晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

近くて遠い

入院中の妻の母に、1年ぶりに面会した。

1年以上面会できていない場合ということで、面会できますとの連絡が病院からあったのだ。

コロナウィルスのために、昨年2月から入院患者への面会ができなくなっていた。

その1ヶ月後くらいに、お願いしてちょっとだけ顔を見せてもらったことがある。

病院の心配はわかるので、その後面会することはなかった。

確かに、クラスターでも発生したら、大変なことである。

久しぶりにあった母は、以前と変わらなかった。

弱ってしまってることを心配していたのだが、ほっとした。

 

病院は、自宅から歩いて2、3分のところにある。

いつでも、会いに行けた。

私も、毎日会いに行っていた。

一昨年の夏に、倒れて身体が麻痺し、話すことができなくなった。

それまでは、北千住の駅に近いURの団地にひとりで暮らしていた。

すぐに駅近くのにぎやかなところに行けたので、東京で生まれて育った母にとっては、いい環境だったと思う。

趣味も多く、どこでも出かけて、お話の好きな人である。

今は話すことはできないが、目や口もとの動きを見ていると、こちらの話していることはわかっていて、何か話そうとしてると思える。

できるだけ、話しかけるようにしている。

 

 

会いに行くことくらいしかできないのに、それもできなくなってしまった。

妻の弟は、横浜と結城に住んでいる。

ときどき、会いに来ていたのだが、今はそれもかなわない。

病院は、5階建てである。

1階が、ロビーと診察室。

2階から4階が、病室。

5階が、リハビリ施設とレストランになっている。

毎月、入院料の支払いに会計窓口へ行く。

1ヶ月の経つのが、なんと早いことだろう。

この状態が、いつまで続くのだろうか。

 

母の病室は、4人部屋だった。

面会中止になるまでは、面会時間になるとそれぞれの家族が見えていた。

退院もままならないので、面会しかできることがないという、私たちと同じような境遇だったと思う。

それを考えると、面会できないこの1年間がいかに長い時間だったことだろう。

最初に救急で北千住に近い病院に入院した。

とりあえず病状が安定したということで、転院をすすめられた。

荒川区の病院を紹介されたが、それだとなかなか会いに行けない。

自宅の近くの病院に転院できないか、先生にお願いしたら、転院できることになった。

おかげで、いつでも会えるので安心していた。

我が家から、病室まで、直線距離にしたら100mちょっとしかないと思う。

こんなに近くにいるのに、なんと遠いことだろう。

はやく、かつてのような普通の生活がもどってほしいな。

 

 

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