晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

光ヶ丘団地と光ヶ丘マーケット

1987年(昭和62年)、私は今も居住する光ヶ丘に転居してきた。

3階建ての分譲型の集合住宅だったが、隣接してもっと広大な賃貸型の集合住宅があった。

それが、日本住宅公団が郊外に大規模な住宅を建設するという方針に基づいて、最初に造成された団地、光ヶ丘団地だった

ニュータウン」という名が初めて使われた。

当時日本初ということで、皇太子夫妻が訪問というようなニュース映画の動画を見たことがある。

竣工が1957年(昭和32年)となっているので、もう30年経過していた。

データでは、109棟、973戸となっている。

よくあるような3階建てフラット棟が20棟、庭付きのテラスハウスが89棟である。

テラスハウスが中心だったせいか、落ち着いた雰囲気だった。

そして、子どもが多くてにぎやかだった。

 

団地の一角に、「光ヶ丘マーケット」というのがあった。

スーパーマーケットではなく、マーケットである。

つまり、市場である。

平家の建物のなかに、下町の商店街のような市場が入っていた。

八百屋や肉屋など、商店街にありそうなものは入っていた。

いつも、混み合っていた記憶がある。

道路を挟んだ向こう側には、本屋や床屋などが並んだ商店街もあった。

そして、団地を囲むバスが通る車道は、ずらっと光ヶ丘商店街があって、にぎやかだった。

豆腐屋さんもあったし、ビデオのレンタル屋もあった。

大きな街で、夏祭りも盛大だった。

我が家はそこに隣接する小さな団地だったが、そちらに出かけていた。

子どもたちは、「マンモス公園」で遊んでいた。

今考えると、マンモスというほど大きくはなかった。

 

光ヶ丘に住んで10年くらいして、団地の建て替え問題が持ち上がった。

確かに、団地ができて40年以上経過して老朽化していた。

ほとんどの建物が低層で、多くは庭付きの平家や2階建てのテラスハウスだったので、土地を有効利用しようというのもあったと思う。

何年かを区切って、立ち退きということになった。

噂では、立退料はかなり大きな金額ということだった。

そこに何十年も住んでいて愛着の強い人が多かったのだと思う。

建て替え反対の動きが出て、立ち退きを拒否する人たちが出た。

結局は、賃貸住宅であり、賃貸契約があるので、建て替えは計画通り進み、立ち退き拒否の運動はニュースになったりしたが、最終的には団地は無人になった。

 

大きな団地が無人になってしまったので、団地を取り囲んでいた商店街の店舗はポツポツと閉鎖していった。

我が家も利用していたビデオのレンタル屋さんがなくなってしまった。

本屋も無くなってしまった。

しょうがないので、周辺の店に車で出かけてなければならなくなった。

団地の建て替えは、ずいぶん年数がかかった。

新しい団地は、14階という高層の建物になる計画だった。

そこで、近隣の地区と日照権の問題が発生した。

私の住む集合住宅も高層の建物によって日照の被害を受けるということで交渉していた。

結局、14階を11階とすることで決着した。

高層の建物によってテレビ電波の受信障害が生ずる問題は、市内にあるケーブルテレビ局から再送信し、その経費を住宅都市整備公団が負担するということになったようだ。

テレビ電波の再送信は、現在も行われている。

 

光ヶ丘団地の跡地の一部は、民間に売却された。

民間マンションが、2社で4棟建設されている。

民間の総合病院ができたので、とても便利になった。

隣接する麗澤大学に売却した跡地には、生涯教育プラザとカフェと紀伊国屋書店がある学生プラザになっている。

マーケットだったあたりには、コンビニができている。

団地は高層なので、以前より居住者が増えていると思うが、歩いていても歩行者も少なく生活感がない。

かつてのにぎやかな光景が、なつかしく感じる。

 

 

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