晴耕雨読    趣味と生活の覚書

  1953年秋田県生まれ。趣味は、山、本、音楽、PC、その他。硬化しつつある頭を柔軟にすべく、思いつくことをなんでも書いています。あわせて、江戸時代後期の紀行家菅江真澄の原文テキストを載せていきます。

国名について調べてみた11 柏市における村について

これは、私の日本の歴史の勉強のための覚書です。調べたこと、考えたことを書きとめてます。 令制国というものに興味があって、気が向けば調べたりしています。

 

先日、図書館について調べていて、柏市松戸市の図書館数が多い、ということに気がついた。

柏市が18館、松戸市が22館だったが、もちろん近隣の流山市野田市我孫子市鎌ヶ谷市に比べて、柏市松戸市の人口は2倍からそれ以上あるので、簡単に館数を比べることはできない。

柏市について言えば、本館、こども図書館の他に、田中、南部、永楽台、光ヶ丘、高田、新田原、藤心、高柳、豊四季台、西原、布施、増尾、新富、根戸、松葉、沼南の分館がある。

地理的なバランスを考えて、それぞれの地域の中心となるところに配置してあるのだと思う。

現在の柏市は、幾度もの町村合併を経て、出来上がってきている。

そういう歴史が、これらの図書館の配置にも現れている。

 

律令制下で、地方には国が置かれ、その下に郡、さらにその下に里が置かれた。

すぐに、里は郷に改められ、その下に二、三の里を置いた。

郡には、郡衙が置かれかつての国造などの地方の有力豪族が郡司に任命され、地方行政の末端の機能を果たした。

郷には、郷の責任者として郷長が置かれたが、後にそれに代わるものとして郷司が郡司の指揮下で行政を行なった。

郷は、戸という家族集団の集まりであり、「人」の支配のために設けられたものである。

正倉院の記録には、柏近隣では唯一「大井郷」の記録が残されている。

「大井」という地名は今も残っているが、この頃の「大井郷」はどの程度の区域で、どれくらいの戸数で、何人ぐらいいたのだろうか。

 

しかし、国司の権限が大幅に強化されるにつれて、郡司の権限は縮小され郡衙は衰退していく。

それに代わって、百姓の自治的・地縁的組織である惣村が現れてくる。

それまでの、耕地と住宅が一体となった状況から、耕地と住宅が分離して住宅同士が集合する集落となっていったようだ。

それは、水利配分、水路・道路の修築などで結束を深め、境界紛争、戦乱・盗賊からの自衛のためでもあったのだろう。

江戸時代には、惣村は全国に6万ほどあったと言われる。

 

明治11年(1878年)の「郡区町村編制法」により、明治5年の「大区小区制」の手直しを行った。

地方には、郡、区、町、村を置いた。

郡と区には、官選の郡長と区長を置き、役所は郡役所とした。

律令以来の郡衙が、復活したわけである。

区は、三府・五港・人口密集地・交通の要所に置かれた。

町と村には、民選の戸長が置かれ、役場は戸長役場と呼ばれた。

この時点で、千葉県葛飾郡だった区域をもって東葛飾郡が発足し、郡役所は松戸町に設けられた。

現在の船橋市市川市浦安市の区域も東葛飾郡であり、我孫子市柏市の旧沼南町の区域及び旧我孫子市の区域は南相馬郡だった。

 

明治21年(1888年)に、「市制町村制」が交付され、翌年実施された。

これによって、それまでの江戸時代の惣村の流れを汲む村々は、整理統合されて9町28村になった。

統合前は、どれくらいの町村があったのだろうと気になってしまったので、数えてみた。

私の数えたところでは、256町村だった。

東葛飾郡という一つの郡だけで、その数になるのだから全国では6万になるかもしれない。

町制の9町は、次のとおりである。

行徳町、船橋町、八幡町、市川町、松戸町、小金町、流山町、野田町、関宿町である。

これを見ると、交通の要所にあったところが町制を敷いていて、人口も多かったのだろうと思われる。

 

現在の柏市は、この町村制実施で成立した六つの村から成り立っている。

東葛飾郡 田中村、千代田村、土村、豊四季村、十余二村。

南相馬郡 手賀村、風早村。

それらの村は、多くの村が合併してできている。

田中村 ←  若柴村、花野井村、大室村、正連寺村、小青田村、船戸村、▲大青田村、△青田新田、△下三ヶ尾村、△上三ヶ尾村、△西三ヶ尾村

千代田村 ←  柏村、戸張村、篠籠田村、松ヶ崎村、高田村、柏堀之内新田[字一番割水神前を除く]、柏中村下、戸張村新田、高柳村、南相馬郡呼塚新田[字落合]

土村 ←  増尾村、藤心村、逆井村、名戸ヶ谷村、今谷新田、根木内村、小金上町新田、酒井根村、中新宿村、塚崎新田

豊四季村と十余二村は、明治になって入植によって成立した村であり、それぞれ4番目と12番目を意味し、単独村制をとった。

手賀村 ←  泉村、若白毛村、岩井村、鷲ノ谷村、金山村、柳戸村、片山村、手賀村、布瀬村、印旛郡泉村新田、岩井村新田、鷲野谷新田、片山村新田、手賀村新田、布瀬村新田、染井入新田

風早村 ←  塚崎村、大井村、大島田村、箕輪村、五条谷村、高柳村、藤ヶ谷村、藤ヶ谷新田、印旛郡大井村新田、箕輪村新田

この合併によって、旧村名は、新村名の大字となった。

柏村は、千代田村柏となり、増尾村は、土村増尾ということになった。

この大字は、今どれくらい残っているだろうか。

 

大正3年(1914年)、千代田村と豊四季村が合併して「千代田村」となり、田中村と十余二村が合併して「田中村」となっている。

大正15年(1926年)、千代田村は町制実施し、「柏町」に改称する。

昭和29年(1954年)、田中村、柏町、土村、小金町が合併し、「東葛市」となる。

しかし、すぐに旧小金町は「根木内地区」だけを残して、松戸町に移管してしまう。

富勢村が、我孫子町に久寺家および布施・根戸根戸新田・呼塚新田の各一部が編入し、それ以外の地域は、「東葛市」に編入した。

そしてすぐに、「柏市」に改称する。

その年の9月1日に「東葛市」が発足し、11月15日に「柏市」に改称しているが、なんとあわただしい年だったのだろう。

 

今回、思いつくままに柏市の村々について調べてみた。

このあたりは、江戸時代はほとんどが、旗本領・幕府領だったので、かなり記録が残っているらしい。

柏市史」を読んでいたら、村々の戸数や人口、そして職業などの記録が残っているのを見たことがある。

その時に、わずか二十数戸の村に、料理屋があって驚いた記憶がある。

それをよく読めば、暮らしぶりもよくわかるだろう。

柏市だけではなく、この東葛飾には古代の遺跡が多く残っている。

縄文海進というのがあって、今よりも数十メートル海面が高かった時代もあったということだから、遺跡を残した人たちの生活が、この地でどういうふうに続いてきたのかについてはとても興味がある。

図書館には、「柏市史」の別館の資料集や埋蔵遺跡の記録集などもあったので、調べるべきものはいっぱいありそうだ。

次は、それをやってみよう。

 

 

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