晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

国名について調べてみた⑥ 東北地方中編

これは、私の日本の歴史の勉強のための覚書です。調べたこと、考えたことを書きとめてます。 令制国というものに興味があって、気が向けば調べたりしている。

 

平安初期には、「蝦夷」を、出羽側は「蝦狄」と陸奥側は「蝦夷」と分けて記録されているという。

東北を、奥羽山脈を挟んで、西側が出羽国、東側が陸奥国とそれぞれに北上して、出先の柵や城を建設して行ったようである。

そのせいか、出羽国陸奥国の境は、不明瞭だったようだ。

のちに、陸奥国となる紫波郡出羽国紫波村になっていたり、出羽国になる比内郡は陸奥国比内郡とされていたようである。

比内郡というのは、現在の秋田県大館市北秋田郡北秋田市である。

私の郷里である大館は、この時点では陸奥国だった。

比内郡が、出羽国秋田郡編入されるのは、天正10年(1590年)の豊臣秀吉朱印状によってである。

比内郡の隣には、鹿角郡があるが、鹿角郡は郡が成立して以来、陸奥国に属していた。

 

平安時代後期に、中央からの統制が弛緩すると、俘囚長を名乗る安倍氏が、陸奥国の中部である奥六郡そして陸奥国北部に勢力を振るった。

しかし、国司に従わず、前九年の役で敗れて、滅亡した。

この戦いに、源頼義が介入し、出羽に本拠を持つ清原氏の加勢を得て、勝利した。

清原氏は、その後出羽国陸奥国の両国に権威をもった。

清原氏の内紛に介入した源義家は、清原家衡・武衡連合軍を出羽国金沢の柵で破り、清原氏総領家は滅亡した。

この戦いは、後三年の役といわれる。

義家の助力を得た清原清衡は、安倍氏の外孫であり、母親の再婚よって清原氏の養子になっていたが、清原氏の旧領をすべて手に入れ、実父である藤原経清の姓藤原に復した。

 

奥州藤原氏は、朝廷が派遣した国司をうけいれ、第一の有力者として協力するという姿勢で対処した。

朝廷や、摂関家に対する献上品や具物を欠かさなかったため、奥州藤原氏を信頼し、事実上の欧州支配を容認した。

平安時代末期において、出羽国府の直接管轄地以外は陸奥国とされたようである。

北部の比内郡と鹿角郡だけではなく、「山北三郡」と呼ばれる山本郡・雄勝郡平鹿郡藤原氏の勢力範囲にあり、陸奥国とみなされていたようである。

清衡、基衡、秀衡、泰衡と4代100年にわたって繁栄し、平泉は平安京に次ぐ日本第二の都市になったといわれる。

しかし、鎌倉幕府を成立させた源頼朝は、背後に長年独自政権を敷いてきた勢力があることを恐れ、義経を匿っていたことを理由に奥州に出兵した。

泰衡は、すでに義経を自決させていたが許されず、比内郡の贄柵に敗走し、家臣だった贄柵の領主河田次郎によって殺害された。

これによって、奥州藤原氏は滅亡した。

 

頼朝は、陸奥国出羽国に守護は置かず、御家人を関東から地頭として配置した。

この武士たちが、戦国時代まで割拠することになる。

葛西清重が、「奥州惣奉行」に就任し、平泉の統治を任され、下総国葛西郡から石巻に移った。
葛西氏は、米代川流域にも勢力範囲を広げた。

陸奥国では、ほかに、蘆名氏、安藤氏、石川氏、工藤氏、熊谷氏、相馬氏、南部氏、和賀氏が地頭として配置された。

出羽国では、橘氏、平賀氏、小野寺氏、武藤氏、大江氏、中条氏、二階堂氏、安達氏、などが配置された。

 

このうちの陸奥国の南部氏は、のちに江戸時代に盛岡藩の当主となっている。

南部氏は、甲斐源氏の加賀美氏の系統だったが、甲斐国巨摩郡南部郷を領したことから、南部三郎光行を称した。

南部氏は、現在の青森県岩手県の境となる糠部郷を本拠とした。

南部宗家は、三戸南部氏であったが、一戸、八戸、七戸、四戸、九戸にも同族があった。

 

比内郡には、鎌倉幕府成立と同時に、甲斐国八代郡浅利郷を本拠とする浅利義遠が比内郡地頭として置かれた。

比内浅利氏による支配は、天正10年(1582年)に浅利勝頼が安東氏に討たれるまで続いた。

安倍氏の末裔とされる安東氏は、天正18年以降、秋田城介を名乗り、秋田氏を称した。

豊臣政権によって、出羽秋田52404石の大名として認められている。

奥州合戦といわれる奥州藤原氏源頼朝の戦いの後、年代は不明であるが、鹿角郡に地頭として、関東武士団の成田氏とその一族の奈良・安保・秋元・成田の四氏が入部し、郡内郷村に定着する。

成田氏は武蔵国埼西郡成田郷を、安保氏は武蔵国賀美郡阿保郷を、秋元氏は上総国周准秋元郷を本拠としていたものである。

 

平安時代律令制のもとで、出羽国陸奥国に派遣された国司は、その任期が終われば京に帰ったことだろう。

しかし、鎌倉幕府が任命した地頭は、その土地と百姓を自己が所有することを認められたのである。

このようにして、将軍の御家人だった関東の武士たちは、陸奥国出羽国だけではなく、日本の全国に配置された。

そして、その土地に定着していった。

 

比内郡や鹿角郡に配置された地頭の姓は、それまでその地になかったものだったと思われる。

浅利、成田、安保、秋元、奈良という姓は、私の中学校や高校時代の同級生のなかにすべて見つけることができた。

考えてみると、頼朝がやったことは、日本の社会制度を考えたらとんでもないことだったじゃないだろうか。

まったく文化的にも違うところに、違う人間を持っていく。

種を蒔いて、植え付けてしまう。

後の、江戸幕府の大名なんて、サラリーマンみたいなものだ。

人事異動で、どこに行かされるかわからない。

頼朝が、陸奥と出羽にまいたものは、数百年後の今につながっている。

 

 

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