幼い頃の記憶を掘りおこして、つなぎ合わせることがなんの意味があるのかわからない。
少年時代を過ごした場所を離れてしまった私にとって、その15年間は過去というものになって私の記憶の中にある。
もし、そこを離れずに、ずっとそこで生活していれば、過去の記憶は現在の生活につながっていて、特別な感慨はないだろう。
このブログを書くことがきっかけで、思い出したことがある。
これを、そのままにしておけば、また記憶の底に沈んで、また何年も思い出すことがないだろう。
農家だった我が家は、畑の他に田圃も持っていた。
一か所は、川向こうの集落に流れ込んでいる渓流をさかのぼって、何百メートルか行ったところにある山に囲まれた田圃である。
もう一か所は、なぜか、歩いたら1時間はかかる隣の村にあった。
どちらも、それほどの広さではなかった。
だから、父は山の木材を扱うのが専業で、ふだんは母の仕事だった。
田植えや稲刈りの時には、父も田圃の仕事を手伝った。
隣村にある田圃に行くときは、牛車に乗って行った記憶がある。
我が家で飼っている牛に、車を引かせて家族みんな乗って行った。
田植えにしても、稲刈りにしても、末っ子の私はたいした役には立たなかっただろう。
たぶん、何度もあったわけではなかったと思うが、楽しい思い出だ。
我が家は、魚の行商をしていたことがあった。
父が、魚を仕入れて来て、母が魚を背負って売りに歩いていた。
母が、雪道を歩いて行商するのについて行ったことがある。
父が、木材を扱う事業に失敗した後だったと思う。
なにしろ、冷蔵庫など無い時代なので、魚を扱えるのは雪がある冬くらいのものだ。
だから、そんなに長い期間では無い。
父は、魚の仕入れに青森まで行ってた。
私たちが住んでたのは、秋田県北東部の大館あたりである。
たぶん、秋田市まで行くよりは、青森市の方が近かったのだと思う。
距離的にも、精神的にも青森の方が近かったのだろう。
父が青森市の市場まで行くのに、ついて行った記憶がある。
列車など、ほとんど乗ったことのない私にとって、大旅行だった。
汽車の窓から、岩木山やリンゴ畑を見たような気がする。
今年も、川遊びで水難事故があって、小学生が亡くなったというニュースがあった。
公営の公園だが、川に隣接したところだったらしい。
川の怖さを知らないんだな、きっと一緒に行ってる親も怖さを知らない。
川で育った私は、偉そうにそう思った。
でも考えたら、私も川で溺れそこなっている。
小学校の低学年の頃の、村の年上の子たちと堰堤という砂防ダムに遊びに行った。
砂防ダムのたいらなコンクリートの上を、10cmくらいの深さで水がさーっと流れている。
年上の子達が、その水を駆けて行く真似して私も駆けて行った。
あっという間に、小柄な私は流されて、滝壺みたいなところに落ちた。
目の前は、水の泡だらけだった。
いつのまにか、気がついた子たちのよって、陸に引き上げられていた。
あの時に、誰も私の異変に気が付かなかったら、私は溺れていただろう。
そして、こうして存在していないだろう。
私の記憶にはずっと残っているが、助けてくれた子たちは忘れているかもしれない。