晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

父という人について

父の命日の日に、墓参りに行ってきた。

お彼岸やお盆には墓参りに行くが、命日にはあまり行ったことがない。

ちょうど、妻も用事がなかったので、二人で出かけた。

妻が墓参りに行こう、と言ったのだった。

いつもだったら、私の父と母の墓、そして妻の父の墓の二ヶ所に行く。

その日は、私の父と母の墓だけにした。

考えてみたら、もう31年経っていた。

計算してみたら、父が亡くなった時、私は36歳だったことになる。

父の生年は、大正15年で西暦では1926年である。

和暦だと、年齢を計算する時に間違えてしまうことが多い。

西暦で覚えていなかったので、勘違いしてしまうことになる。

 

父のことを、年数で考えたことはなかった。

36年間、いっしょにいたことになる。

でも、父は30代くらいから、出稼ぎの生活をしていた。

私が、小学生、中学生、高校生の頃は、父は家にいなかった。

正月とお盆に帰って来て、1週間くらいすると仕事に帰っていく。

母と、子ども3人の母子家庭のようなものだった。

私が、何歳の頃から出稼ぎに出ていたかは、はっきりわからないが、小学生の頃にはもう、いなかった。

その前は、国有林の木材の払い下げの仕事をしていた。

木材の暴落で、借金を背負い、出稼ぎ生活になったらしい。

物心ついて、はじめて毎日父と生活したのが、横浜での学生生活の4年間だった。

卒業して、千葉に就職して一人暮らしを3年ほどしてから、松戸で親子3人で暮らすことになった。

そのあと、結婚して5年ほど家を離れて、転居してまたいっしょに暮らすようになった。

だから計算すると、父といっしょに暮らしたのは、36年間のうちの半分くらいだと思う。

 

父は、農家の7人兄弟姉妹の末っ子だった。

義務教育終了後、東京に就職している。

詳しくは聞いてないが、工場で働きながら夜間の学校へ行ってたと話していた。

第二次世界大戦開戦前のことで、東京空襲がひどくなって郷里に帰ったらしい。

そして、3人の子どもを育ててるうちに、出稼ぎに出ることになる。

10年以上になる出稼ぎ生活は大変だったと思うが、父はそれほど悲壮感というか、負担には感じてなかったと思う。

精神的に自由というか、前向きな人だったと思う。

北は北海道から、西はたしか大阪にも行っていた。

東京オリンピック1964の前の東京で、中央高速の工事現場でも働いていた。

それは、若い頃から、東京に出て来てたり、日本中のいろんなところを見ていたことが、そうしたのかも知れない。

 

小学校何年生だったか、父に聞かれたことがある。

大きくなったら、何をするんだ。

私には、なんと答えていいかわからなかった。

まわりにあるのは、田んぼと畑とあとは山での仕事しか思い当たらなかった。

田んぼと畑は、食べていくだけの広さはない。

私は、山の仕事、具体的には営林署かなと言ったと思う。

お前は、体が小さいから力仕事は無理だから、勉強して頭の仕事をした方がいい、と言われた。

学校は、なんとかする、と父は言った。

今考えると、父は私よりもさらに小柄だった。

その、体で力仕事の世界で生きていた。

その後、そんな話をしたことはなかった。

父のことばは、ずっと私の中にあって、結局そのとおりになった。

 

親と子の関係は、人それぞれだと思う。

私は、母と姉2人の中で暮らしていた。

出稼ぎにあっちへ行ったり、こっちへ行ったりの父のことを、母と姉達は風来坊みたいに言うこともあった。

私は、父のことをわかっているのは、自分だけだと思っていた。

子どもながらに、男同士の思いだったかもしれない。

 

父は、お酒は飲まなかった。

若い頃に、仕事上のつきあいで飲んでいたいが、酒は弱かった。

飲みつぶれて、若い衆に運ばれて帰って来たのを、覚えている。

そのかわり、甘いものや果物が好きだった。

お茶を飲みながら、何か考えていた。

歩いたり、考えたりするのが好きだったのだ。

そんな父には、自由な老後を楽しんで欲しかったな、と思う。

 

 

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