平将門王城跡を目指すも、行きつかなかったのは、もう1ヶ月も前である。
週に3日は、我が家は私だけで、留守番だ。
今日は、天気も良く、気温が上がりそうである。
出かけるにしても、自転車にするべきか、徒歩にすべきか迷った。
結局、歩くことにして、体に負荷をかけることにした。
平将門王城跡を、再度訪ねることにする。
陽射しは強かったが、風があって心地よかった。
名戸ケ谷で、田んぼを通った。
10日ほど前に、手賀沼サイクリングに来た時に、田んぼの稲はかなり穂を垂れていた。
今日は、更に穂が重そうに垂れていた。
増尾の森から流れて来た用水路が、大津川に注ぐところで土手に出る。
水の流れ込んでいるあたりを見ると、鯉が数十尾集まっている魚影が見えた。
この辺りの土手は、きれいに草刈りされていた。
そのせいで、土手の上を風が吹き抜けて気持ちがいい。
ところが、中の橋で県道を横切ると、草刈りはされてなかった。
土手の両側を1メートルを越える雑草が生えているので、草で熱くなった風が通って気持ち悪い。
草刈りしてあったのは、川のある方は1メートルくらいしか刈ってなくて、田んぼの側はきれいに刈ってあったので、田んぼの持ち主がやったのかも知れない。
前回、将門王城跡にたどり着けなかった。
帰った後で、いろいろ調べてみた。
将門ゆかりの寺となっている福満寺の近くにあることは、たしかである。
そこで、今回は前回とは反対の方向から向かうことにした。
遊歩道を、しばらく歩くと手賀沼をながめるための二階建て、と言うよりも高床式?の展望台がある。
その、脇にある農道を進んでぶつかる車道を渡ればいいはずである。
小さな水路を渡る。
車道に向かって進む。
車道を渡って、上り坂を歩いていくと、大きなお屋敷があった。
門の前に、大きな石材がゴロゴロしていた。
表札を見ると、市内にある石材店と同じ苗字だったので、ここが本宅なのかも知れない。
さらに、坂を登っていくと、「わらびのうえん」のカンバンを発見した。
「わらびのうえん」って、なんだろう。
さらに歩いて、台地の上に出ると、梨農家の販売所があった。
ここは、来たことがある。
妻と、二回ほど買いに来たことがある。
なるほど、この近くだったのか。
もう、「王城跡」は近いはずである。
キョロキョロしながら歩いてると、カンバンを見つけた。
板塀に、手書きのカンバンが張り付けてある。
カンバンにしたがって、王城通りを進んで行く。
そして、ついに「王城跡」のカンバンがあった。
期待したよりも、ささやかなものだった。
このように、書かれている。
王城の地
将門記の王城の地とはこの地なり
この地より眼下手賀沼を望めば大井の津が一望でき北に筑波山を拝し西に富士山を奉拝し関八州を手中にできる
この地こそ王城建設にふさわしい所であります
手賀沼南岸には大井郷と小溝郷が置かれ手賀沼北岸には布佐郷倉麻郷意部郷余部郷が置かれました
また同時代には東海道が京の大津から下総国府を通り大井より布施に渡り戸頭に出常陸の国石岡まで整備されました。
このように都市機能が整備なされたところに将門は相馬の都を建てることに決定しました
カンバンの脇にある道は私道のようだったので、もう少し先にあった車道を進んでみた。
かなり広い範囲が、畑になっていた。
車道の先には、工場のようなものが見えたので、それ以上は進まなかった。
正面は森林に覆われているが、そこは台地の端でその先は斜面になっているはずである。
たしかに、文章にあったように、手賀沼が一望でき、筑波山も見えたことだろう。
この地が、将門の王城の地であるということは、誰が決定したのだろうか。
このカンバンは、どなたが書いて、設置したのだろうか。
いったい、どんな意味合いのものだろうか。
カンバンはだいぶ古く、かなり傷んでいる。
今のところ、疑問だらけである。
板塀に、直接張り付けてあったようなので、あの邸宅の方が関係してるのかも知れない。
しかし、表札を確認することを忘れた。
これから、調べることが沢山ある。
何から、手をつけるべきだろうか。