江戸川をサイクリングしていると、「渡場跡」の表示がされているのを、よく見る。
街道があるわけではないところにあるので、もっと生活に密着した渡場だったのだろうと思う。
江戸時代に、下総国の葛飾郡の江戸川より西側部分が、武蔵国とされたので、それによって分断されたものがあるかもしれない。
江戸川など、かつての河川は洪水を防ぐために、河川の流れを大きく変更することがあったようである。
所有する田畑が、川向こうになってしまった、ということもあったかもしれない。
江戸川の渡しといったら、「矢切の渡し」が有名である。
矢切りの渡しは、現在でも運行されている。
松戸市観光協会のよると、「矢切りの渡し」は有限会社矢切渡船が運営・運行していて、明治時代から杉浦家において、世襲制で代々運行を引き継いでいる、となっている。
江戸時代、軍事的理由により架橋が許されないことが多かった。
幕府は、渡場として関東16ヶ所を定船場(じょうふなば)として、指定した。
江戸川では、松戸、市川が定められている。
幕府は、この船場以外での勝手な渡船の禁止、女人・負傷者他、不審者の取り調べなどを規定した。
矢切の渡しは、このうちの松戸の船場であり、水戸街道の金町と矢切を結ぶもので、金町松戸関所が設けられた。
関所跡は、今は河川敷になっているが、「金町関所跡乃記」の石碑は、東京都金町ポンプ所の隣に建てられている。
市川の船場は、佐倉道の小岩と市川を結ぶもので、小岩市川関所は、現在の東京都江戸川区北小岩にあった。
この二つは、江戸幕府が定めた公式な渡しである。
しかし、江戸川にはこのほかにも地元の利便のための渡しがあったようである。
流山市の江戸川土手は、約10kmほどである。
この10kmの範囲に、8箇所の渡し場があったことを後世に残そうと、地元の観光協会が8本の標柱を整備している。
寺社参拝や商用の他、江戸川の改修などで分村や飛地ができたので、農作業用の渡しが必要だったらしい。
北から、次のとおりである。
深井新田の渡し、尼谷の渡し、六兵衛の渡し、半割の渡し
羽口の渡し、矢河原の渡し、丹後の渡し、幸房の渡し
その実態も、村が運営したもの、地元の有志で運営したもの、個人が運営したもの、とさまざまである。
規模も、馬や牛も運べて人なら30人も乗れるものから、もっと小さなものまであったらしい。
明治、大正、昭和と存続していたが、戦後交通事情の変化とよって、ほとんどが廃止された。
確かに、多くの橋が架けられるようになって、渡し船でなければという必要はなくなったのだろう。
サイクリングしていると、これは県道何号のなんとか橋、これは国道何号のなんとか橋、JR何線の鉄橋といった具合に、その都度下をくぐらないといけない。
今は、かつての船場は無くなってしまったが、緊急災害用の船着場が数ヶ所に作られている。