菅江真澄は、宝暦4年(1754年)に三河国で生まれ、文政12年(1829年)に出羽国角館で亡くなった。
天明8年、郷里を離れ信濃を経て、出羽、陸奥、蝦夷と北国への旅に出た。
信濃においての著作「いなのなかみち」の本文は、次のようにはじまる。
このひのもとにありとある、いそのかみふるきかんみやしろををがみめぐり、ぬさたいまつらばやと、あめの光よもにあきらけき御世の、おほんめぐみあまねくみつといふとし、長閑き春もきさらぎの末つかた、たびごろもおもひたち父母にわかれて、春雨のふる里を袖ぬれていで、玉匣ふたむら山をよそに三河路を離て、雨にきる三野のなかやまをかなたに、みすずかる科埜の国に入つるまでの日記は、しら波にうちとられたればすべなし。
菅江真澄の文章は、擬古文という文体で、書かれている。
擬古文というのは、江戸時代の国学者が積極的に用いいた文体で、平安時代の文体(中古日本語)をまねた文体である。
なので、感覚としては源氏物語や更科日記を読んでるような感じである。
ことばや言いまわしが、少しわかりにくいところがあり、何度も読み返してしまう。
松尾芭蕉は、寛永21年(1644年)に伊賀国で生まれ、元禄7年(1694年)に旅行先の大阪で亡くなっている。
元禄2年(1689年)、崇拝する西行の500回忌の年に江戸を立ち、東北から北陸を経て、美濃国大垣までの旅を紀行文「奥の細道」として残した。
月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふるものは、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。
よもいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋にくもの古巣をはらひて、やや年も暮、春立てる霞の空に白河の関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取るもの手につかず。
松尾芭蕉の文章も擬古文ということになるのだろうか。
菅江真澄の文章と比べると男性的な印象である。
漢文の読み下し文のようである。
これは、どのような違いから生まれたものだろうか。
擬古文という言葉は、明治初期の小説家たちが江戸時代の井原西鶴に代表される浮世草子をまねた作風にも使われれるようだ。
そういえば、樋口一葉の「たけくらべ」を読んだときに、なんてわかりにくい文章なんだろうと思った記憶がある。
つまり、江戸時代の文章を真似して描いていたのだから、ふだん自分たちが使っていることばではなかったということなのか。
それで、有名な二葉亭四迷の言文一致運動になるのか。
ということは、書き言葉と話し言葉が必ずしも同じではなかったということだろう。
「だ」とか「ます」とか「です」という言い方は、このころから一般化したらしい。
歌舞伎というものを、数回だけだが見たことがある。
見る前は、歌舞伎は日本を代表する伝統的な舞台芸術みたいに言われているし、敷居の高いものだ、というイメージがあった。
きっと「能」とか「狂言」などのイメージと重なっていたのだと思う。
実際に見た歌舞伎は、まったく違和感のないわかりやすいものだった。
考えてみたら、歌舞伎は江戸時代の流行りの大衆芸能で、普通の町人相手の人気商売なのだからわかりやすくなければならないものだったろう。
今のアイドルみたいなものでも、あったのだろう。
歌舞伎の世界が今でも、時代の先端を行くようなものに挑戦しようという試みをやったりしてるというのは、本来の歌舞伎のあり用を自覚してるからかなという気がする。
あまり高尚になるものじゃないと言うことだ。
落語好きの友人がいて、落語を聞きに出かけていた頃があった。
落語は、古典落語といわれる古いものでも、普通に聞くことができる。
落語は、聞いてる人に話しかけるような話術なのだから、当然話し言葉である。
古典落語というのは、聞いて覚えて受け継がれるのだろうから、かなり江戸時代のものがそのまま残っているだろう。
江戸時代の話し言葉と現代の話し言葉は、どれくらい違うものだろう。
3代目三遊亭圓朝という幕末から明治への転換期に活躍した落語家がいる。
さてお短いもので、文七元結の由来という、ちとお古い処のお話を申上げますが、只今と徳川家時分とは余程様子の違いました事で、昔は遊び人というものがございましたが、只遊んで暮して居ります。よく遊んで喰って往かれたものでございます。何うして遊んでて暮しがついたものかというと、天下御禁制の事を致しました。只今ではお厳しい事でございまして、中々隠れて致す事も出来んほどお厳しいかと思いますと、麗々と看板を掛けまして、何か火入れの賽がぶら下って、花牌が並んで出ています、これを買って店先で公然に致しておりましても、楽みを妨げる訳はないから、少しもお咎めはない事で、隠れて致し、金を賭けて大きな事をなさり、金は沢山あるが退屈で仕方がない、負けても勝っても何うでも宜いと、退屈しのぎにあれをして遊んで暮そうという身分のお方には宜しゅうございますが、其の日暮しの者で、自分が働きに出なければ、喰う事が出来ないような者がやりますと、自然商売が疎になります。
落語を聞いているように読むことができる。なんの違和感も、わかりにくいところもない。
これはたぶん、明治初期の文章であるが、江戸時代もそんなに違いはないのではないだろうか。
話し言葉は、そんなに大きく変わるものではないと言えるのかもしれない。
こうやってみてみると、町民たちは普段話してる言葉で文章も書いたり読んだりしていたが、教養のある人たちは、擬古文という普段は話したりしないことばで書いていたのだと思う。
面倒くさいことを、やっていたのだ。
しかも、国文学系の人たちが擬古文を使っていて、儒教などの漢文を教養の中心にしていたような人たちは漢文読み下しの文章を書いていたのかな。
現在は、だいたい書き言葉と話し言葉はおんなじようになってると思う。でも、まったく同じって訳ではないかな。