私の郷里の大館市には、北鹿新聞社という新聞社がある。
私の子どもの頃、目にする新聞といえば「秋田魁新報」と「北鹿新聞」だった。
読売新聞、朝日新聞、毎日新聞などは、ほとんど見たことがなかったと思う。
業界紙などをのぞいた、いわゆる一般紙は、発行範囲の違いから次のように分けられる。
全国紙 全国向けニュースを報ずる新聞
読売、朝日、毎日、日本経済、産経
ブロック紙 販売地域が複数の都府県にまたがる新聞
北海道新聞、河北新報、中日新聞、東京新聞、中国新聞、西日本新聞
地方紙 特定の地方を販売対象とする
県紙 発行エリアが一府県の全域である新聞
地域紙 都道府県の一部を発行エリアとする新聞
秋田魁新報は県紙で、北鹿新聞は地域紙である。
私の住む千葉県では、県紙が千葉日報で、地域紙が、銚子市に大衆日報、館山市に房日新聞、木更津市に新千葉新聞がある。
秋田魁新報は、1873年(明治6年)創刊で、中央、地方を通じても全国で、4番目に古い新聞であるそうだ。
私は、小学校中学校と野球部のマネージャーをやっていたので、地区大会の結果の記事をよく見ていた。
少年野球の地区大会の結果もちゃんと記事として載っていた。
試合内容について文章はなかったが、バッテリーの投手名捕手名と、打者数、安打数などは記載されていた。
中学校の修学旅行の見学先に、秋田魁新報社は入っていた。
北鹿新聞は、旧北秋田郡と旧鹿角郡をカバーする地域新聞である。
記事内容がよりローカルなので、ページ数は少ないながらも身近な新聞だった。
私は、高校時代に新聞部に所属していて、校正作業のために新聞社の社屋に通った記憶がある。
活字が並んだ棚が並んだ部屋は、印象が強かったのでよく覚えている。
まだ、おじさんたちが原稿を見ながら活字を拾っている時代だった。
何年か前に、北鹿新聞社のWEBサイトを見つけた。
毎日写真付きのローカルな記事が、掲載されるのでときどきのぞいていた。
今まで見たことのなかった「会社案内」のページで、面白いことを知った。
1918年(大正7年)創刊なので、100年を超えていること。
平成4年に、創刊20000号を達成している。
現在、発行数26000という状況の中で、日刊紙を発行し続けているのは素晴らしいと思う。
そして、北鹿新聞誕生の経緯は、初めて知った。
ハガキや名刺の印刷が中心の小さな印刷所を経営していた鎌田四郎という方がいた。
「郷土史を発行して後世に伝えたい」という思いから、資金や協力者を集めるために奔走する。
そして、1000ページを越える「大館戊辰戦史・附大館沿革史」を発行した。
この書籍は、後世、大館史研究のバイブルになった。
しかし、発刊のために準備した印刷資材と人員が余ってしまい赤字経営に追い込まれる。
この体制を有効活用するために、新聞の発行に着手した。
1918年(大正7年)のことである。
この書籍のタイトルにあるように、大館における戊辰戦争について、蒲田氏は記録を残そうとしたのだと思う。
私は、自分が育った田代や大館の地が戊辰戦争の惨禍に巻き込まれたということも知らずに育ったが、今はそれについて知りたいと思っている。
秋田県の北東部が、歴史的に特異な位置付けにあることは、確かである。
陸奥国と出羽国の時代から、北東部が出羽国の勢力が入り込むよりも先に、陸奥国に取り込まれていたようである。
それが、戊辰戦争において、北東部が盛岡藩と秋田藩の戦いの戦場になることにつながっている。
能代市の北羽新報、北秋田市の秋北新聞、大館市の北鹿新聞と、秋田県北部には、地域紙が3紙現存していることも、この地域の歴史と無縁ではないだろう。
「大館戊辰戦史・附大館沿革史」について、調べてみたら、国立国会図書館に蔵書としてあることがわかった。
しかし、著作権処理の問題でインターネット公開はしていなかった。
この書籍は、大正7年に、秋田県大館町の藤島書店から発行されている。
そして、編者は紫峰笹島定治となっている。
笹島定治氏について調べてみたが、どのような人物かわからなかった。
しかし、国立国会図書館には、笹島定治氏が関わっている論文が掲載された雑誌があることがわかった。
「醸造用としての秋田杉」と「酒醤油桶樽木取りの一大革新」が、日本醸造協会雑誌の17号(1922年)と18号(1923年)に掲載されているようだ。
大館には、酒造会社も醤油会社もあったので、そこに関係する人だったのだろうか。
さらに、「大館戊辰戦史・附大館沿革史」が1973年に、名著出版というところから「大館戊辰戦史」として、再出版されている。
他の公共図書館で、蔵書してるところがあるらしいので、もう少し調べてみようと思う。