晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

音楽を聴くのも才能だろうか

YouTubeを見るのは、習慣化しているので、とりあえず開いてみる感じである。

それまで見ていた履歴などが反映されるのか、おすすめらしいものが表示される。

たまには、今まで見たことない、面白そうなのを見ることもある。

お気に入り登録するようなマメさはないので、いつのまにか表示されなくなって、忘れられたりする。

そういえば、子犬、や子猫ものとか、赤ちゃんものとか最近見てない。

見てるだけで、いやされるというのか、おもしろい。

おすすめに出てこなくてなってしまった。

かといって、検索して探すほどではない。

 

YouTubeを見るようになったきっかけは、バンドのライブ映像だった。

いろんなバンドが、オフィシャル・ビデオを提供している。

かつて、まだインターネットがない頃に、MVとかいうのがあった。

あれは、いわゆる宣伝用にマスコミやメディアに提供していたのだろう。

それを集めたテレビ番組もあったような気がするが、いつ頃のことだったろう。

YouTubeを見てるうちに、ただビデオを見るだけではなく、ふつうの人がビデオを見ている映像を見るようになった。

いわゆる「リアクション・ビデオ」というやつだ。

 

音楽を聞くということは、受動的な行為だと思ってきた。

音楽を作ったり、歌ったり、演奏したりすることは、能動的というのかな、外に出て行く行為だ。

でも、それを聞いていることは、受け身だと思っていた。

でも、「リアクション・ビデオ」というやつを見るようになって、少し考えが変わってきた。

同じ音楽を、ビデオをいろんな人が聞いている。

それを、聞いている様子はそれぞれまったく違っている。

その音楽を、どこが素晴らしいかやたらと解説しようとする人がいる。

ただただ、感動して、音楽が終わってから、感想を話す人がいる。

異国語がうけいれられなくて、どうしていいかわからない人もいる。

歌い方や、演奏について、技術的な問題を伝えようとする人がいる。

とにかく、人によって、いろいろな受け取り方がある。

まあ考えてみたら、リアクション・ビデオをつくろうとすること自体が、受動的な行為ではない。

そのリアクション・ビデオを見ている私の行為は、受け身であるとは思う。

 

同じように、文章を書くことは、能動的な行為だけど、その文書を読むことは、受け身の行為だと思ってきた。

どこかで、学ぶということは、まねることからきている、というのを読んだような気がする。

ということは、歌うためには、聞くことが必要なのだ。

書くためには、読むことが必要なのだ。

とてもあたりまえのことを、今ごろに思いついている。

 

 

seiko-udoku.hatenadiary.jp

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