私にとって、柏という町は六十数年のうちの半分くらい三十数年を過ごした町である。
我が家の子どもたちにとっては、生まれてからほとんどを過ごしてきた町だ。
長男だけは、隣の町で生まれて2歳になる前に引っ越してきている。
縁あって柏市に住むことになった私は、機会があれば柏市の歴史を調べていた。
私のように、他の地で生まれ育って柏市に住むようになった人は、どれくらいいるのだろう。
日常生活を送ってる分には、別にこの町の歴史を意識することはない。
でも、自由な時間があって、散歩する機会があると、歴史というものを知ることが楽しみになると思う。
これによって、人口38万人、面積115平方kmとなり中核市の要件を満たし、2008年に中核市に移行した。
これに先立つこと、2001年(平成13年) に我孫子市、流山市を加えて合併研究会を発足させていたが、両市が相次いで離脱したものだった。
東葛飾地域では、周辺市町の合併により、政令指定都市を目指すべきとの議論がある。
「東葛6市」野田市、流山市、松戸市、柏市、我孫子市、鎌ヶ谷市からなる「東葛広域行政連絡協議会」が、研究会を設置したり、松戸市と柏市で研究会を設立したりしている。
東葛飾南部の船橋市と市川市も合併による政令指定都市を目指す動きもあり、それぞれの動向が気になるところである。
沼南町は、1955年(昭和30年)に風早村と手賀村が合併して発足した沼南村が、昭和39年に町制を施行したものである。
風早村と手賀村は、1889年(明治22年)の町村制施行により合併して発足したが、その時点では南相馬郡であった。
1897年(明治30年)に、南相馬郡は東葛飾郡に編入された。
風早村 ← 塚崎村,大井村,大島田村,蓑輪村,五条谷村,高柳村,藤ヶ谷村,藤ヶ谷新田,大井村新田,箕輪村新田
手賀村 ← 手賀村,手賀村新田,泉村,若白毛村,岩井村,鷲ノ谷村,金山村,柳戸村,片山村,布瀬村,泉村新田,岩井村新田,鷲野谷新田,片山村新田,布瀬村新田,染井入新田
手賀村の名前は、中心的な村であった手賀村や手賀沼から命名したのであろう。
しかし、風早村の「風早」という名はどこからきたのだろうか。
風早という地名は、私が調べた限りでは見つからない。
だから、なぜ風早村と命名したのかについては、もう少し調べて見なければならない。
確かに、中世の頃に「風早荘」という香取神宮領の荘園がこの辺りにあったようである。
荘域は、松戸市北部から流山市西部、さらに八潮市、三郷市の周辺部となっており、旧沼南町あたりは出てこない。
千葉氏の系譜の東氏の一族東胤康が下総国風早郷に住んでたとの記録があるようだ。
しかし、その風早郷は松戸市本郷のあたりであり、風早氏を名乗っていて、その居宅跡に風早神社が残っている。
柏市は、1954年(昭和29年)に、柏町、土村、田中村、小金町と合併し、「東葛市」となった。
すぐに、小金町域は一部(根木内地区)を残して、松戸市に移管された。
また、富勢村は、一部が我孫子町に、一部が東葛市に編入された。
住民投票の結果、我孫子派、柏派がほとんど半々の同数だったので、分裂してそれぞれに編入ということになったようである。
柏町は、1889年(明治22年)の町村制施行に伴う合併によって、千代田村・豊四季村組合が発足した。
千代田村 ← 東葛飾郡柏村、同郡戸張村、同郡篠籠田村、同郡松ヶ崎村、同郡高田村、印旛郡呼塚新田字落合、同郡柏堀ノ内新田(字一番割、水神前を除く)、同郡柏村、同郡中村、同郡下村、同郡戸張新田
豊四季村は、士族による新開墾地の村である事情のため村組合とした。
1914年(大正3年)に、組合を解消し、千代田村とする。
1926年(大正15年)に、町制を施行し、柏町とすると。
土村は、1889年(明治22年)の町村制施行に伴う合併によって、次の村が合併して土村が発足した。
増尾村、藤心村、逆井村、名戸ヶ谷村、今谷新田(現・今谷上町)、根木内村(一部は根木内新田を経て現・光ヶ丘)、小金上町新田(現・今谷上町)、酒井根村、中新宿村、塚崎新田、高柳村の11村の合併で成立したため、「十一」を「土」にしたものである。
私の住んでいる東中新宿は、中新宿村であったのだろう。
ここで、気がついたのは根木内村が合併して土村になったことだ。
根木内という地名は、松戸市に現在あって学校名にもなっている。
田中村は、1889年(明治22年)の町村制施行に伴う合併によって、田中村・十余村村組合が発足した。
田中村 ← 若柴、花野井、大室、正蓮寺、小青田、船戸、大青田(利根運河北部を除く)、上三ヶ尾(利根運河南部)、下三ヶ尾(利根運河南部)、西三ヶ尾(利根運河南部)および青田新田飛
「田中村」の田中は、駿府国田中藩の飛び地であったことによる。
十余二村は、新開墾地である事情のため、村組合とした。
富勢村は、1889年(明治22年)の町村制施行に伴う合併によって、次の村が合併して富村が発足した。
根戸村、宿連寺村、布施村、久寺家村、印旛郡呼塚新田、同郡根戸村新田、同郡松ヶ崎村新田、同郡柏堀ノ内新田字一番割および水神前
布施村が圧倒的大村のため、新村名にもその名を望んだが、まわりの村々はそれを望まなかったため、音が通ずる「富勢」ということになったようである。
小金町は、1889年(明治22年)の町村制施行に伴う合併によって、次の町村が合併して小金町が発足した。
小金町、二ツ木村、上総内村、久保平賀村、東平賀村、殿平賀村、大谷口村、横須賀村、中金杉村、幸田村
明治22年の町村制施行による大合併によって、現在の市町村の原型になるものができたのだろう。
東葛飾郡は、それまでの10町2駅237村だったのが、9町28村まで減っている。
柏の歴史を考えるには、手賀沼の存在が大きかったと思う。
今の何倍かの大きさだった手賀沼は、水産物の宝庫であるとともに、水運の道でもあった。
次に、水戸街道である。
小金宿と我孫子宿に挟まれた寒村にすぎないと、記録にはあるが明治初期の古地図を見ると、街道に沿って住宅が並んでいる。
そして、江戸幕府の小金牧があった。
江戸時代、柏市域には48の村があり、田中藩本多氏に代表される大名領や旗本知行地・天領(幕府直轄領)が入り組み、これに名主を置かれていた。
私は、この時代の知識がないのでこれから調べてみようと思う。
以前に、「柏市史」を借りた時に、面白そうな資料が多くあったような気がする。