これは、私の日本の歴史の勉強のための覚書です。調べたこと、考えたことを書きとめてます。 令制国というものに興味があって、気が向けば調べたりしています。
このところ、安房国、上総国、下総国という千葉県のことや、武蔵国のことを調べていた。
関東の他の国についても、気になってくる。
相模国や上毛野国、下毛野国、そして、私にとってはとても身近な地域である常陸国が気になってきた。
そこで、常陸国について調べてみた。
調べれば、調べるほど、面白いことがわかってくる。
それは、私が日本史について教科書の知識くらいしか、持っていないからである。
特に、令制国が登場する律令制度の時代については、ほんとに知識が少ない。
常陸国の全域と下総国の北部の一部で、明治初期に茨城県が成立した。
つまり、下総国のうち猿島郡、結城郡、豊田郡、岡田郡の全域と相馬郡、葛飾郡、香取郡の一部は、茨城県に移管された。
鬼怒川は、両国の間にある香取海に流れ込んでいた。
そして、香取海は太平洋につながっていて、それが常陸国と下総国の境でもあった。
鬼怒川は、栃木県日光市の鬼怒沼を源とし、 栃木県を流れ、さらに茨城県西部を南下し、守谷市のあたりで、利根川に合流しているが、かつては東に流れを変えて、香取海に注いでいた。
古くは、毛野国を流れる川ということで「毛野河」(けのかわ)と呼ばれていたが、のちに「衣川」や「絹川」の字が当てられるようになり、「鬼怒川」となったのは明治になってかららしい。
ということで、常陸国は鬼怒川と香取海に、西と南を囲まれ、東は太平洋、北は陸奥国となる。
律令制が敷かれる前に、常陸国の地域は多くの国造によって支配されていた。
仲国造 ひたちなか市。
道口岐閉国造 日立市助川。
常陸国もまた、上総国と同様に多くの国造の国が存在していたことから、中央政権との密接な関係が考えられる。
中央政権と常陸国の関係は、常陸国が親王任国であったことからもわかる。
地方に派遣する行政官である国司には、次の四階級があった。
守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)である。
826年(天長3年)、常陸国、上総国、上野国については、長官として必ず親王を任命することになった。
この場合は、「守」ではなく「太守」と呼ばれたが、現地に赴任しない遙任だったので、実務上の最高位は「介」だった。
任期は、六年で後に四年となった。
郡の官吏(郡司)は、在地の有力者、いわゆる旧豪族から任命された。
親王任国とされた三国に共通するのは、いずれも「大国」であり、かつ「遠国」であるということである。
しかし、それに該当する国は、他に四国あり、武蔵国、下総国、陸奥国、肥後国である。
令制国は、次のように分類されている。
国力による分類。 大国(13)、上国(35)、中国(11)、下国(9)。
都からの距離による分類。畿内(5)、近国(17)、中国(16)、遠国(30)。
初代常陸国国守は、700年(文武4年)に百済王遠寶が任命されている。
さらに、752年(天正勝宝4年)にも、百済王敬福が任命されている。
百済王遠寶は、祖父百済王善光が兄豊璋とともに、百済より人質として、宮家に近侍するうちに、百済が滅亡し、兄は百済再興のために帰国するが、善光は帰国せず留まったものである。
上総国国守も、746年百済王敬福、789年百済王玄鏡、799年百済王教徳が任命されている。
朝鮮半島の動乱期に、日本に渡って来た多くの渡来人に、関東の地に開発地を与えて住まわせたという歴史と関係あることだろうか。
すべての国で編纂されたのだろうが、残っているのはわずかに五カ国分が写本で残っている。
完本は「出雲国風土記」で、「播磨国風土記」、「肥前国風土記」、「常陸国風土記」、「豊後国風土記」は一部が欠損している。
「然名づける所以は、往来の道路、江海の津湾を隔てず、郡郷の境界、山河の峰谷に相続ければ、直道(ひたみち)の義をとって、名称と為せり。」
「倭武(やまとたける)の天皇、東の夷(えみし)の国を巡狩はして、新治の県を幸過ししに国造 那良珠命(ひならすのみこと)を遣わして、新に井を掘らしむと、流泉清く澄み、いとめずらしき。時に、乗輿を留めて、水を愛で、み手に洗いたまいしに、御衣の袖、泉に垂れて沾じぬ。すなわち、袖を浸すこころによって、この国の名とせり。風俗の諺に、筑波岳に黒雲かかり、衣袖漬(ころもでひたち)の国というはこれなり。」
今ひとつ、常陸国の名前の由来としては説得力に欠けるように思われる。
国分寺跡や国分尼寺跡も、石岡市内にあり、国分尼寺跡は、国の特別史跡に指定され、史跡公園として整備され市民の憩いの場となっている。
恋瀬川が霞ヶ浦に注ぐ河口付近の高台に、舟塚山古墳という前方後円墳がある。
全長186m、前方部幅100mという、立派なものである。
東国2位の規模らしい大きなものが、集落と畑に囲まれてあった。
何年か前に訪れたのだが、円墳が神社の森になっていたと思う。
この辺りが、古代からこの地方の中心だったのであろう。
前に、安房国、上総国、下総国のことを書いた時に、「神郡」というものがあったことに触れた。
律令制下において、一郡全体が特定の神社の所領・神域として定められた郡となっている。
全国に、十箇所しかないのに、この関東に三箇所あった。
安房国阿波神社の安房郡、下総国香取神宮の香取郡、常陸国鹿島神宮の鹿島郡である。
香取神宮と鹿島神宮が、伊勢神宮と同じように「神宮」を称していること、どちらも奉斎氏族が中臣氏系であることは、偶然ではないように思える。
陸奥国の領域にも、すでに多くの国造の国が存在していた。
陸奥菊多国造、石城国造、染羽国造、浮田国造、思国造、白河国造、石背国造、阿尺国造、信夫国造、伊久国造の10国である。
これらは、福島県浜通り、福島県中通り、宮城県南部あたりであり、福島県会津地方は含まれていないようである。
この時点では、陸奥国の北部に勢力を伸ばしていくために、常陸国は重要な位置にあったのかもしれない。