晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

日本旅行記、訪問記、滞在記の類いについて②

我孫子市立図書館から借りてある4冊の書籍を読んでいる。

気にかかる箇所の文章を抜き出そうと思う。

 

フランシスコ・デ・ザビエル 「聖フランシスコ・デ・ザビエル書翰抄下」 岩波文庫

アルーべ神父 井上郁二 訳

 

ザビエルは、ポルトガル国王ジョアン3世によって、インドのゴアに派遣された。

天文18年(1549年)に、初めて日本にキリスト教を伝える。

薩摩、肥前、周防を経て、京に入り、全国での宣教の許可を「日本国王」から得るため、後奈良天皇征夷大将軍足利義輝への拝謁を誓願したが、ならなかった。

ザビエルは、膨大な書簡をインドや欧州に送っている。

日本に初めてキリスト教を伝える宣教師として、苦労の多い毎日だったのであろう。

内容は多岐にわたっていて詳細なものであるが、その中に、次のような文章がある。

 

日本の信者には、一つの悲歎がある。それは私達が教へること、即ち地獄へ堕ちた人は、最早全然救はれないことを、非常に悲しむのである。

亡くなった両親をはじめ、妻子や祖先への愛の故に、彼等の悲しんでいる様子は、非常に哀れである。死んだ人のために、大勢の者が泣く。

そして私に、或は施與、或は祈りを以て、死んだ人を助ける方法はないだらうかとたづねる。私は助ける方法はないと答へるばかりである。

この悲歎は、頗る大きい。

けれども私は、彼等が自分の救霊を忽がせにしないように、又彼等が祖先とともに、永劫の苦しみの處へは堕ちないやうにと望んでゐるから、彼等の悲歎については、別に悲しくは思はない。

しかし、何故神は地獄の人を救ふことができないか、とか、何故いつまでも地獄にゐなければならないのか、というような質問が出るので、私はそれに彼等の満足行くまで答へる。

彼等は、自分の祖先が救はれないことを知ると、泣くことを已めない。

私がこんなに愛してゐる友人達が、手の施しやうのないことに就いて泣いてゐるのを見て、私も悲しくなつて来る。

 

人々が求めているもの、必要としているものと、キリスト教があたえてくれるものが、かみ合っていないのである。人々は、祖先や亡くなった人のために祈っているのである。

日本における布教の困難を感じさせる。 

 

神は私達を、贅澤の出来ない國に導き入れることに依つて、私達にこんなに大切な恵みをお施しになった。即ち、私達が肉體に與ようと望んでも、この土地では、こんな贅澤はできないのである。

日本人は自分等が飼ふ家畜を屠殺することもせず、又、喰べもしない。

彼等は時々魚を食膳に供し、米や麦を食べるがそれも少量である。

但し彼らが食べる草(野菜)は豊富にあり、又僅かであるが、いろいろな果物もある。

それでいて、この土地の人々は、不思議な程の達者な身體をもつて居り、稀な高齢に達する者も、多數居る。

従って、たとへ口腹が満足しなくとも、私たちの體質は、僅少な食物に依つて、いかに健康に保つことのできるものであるかは、日本人に明らかに顕れている。

この國に於て、私達の身體は、皆、頗る元気であるが、願わくは神の思召しによつて、私たちの霊魂も、元気であらんことを。

 

自分たちの肉食中心の食生活を、日本人の質素な食生活と比べている。

家畜を屠殺して、食すということについて、なんらかの思うところがあったような文章である。

 

彼等は、悪であり人類の敵である悪魔の存在を信じるが故に、創造主のことを認められないと言つた。

又、若し神が善なら、そんな悪い者を造る筈がないと云ふのである。

それに對して私達は、神はそれ等を皆善いものとして造ったが、彼らが自分勝手に悪くなったので、神は彼等を罰した。

その罰は永劫に續くと答へた。

すると彼等は、神はそれ程に残酷に罰するものであるなら、憐れみのない者だ、しかも若し神が、私達の教の如く、人間を造ったのが本當なら、何故こんなに悪い悪魔がゐて、それが人間を誘惑することを許しておくのか。

何となれば、私たちの教によると、人間が創られたのは、神に奉仕し奉るためであるから。

又、神が慈愛の者ならば、人間をこんなに弱く、且つ、罪の傾きを持った者としては造らないで、悪い傾きのない者として造つたはずだ。

又此の原因は、善い原因となることはできない。

何故なら、地獄のやうなひどい處を造つたからであり、地獄へ堕ちた人間は、私達の教によると、永遠に其處に居なければならないのだから、神には憐れみがないといふ。

又神が善ならば、こんなに守りにくい十誡などは、與へなかった筈だといふ。

 

彼等は、他の国でもこんな声を相手にしていたのだろうか。

宣教師としての、資質の問われる日々だっただろう。

現在、日本におけるキリスト教徒は191万人だそうである。

200万人近くいるのだから、たいしたものだとも言える。

ただ、16世紀に上のような文章が書かれていたことを考えると、これらの問いかけに対して、何百年の間、充分な答えを用意できなかった、とも言える。

 

川崎桃太 「続・フロイスの見た戦国日本」 中公文庫

 

ルイス・フロイスは、スペイン人であるがポルトガル宮廷に仕え、1548年にボアに赴き、そこでザビエルに会っている。

1563年、長崎に上陸し、日本語や日本の風習を学んでいる。

1569年、将軍足利義昭を擁していた織田信長に対面する。仏教界に不満を持っていた信長は、フロイス畿内での布教を許可した。

1597年に、長崎にて65歳の生涯を終える。日本での長い布教活動の中で膨大な書簡と「日欧文化比較」や「日本史」などの著作を残した。

 

この書は、フロイスの研究者である川崎桃太氏が、フロイスの著書「日本史」の中から、16世紀日本の人物、事件・風俗、文化などを紹介したものである。

この中で、フロイスという人について次のように述べている。

 

フロイスという作家は、見たこと聞いたことをたちどころに文章化できたため、宣教師として必要でないことまで書いてしまった。「君の書き物は冗漫に過ぎる」。さすがの巡察使ヴァリニャーノも呆れて、ヨーロッパでの印刷を拒んだ経緯がある。生涯このフロイスという宣教師は上司のもとでは不人気であったようだ。興味を持ってはならないことに熱中する癖があったからだ。でもこの欠点?が、信長、秀吉の活躍とその素顔を活写して現代の日本人を熱狂させているのではないか。歴史とは皮肉なものである。

 

「日本史」は、日本におけるキリスト教布教史として書かれたものである。しかし、ヨーロッパの後進が日本に赴く際の資料という当初の趣旨を逸脱した、膨大なものになってしまった。

中公文庫で全12巻というボリュームである。フロイスが実際に会った戦国大名を中心に当時の日本の状況を描いているようである。

織田信長豊臣秀吉大友宗麟大村純忠有馬晴信の名前が並んでいる。

次には、フロイスが書いた文章を読みたいので、探してみよう。

 

f:id:seiko_udoku:20210321190543j:plain

 

 

 

 

seiko-udoku.hatenadiary.jp

seiko-udoku.hatenadiary.jp

seiko-udoku.hatenadiary.jp