晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

私にとっての恩師

私にとっての恩師と言える人は、一人だけで他に第二候補はいない。

ということは、私はたまたま恩師と言える人がいただけである、ということも言える。

私にとっては恩師でも、恩師である先生にとっては、私はたぶん数え切れないほどの教え子のうちの一人だろう。

それでいいと思う。そういうものだと思う。

私にとってだいじな人である、ということがだいじなのだ。

 

なぜ、私にとってだいじかというと、私のターニングポイントにいた人だからだ。

私が、小学五年の時に担任として現れた。

五年の時、私は文芸クラブにいた。

六年になった時、野球部のマネージャーをやらないか、と話があった。

担任が野球部の監督で、1年間、マネージャーをやった。

主な仕事は、スコアブックをつけることだった。

他のスポーツのスコアブックは、見たことがないので比べようがない。

野球のスコアは、かなり複雑なものだった。

打者のボール、ストライク、ヒット、アウトを記録する。

ストライクも、空振りかどうか。

ストライクも、高めか低めか、難しかった。

ヒットも、ゴロかフライか、どの野手のどの位置に転がったか、飛んだか。

アウトも、同様である。

塁にいる走者が進塁したら、誰のヒットや打球で進塁できたか。

書き始めたら、キリがない。

試合が終わったら、打率を計算する。それまでの、通算成績も計算する。

特に教えてくれる人はいなかった。

そういう作業が、私は好きだったと思う。

 

でも、中学へ行ったら卓球部に入るつもりだった。友人と決めていた。

中学へ行ったら、監督だった担任から申し送りがあったらしく、中学の野球部の監督からマネージャーをやらないかと、話があった。

結局3年間マネージャーをやった。

自分で文芸を選ぶような人間が、野球部に4年間いることになった。

 

山に登るということを、教えてくれたのも恩師である先生だった。

私は、山に囲まれた村で育ったが、山で育ったからといって山に登るようになるわけではない。

村にそびえる山に登ったが、あまりにも山が村に近すぎて、頂上から自分の村が見えなかった。代わりに、ずいぶん離れた隣の村が見えた。

 

先生は、理科が専門でよく白衣を着ていた。

学芸会で、実験劇というのをやった。

舞台に、シュバイツァーキュリー夫人湯川博士が登場して、ゆで卵とか、バナナにクルミを刺してローソクにしたやつとか使って実験した。

私は、湯川博士だったと思うが、記憶が曖昧だ。

他のクラスは、「泣いた赤鬼」とか「 浦島太郎」とかやってた。

今考えると、先生はヒンシュクをかったんじゃないだろうか。

そういう先生だったのだ。

 

就職して10年ほど経った頃、その先生がある雑誌に出ていた。

ザリガニの研究者として、秋田の北部がザリガニ生息の北限みたいなことを言ってた。

定年後も「木の博士」とか米代川の筏くだりとか、やっていたことは聞いていた。

退職後あまり経たないうちに、病気で亡くなった。

 

同級生とお線香をあげに行ったあと、郷里の山田代岳に登った。

卒業後、ほとんど話しをしたことがなかった。

一度だけ、父親の実家に寄った時、少しだけ立ち話をした。

もう少し、話をしたかったという気持ちはある。

 

seiko-udoku.hatenadiary.jp

seiko-udoku.hatenadiary.jp

seiko-udoku.hatenadiary.jp

seiko-udoku.hatenadiary.jp

seiko-udoku.hatenadiary.jp

seiko-udoku.hatenadiary.jp

seiko-udoku.hatenadiary.jp

seiko-udoku.hatenadiary.jp

seiko-udoku.hatenadiary.jp