高校生くらいまでは、「インフレ」も「デフレ」も、別世界のことばだった。
教科書に、「インフレ」という言葉とともに、お札をリュックサックに詰めて出かける写真があったり、年何百%というインフレとあっても、日本には縁がないことばに思えた。
「インフレ」という言葉が、身近なものになったのは、学生時代である。
第一次オイルショックというものがあり、急激な物価上昇となって、「狂乱物価」と言われた。
第一次オイルショックは、1973年から1974年にかけてのエジプト・シリアとイスラエルとの第四次中東戦争によるものである。
すでに、1972年に発足した田中角栄内閣の「日本列島改造論」により、地価や株価の急騰をもたらしていた。
私が就職したのは、1976年なので「狂乱物価」は収まっていた。
私の学生時代に、消費者物価指数は、1973年11.7%、1974年23.2%上昇した。
この物価上昇に対応できるように、春闘での賃上げ率は、1973年20%、1974年33%にも上昇した。
職場の先輩が、「あの頃は、ボーナスを2回もらった。」と言っていた。
ベースアップ分を、かなりの月数さかのぼってもらうと、そういうことになる。
今では、考えられない数字だと思う。
定期昇給とは別に、ベースアップつまり給料の底上げ分が、たったの2年間で50%以上にもなっていたのだ。
それでも、 1987年ブラックマディーまでは、毎年5%前後のベースアップはあった。
言いかえれば、物価上昇率もそんなものだったと思う。
しかし、私が生まれた1953年であるが、1934年から1936年の消費者物価を1とすると、1954年は301.8となるそうだ。
なんと、300倍になっている。
それを知ったら、狂乱物価なんて大したことなく思える。
そして、戦争がもたらすもの大きさを感じる。
ブラックマンデー以降、賃上げはじりじりと下がっていく。
給料が上がらないから、高いものは売れない。
安いものしか売れないので、経済活動がどんどん収縮していく、という悪循環。
政府の見解によれば、2年以上物価下落が継続することを、デフレと認定しているそうである。
そういう意味では、現在はデフレに近い状態であるといえるのだろう。
最近は聞かないけれど、私が学生だった頃、「英国病」ということばがよく使われていたような気がする。
正確なところはわからないが、私の解釈では、かつて栄華を極めたイギリスが繁栄からだんだんと取り残され、長期的に低落傾向にあることを言ってるようだった。
それは、アメリカの繁栄を横目に見ての表現だったと思う。
第二次対戦後の日本が、急速に経済的に発展したが、それは長く続かなかった。
経済の発展には、技術力と低賃金というものが必要であったが、結果的に低賃金が改善されれば、コストの面で競争力を失う。
日本に続いて経済発展を遂げた他のアジアの国々についても、これは言えることだと思う。
低賃金の国は他にもあり、もう一つの条件を満たすことができれば、そちらにシフトして行く。
それを避けることは、むずかしいことだろう。
問題は、その時点までにある程度の国の生活水準を引き上げることができるか、長期的な低落に耐えられる経済体制を構築できているかだ。
国民総所得というものがあって、 これは国全体の数字なので、これを人口で割れば、国民1人あたりの問題を扱うことができる。
逆に言えば、人口が10倍の国が、同じ水準となるには、10倍の国民総所得が必要になる。