを言ってた。
定年後も「木の博士」とか米代川の筏くだりとか、やっていたことは聞いていた。
退職後あまり経たないうちに、病気で亡くなった。
同級生とお線香をあげに行ったあと、郷里の山田代岳に登った。
卒業後、ほとんど話しをしたことがなかった。
一度だけ、父親の実家に寄った時、少しだけ立ち話をした。
もう少し、話をしたかったという気持ちはある。