晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

考えることはいろいろある

一昨日が、コロナワクチンの二回目接種だったので、昨日は出かけず静かにしていた。

徒歩3、4分の病院で、とても手際良く待機の時間を入れても、出かけてから1時間くらいで帰宅できた。

発熱やだるさなど、副作用というようなものはまったくなかった。

一回目の接種でも、特に何事もなかったのだが、二回目は副作用の症状が出る割合が高いというのは聞いていたので、少し身構えてはいた。

若い人の方が、副作用が出やすいらしい、と妻に言われてしまった。

そうかもしれない。

妻は、一週間遅れで接種している。

息子たちも、今月中に一回目で、来月中旬くらいには二回目が終わる。

 

一時は、ワクチンさえやればおさまるんじゃないかという雰囲気だったけど、どうもそうではないらしい。

しばらくは、インフルエンザのように、毎年やらなければならないのかもしれない。

コロナの死者が出始めた頃、インフルエンザによる死者数は、万人単位だという記事を読んだ記憶がある。

日本でも1万人、アメリカだと何万人もいるということだった。

世界だと、年間30万から60万人になる。

でも、コロナによる死者は、すでに日本で1万五千人を越えて、アメリカでは60万人を越えている。

そして、ブラジル56万人、インド42万人、メキシコ24万人が続いている。

 

8月になると、原爆や終戦など戦争関係のテレビ番組が、これでもかというように放送されていた。

今年は、オリンピックがあるせいかそれほどでもなかった。

オリンピックとしては、原爆に関わるような行事は組まれなかったようだ。

私は、二十歳の夏に、広島と長崎を訪ねた。

広島の平和記念資料館と長崎の原爆資料館に行った。

たぶん、しばらくは日本でオリンピックを開催することはないだろう。

広島と長崎のあと、4分の3世紀の間それに続くことがなかった。

広島と長崎があったからこそ、原爆が使われることがなかった。

そして、こうして日本という地でスポーツの祭典であるオリンピックが、開催されていることの意味を考える機会があってもよかったと思う。

自分のやりたいスポーツができるということの意味を、考えていいと思う。

 

きっと多くの人が、オリンピックの存在の意味について考えたと思う。

スポーツに打ち込む若者にとって、いや若者でなくても、いかに重要なものかはわかる。

でも、1964年のオリンピックとは、全く違うものに変わっている。

あえて、こんなにリスクのあることをやる必要があるのか。

今なら、もっと別の方法があるんじゃないのかな。

第一回のオリンピックがアテネで開催されたのが、1896年なのだそうだ。

100年以上経過しているわけで、どんなシステムでも時代に適合しなくなるだろう。

もう、根本的に考え直して、今の時代にあったものを考えていいのじゃないだろうか。

偉い方々が、たくさんいるだろうから叡智を結集して創り出して欲しいものである。

 

 

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