晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

くめじのはし④ 菅江真澄テキスト

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久目路乃橋より 秋田県立図書館デジタルアーカイブ

十二日 よきみちづれのあれば、あはただしう松本を出たつ。

犬飼といふ村に到る。

 

「鳥の子はまだひなながら立ていぬかひのみゆるやすもりなるらん」

 

の歌は、束間にちかき浅間の温泉をもはらいふなれど、はた、ここにもありけり。

犀川の流は梓河におち入て水いとふかし。

この国より、むかし、弓おほく造りいだせるより梓てふ名も聞え、

 

「みすずかる信濃の真弓われひかばうま人さびていなといはんかも」

 

とは、久米禅師もよみ給ふとか。

かくて田沢村になりて、このむらをさ輩好がやをとへば、きりがきのめぐりに萩の盛なるを見つゝ、あるじ。

 

嬉しさよとひよる人のなさけをや待えて咲し萩の初花

といへるに返し。

 

秋はぎの初花よりも珍しな人の言葉の露の情は

 

十三日 けふは、あるじのとどめければ、おなじ宿にあり。

あるじの物語に、木曾河、阿都佐川、ひとつに落ながれあひては名を犀川といひけるを、今は木曾路川をも梓川とよび侍る。

むかしはこの犀川にて初鮭のいを三尾とりて、島館の宮に一尾

〔天詳--志摩多智てふ処は、いさごだの神社にて、いま三のみやといふ。むかしはそこまで鮭ののぼり来りしとか。さけのみやてふ名も聞えたり、いにしへは鮭のいと多かりけるにや。延喜式にも「楚割鮭一百二十隻」とぞありける〕

、此田沢の祠に一尾、穂高の社に一尾を贄にたいまつりてのちは、くにのかみにも奉りしなどかたらふをりしも、時習庵の主とひ来けり。

はいかいの連歌にその名聞えたる山海といひて、むかしの去来法師の、つるの、むまごなりけりとか。

去年の秋の頃姨捨山に友に月見しとき、相やどりしてしりたる人なれば、かたらひむつびて云、見べき処はこのおく山の藤橋、渡蟻落、水内滝、はた執田光の山里によひ火して、いづこにてもうかがへば、流よりも火もえつるところあり。

あぶらの泉もあるかたありなど話るに、夕くるれば、庭の面に白椛といふ木の皮を、いくらもまつにたきて、男女、をさなき童まで居ならび、すずすりならして遠つおやよりはじめ、なきたまをかぞヘ/\てをがみ、弥陀のねんぶちをとなふるほど、火もけちぬれば童手を叩て、

「なもさか如来、なもさかによらひ」

と唱えて、おどりぞせりける。

 

うなひ子がなきたまよばひふみしだく庭のちぐさの露けかりけり

 

十四日 ともよしが宿をたつに、光といふ処の舟も、此とし水にやぶれてわたさじといへば、熊村といふ処まで路しばし返りて、細萱村をへて、穂高のみやしろにぬさとりたいまつる。

このみたまは、瓊々杵尊をあがめまつり奉るといふ。

木だちたかきみやどころにて、四方は田面の穂なみ八束にしなひて、豊に見やらるる。

みてぐらのやの軒に、旅人の休らひて話るを聞ば、夏のころまでは、ひとますのよねを、もものあしに、いそぢあまりそへて(一五○文)かひたるを、いまは、ななそぢに、ひとますをぞかふなる。

又、たのみ、かくみのらば、猶世中いか斗よからん。

あなうれしともうれしとうたひ連れ、けぶり吹たてていぬ。

 

民草のいのるしるしをみしめ繩なびく穂高の田づらにぞしる

 

里さくれば穂高河あり。いくせもわたり/\くるは高瀬河とて、つねは波いと高けれど、此ころはあせきなど人のいへり。

 

岩そそぐ水音斗たかせ河あせて渡もやすくこそあれ

 

かたらひ来つれし友に、細野といふ村にてわかるるとき、

 

是も又糸によるてふものならで心細野の別路ぞうき

 

川会神社は、高瀬河のひんがしの、ささやかなる杜に鶏栖の見えたるをいへど、むかし、十日市場といひける村に此おましはありたりけるを、水のためにほくらおしながされて、いまはここにそのまますへて、あがめまつるといふ

鶏放が嶽とて、いや高き山みゆ。

是なん有明山とぞいふめる。

山のあなたは中房とて、よき温泉わきつるあり。

はた久曾の湯とて高瀬河の水上にもありといふ。

〔天註--久曾の湯は葛の湯にやあらん。俚人、葛かつらをさしてクゾかつらといふ。はた万葉集に、「葛英の木にはひおほとれる屎かつらたゆることなくみやつかへせん」ともあれば、いがかやさだめん〕

 

「やよやなけあり明山の時鳥声おしむべき月のかげかは」

 

と、行家のながめ給ひし。

姨捨の山の近きに、あり明の峰てふ名も聞え、

 

「科埜なる有明山を西に見てこゝろ細野の路を行かな」

 

とは、西行上人のよみ給ふとも、亦上杉憲実の、かんつけより、越のうしろ国におもむかせける頃、細野にての歌也ともいへり。

〔天註-‐憲清と憲実とあやまれるにや。憲実、安房守に任して上野、越後、伊豆の国を領し持氏の臣たりしが、持氏の京都にそむくをりしも、よしのりの下知にて、のりさねを大将として持氏をほろぼし、臣として君をうちしつみのがれがたしとて、出家して長棟と名のり、すぎやうし、西行のごと、国々見めぐりし人とか〕

安曇郡有明山に、むかし遊行上人よみ給ひし歌のありけるより、ためしとなりて、世々かはる/\゛松本のうまやにいたりたまへば、まづ、此山に歌ありけるよしを人のいへり。

ときの間に雲ふかうかかりて、鳥はなちがだけ見えず。

 

又も見んほどはいつともしら雲の月にさはらん有明の山

 

池田といふ郷に夕くれて宿つきぬ。

鶏鳴頃、さと風の音して夢もやぶれて、枕がみの板戸おしあくれば、鳥放がだけ、なごりなう、あか月の光におかしう見えたり。

 

はなちたる鶏はなけども月影もまだ有明の山ぞ夜ふかき

 

 

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