私が20歳くらいの頃、「花のニッパチ」ということばがマスコミでよく使われていた。
「ニッパチ」ということばは、もしかすると今でも使われているかもしれないが、「花のニッパチ」というのは使われたのがとても短い期間だったと思う。4、5年くらいかな。
大相撲の幕内力士に、昭和28年生まれが一挙に出てきたので、この言葉が使われた。
母が相撲好きでよく見ていたし、私も、昭和28年生まれだったので、気にはなっていた。
北の湖、若三杉、麒麟児、金城、大錦が、その5人の関取である。
先代の若三杉という力士のファンだったことを思い出した。絵に描いたようにきれいな相撲取りだった。
麒麟児、金城は、関脇が最高位、大錦は小結が最高位である。
今はほとんど相撲は見ない。
昭和28年は、西暦で1953年である。
1950年から始まっていた朝鮮戦争が、その年の7月、休戦となった。
国連軍と中朝連合軍は、朝鮮戦争休戦協定に署名し、休戦に至り、休戦時の前線である北緯38度線付近が軍事境界線となった。
この戦争において、日本はアメリカ軍の補給基地としての役割を果たした。その結果、朝鮮特需による好景気により、敗戦後の経済再建の機を掴むことができた。
「高度経済成長」ということばがよく使われる。その時期が、「ニッパチ」の成長した時期とピッタリ重なっている。
昭和29年、1954年の第一次鳩山一郎内閣から、昭和48年、1973年の第二次田中角栄内閣の時代である。
1973年は、ニッパチの世代が20歳を迎えた年だった。
我々の世代は、そのような時代の中で成長した。
「戦後」というものを、あまり感じることなく育ったかもしれない。
1972年、私が学生になった年に、当時総理大臣だった田中角栄は、「日本列島改造論」を発表した。
「工業再配置と交通・情報通信の全国的ネットワークの形成をテコにして、人とカネとものの流れを巨大都市から地方に逆流させる “地方分散” を推進すること」を主旨とする、政権公約だった。具体的には、新幹線、高速道路、本州四国連絡橋など高速交通網を整備することであった。
これによって、土地の買い占めにより地価が急激に上昇し、その影響で物価も上昇しインフレーションとなり、社会問題になった。
1974年に、田中角栄は金脈問題によって退陣する。
私は、1976年に就職したのだが、物価高、インフレはまだ続いていた。
物価高から労働者を守るために、何をするかといえば「ベースアップ」である。
今のようなデフレの時代に、この言葉を説明するのはむずかしい。
そのままだと、物価高のために給料が目減りするので、給料自体を底上げしていた。南米のようなとんでもないインフレではないにしても、年数%の物価高をなんとかしなければならなかった。
たぶん、今は死語になってるかな。
それにならって、公務員の給料もベースアップをしていた。
毎年、そんなことをやってた。
バブル景気って、1980年代かな。
そして、バブル崩壊だ。泡は消えるものだ。
でも、中身はないからバブルって言ってたんだから、みんなわかってたんだよな。
それから、長期低落の時代になる。
デフレーションということばが言われるようになる。
プロ野球にも、「 プロ野球28会」という昭和28年生まれの会があるそうだ。
2011年発足らしいので、現役引退後である。
中畑清、梨田昌孝、真弓明信、若菜嘉晴、田尾安志、落合博満、羽田耕一、吹石徳一、藤瀬史朗、庄司智久、岡義朗、大町定夫、定岡智秋、ランディ・バース
知らない名前もあるけれど、この方々は同級生だったんだな。
野球を通した社会貢献活動を今もやってるらしい。
中学生ぐらいの時に、授業の中で自分たちの同級生は200万人以上いる、というのを教わった記憶がある。
先日、テレビのニュースで、2020年(平成2年)の出生数は、「過去最低の87万2683人である」となっていた。
もうそんなに少ないんだ、と思って、昭和28年生まれを調べてみた。
1953年昭和28年生まれは、186万8040人だった。
その前年は、200万人を越えていたのが、この年に200万を大きく割っている。
最も多いのは、1949年昭和24年の269万人である。
なるほど、この前後が団塊の世代なのか。