これは、私の日本の歴史の勉強のための覚書です。調べたこと、考えたことを書きとめてます。 令制国というものに興味があって、気が向けば調べたりしています。
時代劇の映画やテレビドラマを観ていて、ずっと不思議に思っていたことがあった。
大名や旗本が登場するときの「名乗り」である。
「○□の守」とか「△◎の介」というやつである。
○□や△◎のところに、令制国名が入る。
どう考えても、その国名とはまったく関係なさそうな人物が名乗るのだ。
守は任地に赴任しない遙任が多く、介が実質的な長官だったらしい。
任地の国府にある国衙で勤務するべきものだったのだが、室町時代には国衙は消滅してしまったらしい。
鎌倉幕府が配置した地頭や、室町幕府が配置した守護が国司の権限を奪っていって、令制国は事実上崩壊したのだと思う。
令制国は、なくなってしまったのに、国司の任命は形式的に存続した。
国司は、朝廷が任命するものなので、国司職を求めて朝廷に献金をすることが行われた。
戦国時代には武将が勝手に国司を自称する、僭称というのもあったらしい。
織田信長は、上総守を自称していたらしいが、なぜ上総だったのだろうか。
上総国は、親王任国であり親王だけが任命されることになっていた三国の一つであり、格付けの高い国だったことからくるのだろうか。
私の郷里である秋田に関わる「秋田城介」を名乗るのを、何かのドラマで見た記憶があるのだが誰だったか思い出せない。
秋田国という令制国はないので、秋田城は出羽国の前線基地だったのだと思う。
だから、守ではなく介なのかも知れない。
秋田城介について、調べてみた。
鎌倉時代には、幕府の有力な御家人安達氏の一族が任命されている。
天正3年(1575年)には、織田信長の嫡男信忠が秋田城介に任命されているが、信長の全国統一のための戦略の一環だったのだろうとみられているということなので、「秋田城介」という職名が武家にとってそのような意味のあるものだったのだろう。
慶応3年(1867年)、王政復古の大号令が発せられた。
なんと、幕府の廃止だけではなく、摂関政治の廃止し、律令時代に戻すことになったのだ。
役所の名称は、律令時代にならって、「○○省」となり、役所の長は「卿」であり、次官は「大輔」、「小輔」である。
令制国制度についても、手直しが行われた。
明治元年(1869年)、戊辰戦争に敗戦した奥羽列藩同盟諸藩に対する処分として、陸奥(むつ)国を、磐城国、岩代国、陸前(りくぜん)国、陸中(りくちゅう)国、陸奥(りくおう)国の五国に、出羽国を、羽前国、羽後国の二国に分割した。
しかし、この時点で令制国は実態のないものであり、どうしてこれが処分になるか疑問である。
さらに、箱館戦争終結後に、和人地および蝦夷地に北海道11国を新設して、五畿七道から五畿八道となった。
令制国の国数は、それまでの66国から88国になった。
明治4年(1971年)、明治政府によって廃藩置県が行われた。
300近い藩が、中央管下の府と県に一元化された。
令制国は、そのほとんどが大小様々な藩に分割されていた。
藩は、そのまま県に置き換えられたので、300近くの県ができたのだ。
その後、統合、編入、境界変更などを繰り返して、明治9年位には3府35県と最小の府県数になる。
しかし、さまざまな問題から分割し、明治21年には現在の都道府県に近い3府43県1庁となっている。
また、通常は藩の城下町の名を県名としたが、必ずしも一律ではなく郡名を県名にされた場合もある。
そこで、戊辰戦争での「逆順」によって、県名の命名が政治的意思によってなされたもではないかという説が生まれる余地があった。
令制国自体は、法的に廃止されたり使用を禁止されたわけではないが、国司は任命されず実質的な意味を失っている。
しかし、現在でもさまざまなところで、令制国名は使われている。
市町村名や自動車のナンバープレート、鉄道の駅名、銀行名などの会社名など、使われている例は多い。
市町村名の場合は、茨城県常陸太田市と群馬県太田市のように、後から誕生した市町村が同名の市町村と区別できるように旧国名を使用している。
これからも、完全に消えることはないかもしれない。