晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

中高一貫教育校と小中学校併設校

平成28年から、私の住む柏市内で最も古い県立高校が中高一貫教育校になった。同じ敷地内に中学校があるので、併設型中高一貫教育校ということになるらしい。

併設型ではなく、連携型中高一貫教育校というのもあるらしい。

生徒募集を高校で行わなければ完全中高一貫教育校ということになる。

考えてみれば、これは私立の中学校と高等学校は昔からやっていたことではないだろうか。

問題は、義務教育が中学校までということだろうか。

 

なぜこんなことを書いているかというと、そろそろ卒業式の時期だなと考えていて、自分が小中学校併設校で、小学校と中学校の生活を送ったことを思い出したからである。

一つの敷地の中に、一つの校舎があって、それを小学校と中学校で使っていた。

職員室も一つで、小学校の先生と中学校の先生がいて、教頭先生と校長先生は小中学校兼任だった。

ウィキペディアの記事では、次のようになっている。

 

児童・生徒数の少ない過疎地などの学校では学級数も少なく、嘗てから小学校及び中学校で校舎、体育館、敷地等を共用する小中併設校が存在し、行事なども小・中学校合同で実施したり、校長も兼任する場合もみられた。

 

これは、あくまでも地域の人口の問題や財政上の理由で行われたもので、最近言われてるような、小中学校の連携や、小中学校の一貫教育とは関係のないものだったと思う。

 「人口の問題や財政上の理由」があるような町や村がどれぐらいあったのだろうか。ウィキペディアの記事では、過去形にはなっていなかったので今でも存在しているのかもしれない。

日本は、国土のかなりの部分を山地が占めている。そして、海で囲まれていて、小さな島や半島も多い。

街中で育ったような人には、小学校と中学校がいっしょになった学校があるなんて想像できないかもしれない。

私の育った町では、記憶によれば小学校が6校で、中学校は4校だった。でも、小中併設校は、私の学校だけだったと思う。

同じ町の人でも、併設校の存在を知らない人が多かったんじゃないかな。

 

私が中学3年生になった年に、町内の中学校4校が統合されて、町内に中学校は1校だけになった。

でもそれは、名目だけで4つの校舎になっただけで、実態はそのままだった。

 運動会と卒業式を一緒にやったぐらいである。

ほとんどともに過ごすこともなく、第1期卒業生となった。

その後、小学校も岩瀬川下流にある小学校と統合された。

廃校となった跡地は公民館になっているらしいが、行ったことがない。

 

妻は、東京で生まれ、育っている。

1学年10学級くらいある学校に通っていたのだろう。

私の育った環境を理解してもらうのは、むずかしい。

1学年1学級という小さな学校で、小学校と中学校が併設されて、そんなに小さい学校なのに、もっと小さい分校を持っていた。

なんと、保育園から10年間同じ顔ぶれで育ってるのだ。

町内に、高校はなかったので、だいたい隣町にある高校に通った。

高校受験の時は、朝自宅から出発したら試験に間に合わないので、前日に町の旅館に泊まっていた。いや、なんとか間に合ったかも知れないが、大雪でも降ったら行けなくなる、ということだったのかも。

先生が引率して、修学旅行みたいだったな。

 

日本全国には、きっとこんな所がいっぱいあったんだと思う。

私が、郷里を離れて50年になる。

交通網や通信網の発達で、日本はかなり同質化したと思う。

それでも、町で育った人間の想像を越えたようなものが、全国にはまだまだあるだろう。

日本は、広いのだ。

 

 

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