小金原団地を目指して、歩き始めた。
今は、光ヶ丘・酒井根の台地と小金原団地の台地の間の低地にいる。
しばらくして、小金原団地の建物が見えて来た。
小金原団地の斜面の下には、小さな川が南から北に向かって流れている。
これが、上富士川で、根木内城址公園の東部を過ぎて、さらに北上し富士川と名を変え、平賀川の流れを合わせて、運転免許センターのある前ヶ崎で、坂川に合流する。
小金原団地の中央部にある小金原公園を、久しぶりに歩いた。
公園を抜けると、小金原中央商店街である。
入り口に、体育館があったのだが、こんなのがあったか記憶がない。
商店街は、いくつかシャッターが閉まったままのものもあった。
かつて、東武と西武の二つのスーパーが向かい合っていたのだが、東武の方はドラッグストアになっていた。
父が入院していた病院は、サービス付き高齢者住宅になっていた。
病院だった名残に、一階にはクリニックがあった。
近くに、交番や郵便局本局もあって、小金原団地の中心である。
大きな通りをはさんで、向かい側に古い商店が並んでいる。
和菓子屋さんや肉屋さんは、昔ながらに営業していたので、うれしくなった。
この近くに、茂侶神社はあることになっているが、とてもそんな雰囲気はない。
商店が途切れたところから、脇道に入って進むと、斜め前方に背の高い樹木が見えた。
100mくらいのところで、右手に突然鳥居が現れた。
小金原茂侶神社は、延長5年(927年)に作成された延喜式神名帳に記載されている式内社であるといわれている。
しかし、延喜式には「下総国葛飾郡茂侶神社」とあり、この地域に茂侶神社を称する神社は3社ある。
流山市三輪野山にある茂侶神社と船橋市東船橋にある茂侶神社である。
延喜式にある茂侶神社が、この3社のうちどれであるかは確定されていない。
江戸時代にこの地には、水戸徳川家の鷹場があり、徳川光圀もたびたび訪れており、この神社の由来を調べさせたとの記録があるらしい。
その関係もあって、社殿の修復の際には、水戸徳川家が手当を支出されていた。
神社の歴史が古いだけあって、境内には樹齢の長そうな巨木が多く見られた。
本殿を見ようと、拝殿の脇を進む。
本殿は、樹齢の古い巨木がおい繁っていた。
茂侶神社の境内は、南北に細長くなっている。
鳥居から拝殿まで石畳が続いているが、境内の東側はほとんど余地がなく、住宅が迫っている。
境内の西側は、石畳とは並行でない団地内の道路となっている。
鳥居と本殿は、きれいに南北の方向になっていた。
だから、神社の敷地は、南側が広く、北側が狭くなっている。
茂侶神社の「もろ」ということばが気になっていた。
「茂呂」という苗字の人には会ったことがあるが、「茂侶神社」というのは、先の三社以外にはないようであるある。
小金原茂侶神社の境内には、由緒のようなものはなかった。
しかし、流山の茂侶神社は旧称が「三輪神社」といわれていたらしく、住所も流山市三輪野山であり、奈良の三輪山と関係があると言われている。
三輪山の旧名が、御諸山(みもろやま)であることを考えると、延喜式の「茂侶神社」は、流山の可能性が高いかもしれない。
近いうちに、訪ねてみたいと思う。
地図アプリでこの辺りを見ると、茂侶神社は、「茂侶社」と表示され、まわりは畑になっていて、住居の表示が多くあり、かなり大きな村だったようだ。
茂侶神社の参道が、きれいに南北になっているのがわかる。
帰り道、歩いていると、あちらこちらに緑の森が見える。
それは、どうも農家の裏にある林のようである。
里山というのだろうか、そういう森がまだこの辺りは残っているのだ。
光ヶ丘に戻りながら、小金原を見る。
この森が、いつまでも残っていてほしいものである。
腰をおろしたのは、3回ほどで歩き続けた。
2時間くらいで、8キロくらいだった。
思ったよりも、近いものだ。
青色が、標高10m未満、茶色標高10m以上20m未満、緑色標高20m以上である。
酒井根と小金原の間は、南北に低地が続いていて川が流れている。