千葉県には、城址といわれるものが多く残っている。
現存天守といわれる天守がそのままで残っているものは、全国で12しかないので千葉県にはまったく残っていない。
そしてなぜか、復元された天守は、博物館として建設されている。
それは、千葉県だけのことではなく、日本全国同じような状況のようである。
千葉県内には、復元された天守兼博物館が、五つあるようだが、私はすべて行っている。
とは言っても、天守は見ているが博物館の中を見学したのは二つだけのような気がする。
そこで、上総下総には、徳川の譜代家臣団が配置された。
しかし、常陸の佐竹氏は、関ヶ原合戦後に、出羽国秋田へ転封された。
安房の里見氏も、大久保忠隣の失脚の余波を受けて改易、その後断絶した。
江戸に近いことから、大きな大名家は置かれず、小大名領と旗本領と天領に細かく分割された。
その中でも、佐倉藩11万石と関宿藩5万石には、幕府の重鎮が配置された。
関宿藩は、利根川と江戸川の分岐点であり、利根川水運の要衝であることから、幕府にとって重要拠点であった。
千葉県立関宿城博物館は、ちばけんの最北端にあるスーパー堤防上に建設されている。
建物のうちの天守閣部分は、かつての関宿城を古い記録に基づいて再現している。
実際の関宿城は、もっと南にあったようである。
博物館の展示としては、洪水との闘いから考えられた水塚や、利根川流域の大がかりな河川改修工事、利根運河の開削、手賀沼と印旛沼の干拓について紹介されている。
利根川の河川交通と流域の伝統産業についての展示、そして関宿藩について展示されている。
里見氏が改易された時に、その居城館山城は完全に破却されている。
館山城のあった城山は、現在城山公園として整備されているが、山頂には三層四階の模擬天守が、八犬伝博物館として建設されている。
城山公園中腹には、館山市立博物館本館がある。
本館では、海との関わりで発展してきた安房の歴史と10代170年にわたってこの地を支配した里見氏について展示している。
八犬伝博物館では、里見氏を題材にした「南総里見八犬伝」の版木や錦絵など各種資料が展示されている。
久留里城は、室町時代に上総武田氏が築城したといわれ、その子孫真里谷氏の居城であった。
しかし、戦国時代には、里見氏の拠るところとなり、江戸時代には久留里藩の藩庁となっている。
再現された天守は、浜松城をモデルとした二層三階の模擬天守であり、二層二階と思われる江戸時代のものとは違っている。
展示内容は、次の三点からなっている。
「郷土を掘る」として、君津市内の遺跡から出土した石器、土器、木製品などを中心に展示している。
「城と武士」として、「雨城」、「霧降城」の別名を持つ久留里城の築城伝説や、歴代城主とその家臣団についての資料がある。
「信仰と文化」として、絵馬や神楽などを通して、風習や信仰の展示がある。
大多喜城は、戦国時代に真里谷氏が築城したが、里見氏に奪われている。
その後、徳川家康の配下本多忠勝が城主となり、三層四階の天守を持つ城郭へ大改修を行った。
南の里見氏が北上することを防ぐためである。
1966年に、本丸跡が千葉県の史跡に指定され、1975年に江戸時代の図面を元に天守が再建され、内部に千葉県立中央博物館大多喜城分館が設置された。
房総の大名や城についての展示、刀剣・火縄銃など武士に関する資料、大多喜城と城下町のジオラマ模型を展示している。
亥鼻城は、千葉常重が大治元年(1126年)に、上総国大椎城から下総国のこの地に拠点を移したといわれる。
千葉氏は、桓武平氏の平忠常の子孫で、常重の子常胤の時に千葉氏を名乗るようになる。
康正元年(1455年)に、下総原氏の原胤房に追われるまで、13代330年にわたって両総に覇を唱えた。
亥鼻城は廃城となったが、昭和34年(1959年)に歴史公園として整備され、昭和42年(1967年)に、四層五階の模擬天守のある千葉市立郷土博物館が建造された。
常時展示は、「武器と武具」で、火縄銃、刀、甲冑について、個々の特徴や時代的な変化について紹介している。
今回は、千葉県内のお城と博物館について調べてみた。
日本全国には、数え切れないほどの城址がある。
そして、かなりのものがさまざまな形で再現されている。
多くは、外観だけを復元した外観復元天守と言われるものであろう。
他には、天守のなかった城に天守を作ってしまった模擬天守や、かつてあったものとは違う天守を作ってしまったものもある。
たしかに、ただのコンクリートの四角い博物館を作ってしまうよりは、天守閣のある建物の方が日本人にとっては、親しみやすいのかもしれない。