桜も散って、そろそろ入学式の時期が近づいてきた。
私は、先日書いたように小学校と中学校の併設校で育ってきた。
入学式も卒業式も、小学校中学校の合同でやっていた。
卒業式では、だいたいどこの学校も「呼びかけ」というのをやってると思う。
私の学校時代も、ずっと「呼びかけ」をやっていた。
小学校一年生から、毎年ほとんど同じ流れでやってたので、頭に染み込んでいる。
全校や学年や個人に担当の台詞があって、かなり長いものだったと思う。
私の記憶が確かなら、次のようなことばで始まっていた。
桜も春もまだ遠い
寒い北国越山も
山にはそろそろフキノトウ
土手には希望のネコヤナギ
卒業式の頃は、秋田ではまだ雪が積もっている。
桜は、まだまだである。
今年の開花予想だと、秋田市が4月10日、角館が4月16日になっているので、大館はもう少し遅いだろう。
かつては、もっと遅い4月下旬からだったと思う。
温暖化で、早くなってるのだろうか。
「卒業式の呼びかけ」というのを、ずっと経験してきたので、卒業式はこんなもんだと思っていた。
最近になって、「呼びかけ」っていつ頃からやるようになったのだろうと、考えるようになった。
私が、小学校に入学したのは、昭和35年(1960年)である。
雪国の山奥の全校生徒300人くらいの小さな学校である。
考えてみたら、その頃にしてはずいぶんシャレたことをやってたもんだな、と思う。
誰が呼びかけを作ったのか、聞いたこともない。
他の学校はどうだったのかは、わからない。
そこで、「卒業式の呼びかけ」がいつ頃から始まったのか、調べて見た。
わかったことは、昭和30年3月に、群馬県の島小学校で行われた卒業式が最初であったということ。
その時は、卒業生や在校生だけではなく、保護者や教師の台詞もあったそうである。
斎藤喜博という校長先生が、昭和27年から取り組んでいた学校改革の集大成だったということである。
それまでの、国歌斉唱、祝辞だけといった形式的なものではなく、本当の感動が得られる行事にしようと取り入れたものだった。
それが全国に広まっていき、日本中の学校で行われるようになったということなのだが、それにしては、それから数年で私の母校で実施していたことになる。
私が入学した昭和35年には、定着してる感じだったから既に何年か経ってる。
ずいぶん、早かったんじゃないだろうか。
インターネットなんてない時代である。
何故だろうと考えていて、気がついたことがある。
かつて「全国こども電話相談室」という子どもの質問に専門家が回答するラジオ番組があった。
その名物回答者に、無着成恭という方がいた。
面白そうな人だったので、調べたことがあった。
山形県の山元中学校で「生活綴方運動」に取り組み、その成果を「やまびこ学校ー山元村中学校生徒の生活記録」として刊行し、映画化もされた。
生活綴方というのは、作文を書くことによって、自分たちの生活について考え、自分のことばで表現するということだろうと思う。
その後、東京都三鷹市の明星学園の教諭となり、その頃にラジオ出演をしていたようだ。
明星学園退職後は、僧職に就いている。
無着成恭さんが取り組んでいた「生活綴方運動」がすでに、大正初期から始まっていて、私の郷里である秋田には、その流れを汲む「北方教育」という運動があったということはその時に知った。
もしも、そのような流れがまだ残っていたのであれば、群馬県で始まった教育改革の取り組みをすばやく取り入れたのかな、という気はする。
実際のところ、どうだったのかはわからない。