ネットの掲示板のような、いろいろの人たちが一つのテーマについて語るようなサイトを見ていると、あれっと、違和感を感じることがある。
書き込みというか、発言の内容が一つの流れができているようになると、必ず一人、二人とその流れを変えようとする発言が出てくる。
テーマとは全く関係のない内容の発言である。
ネットの世界だけではなく、テレビなどの討論会のような場面でも、討議の対象から外れたところへ話を持っていこうとする人は現れる。
現在は、ディベートというものがあって、学校でもやってるらしい。
我々の世代は、そんなものはまったくなかった。
時代は、学生運動やらなんやらで騒々しかったのに、討論とか討議について学ぶということを、ちゃんとやってなかった。
どうして、私たちは討論や議論などの技術を身につけることなく、ここまで来てしまったのだろうか。
ディベートという言葉を知ったのも、ずいぶん後になってからだ。
西洋における技術の一つとして定着継承されていた古代ギリシャや古代ローマ以来の議論・討議の技術は、日本では教育の中に位置付けられなかったということだろうか。
ディベートは、公的な主題について、異なる立場に分かれて議論することをいうのだそうだ。
公的な主題について、当事者間の意見対立を前提としない、単なる意見交換はディスカッションである。
単なる議論ならば、主題の特定は必要ではなく、公的である必要もなく、意見の対立を前提とすることもない。
ディベートには、教育活動としての教育ディベートがあるという。
教育ディベートでは次のような制約があるのだそうだ。
第三者によって勝敗を決定する。
参加者の意思に無関係に役割(肯定側否定側など)を分担する。
議論において守るべきルールを設定する。
「勝敗を決定する」で、びびってしまった。
第三者が、勝敗を決定するって、できることだろうか。
ちょっと、近寄りたくなくなった。
そういう経験をしてなくてよかったかもしれない。
もともと、「問題をすりかえる」ということが気になって書き始めてたので、検索してみた。
そしたら、「論点のすり替え」というウィキペディアの項目が出てきた。
読んでいて、なるほどと思った。
それ自体は妥当な論証だが、本来の問題への答えになっていない論証を指す。
つまり、間違ったことは言ってないが、今話し合っている問題の解決の役には立たない、ということだろうか。
関連した項目として、こんなものも出てきた。
「そっちこそどうなんだ主義」(Whataboutism)というもので、相手の論点に直接反論せず、相手の言動が主張と矛盾していると指摘して、相手の論点の信用をなくそうとするもの、ということだ。
日本語では、「お前だって論法」とか「そっちこそどうなんだ論法」というのだそうだ。
笑ってしまうが、いろんなところで目にするような、耳にするようなやり方である。
こういうことを、お互いに、もう少し勉強していれば、会議や話し合いをもっと効率よく進めることができたのかな、という気もする。