晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

オリンピック 1940 1964 2020

ほんとに、オリンピックをやるらしい。

あとで、後悔することがないことを、願うしかない。

世の中には、希望的観測というのがあるが、これはあくまで「希望」である。

冷静に予測したようになるのが、現実である。

 

東京オリンピックというと、私の子ども時代の東京オリンピック1964が思い浮かぶが、それよりも24年前の1940年に開催されるはずだったということは、ずいぶんと後になって知った。

東京オリンピック1940は、昭和15年9月21日から10月6日まで、開催される予定だったという。

1935年のオスロでのIOC総会で、ローマ、ヘルシンキを破って開催が決定した。

同時に、冬季オリンピックも札幌で開催することが決定している。

しかし、1938年には日中戦争の勃発により、実施を返上した。

その結果、代替地として、次点だったヘルシンキに決定したが、第二次世界大戦のために中止になった。

そういう思いがあっての、1964年のオリンピックだったんだなあ。

 

さかのぼって、東京オリンピックの開催が決まった頃を思い出すと、開催に賛成する意見や反対の意見は、半々くらいだったような気がする。

やらなくてもいいんじゃないのとか、やる必要があるの、というのが正直なところあったと思う。

オリンピックって、都市が立候補するけれど決まってしまえば国の事業になってしまう。なんとも、よくわからないものである。

さらにさかのぼると、青島幸男さんという方が、現職の東京都知事が推進している「世界都市博覧会」の開催に反対を掲げ、知事選に立候補して勝ってしまって、博覧会を中止にしたことがある。

1995年のことだった。

さらにさかのぼって、1964年の東京オリンピックの開催前の世論調査では、半分くらいは、開催反対だったらしい。

「大変な費用がかかるのを、国民に負担させる。

オリンピックに多くの費用をかけるくらいなら、ほかにやることがたくさんある。

オリンピックはけっこうだが、私には関係ない。」

今と、あまり変わらない。

 

東京オリンピック2020の開催が決まった時、そんな暑い時にやって大丈夫か、ということのなって、たしかマラソンは札幌でやることになった。

1964年のオリンピックは、10月の気温的には申し分のない時期にやっている。

次のメキシコオリンピック1968も、やはり10月に行っていた。

7月8月という、バカンスの次期に開催するようになったのは、1972年のミュンヘン大会からである。

これはやっぱり、オリンピックが商業化していったことと無関係ではないだろう。

今回の大会でも、夜に組まれている競技があるらしい。

テレビの放映権を握っているアメリカの、ゴールデンアワーに合わせてるなどということは、ずいぶん前から言われていた。

 

 

小学5年生の時に、東京オリンピック1964が開催された。

我が家には、まだテレビがなかったので、オリンピックの中継はよその家で見たのだと思う。

東京大会の前は、ローマ大会だったということだったが、4年前は騒いでいた記憶がない。

テレビも普及していないし、新聞ラジオくらいだったのだろう。

金メダル16個というのは、記憶に刻まれている。

市川崑さん記録映画も全校で町の映画館に見に行った。

あと記憶にあるのは、メダリストに秋田県出身者がいることだった。

なぜか、体操チームに4人もいた。

金メダルの男子体操に、小野喬選手と遠藤幸雄選手がいて、銅メダルの女子体操に、小野清子選手と虻川吟子選手がいた。

体操で有名な高校とかあったかな、不思議である。

はるか昔の記憶である。

 

 

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