晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

忘れていたことを思い出す

幼い頃の記憶を掘りおこして、つなぎ合わせることがなんの意味があるのかわからない。

少年時代を過ごした場所を離れてしまった私にとって、その15年間は過去というものになって私の記憶の中にある。

もし、そこを離れずに、ずっとそこで生活していれば、過去の記憶は現在の生活につながっていて、特別な感慨はないだろう。

このブログを書くことがきっかけで、思い出したことがある。

これを、そのままにしておけば、また記憶の底に沈んで、また何年も思い出すことがないだろう。

 

農家だった我が家は、畑の他に田圃も持っていた。

一か所は、川向こうの集落に流れ込んでいる渓流をさかのぼって、何百メートルか行ったところにある山に囲まれた田圃である。

もう一か所は、なぜか、歩いたら1時間はかかる隣の村にあった。

どちらも、それほどの広さではなかった。

だから、父は山の木材を扱うのが専業で、ふだんは母の仕事だった。

田植えや稲刈りの時には、父も田圃の仕事を手伝った。

隣村にある田圃に行くときは、牛車に乗って行った記憶がある。

我が家で飼っている牛に、車を引かせて家族みんな乗って行った。

田植えにしても、稲刈りにしても、末っ子の私はたいした役には立たなかっただろう。

たぶん、何度もあったわけではなかったと思うが、楽しい思い出だ。

 

我が家は、魚の行商をしていたことがあった。

父が、魚を仕入れて来て、母が魚を背負って売りに歩いていた。

母が、雪道を歩いて行商するのについて行ったことがある。

父が、木材を扱う事業に失敗した後だったと思う。

なにしろ、冷蔵庫など無い時代なので、魚を扱えるのは雪がある冬くらいのものだ。

だから、そんなに長い期間では無い。

父は、魚の仕入れに青森まで行ってた。

私たちが住んでたのは、秋田県北東部の大館あたりである。

たぶん、秋田市まで行くよりは、青森市の方が近かったのだと思う。

大館からは、青森県弘前まで直通バスが出ていた。

距離的にも、精神的にも青森の方が近かったのだろう。

父が青森市の市場まで行くのに、ついて行った記憶がある。

列車など、ほとんど乗ったことのない私にとって、大旅行だった。

汽車の窓から、岩木山やリンゴ畑を見たような気がする。

 

今年も、川遊びで水難事故があって、小学生が亡くなったというニュースがあった。

公営の公園だが、川に隣接したところだったらしい。

川の怖さを知らないんだな、きっと一緒に行ってる親も怖さを知らない。

川で育った私は、偉そうにそう思った。

でも考えたら、私も川で溺れそこなっている。

小学校の低学年の頃の、村の年上の子たちと堰堤という砂防ダムに遊びに行った。

砂防ダムのたいらなコンクリートの上を、10cmくらいの深さで水がさーっと流れている。

年上の子達が、その水を駆けて行く真似して私も駆けて行った。

あっという間に、小柄な私は流されて、滝壺みたいなところに落ちた。

目の前は、水の泡だらけだった。

いつのまにか、気がついた子たちのよって、陸に引き上げられていた。

あの時に、誰も私の異変に気が付かなかったら、私は溺れていただろう。

そして、こうして存在していないだろう。

私の記憶にはずっと残っているが、助けてくれた子たちは忘れているかもしれない。

 

 

 

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