何ヶ月か前に、「図書館ウォーキング」というのを思いついた。
図書館に行くのに、車で行かずに、歩いて行くのだ。
読書と運動の両方ができて、こんなに都合のいいことはない。
その時に、近隣の図書館までの距離を調べてみた。
こんな感じだった。
千葉県立西部図書館 5.00km
流山市立木の図書館 2.63km
流山市立中央図書館 7.63km
柏市立図書館本館 5.05km
我孫子市立図書館本館 8.05km
鎌ヶ谷市立図書館本館 8.31km
松戸市立図書館本館 8.87km
だいたいが、1時間から2時間で行ける行程である。
最後の松戸市立図書館本館を除いては、すべて制覇した。
そこで、今回は松戸市立図書館本館を目的地にした。
自宅から図書館まで歩くとすると、国道6号線を歩くことになるが、それでは面白くないので旧水戸街道を歩くことにする。
8.87kmということだが、旧水戸街道は国道から外れたりするので、これよりも距離は多くなるだろう。
10km以上になるだろうから、2時間半くらいはかかるだろう。
地図では、国道6号線が水戸街道と表示されていてJR常磐線と並行しているが、駅でいうと、南柏駅、北小金駅、新松戸駅、馬橋駅、北松戸駅、松戸駅ということになる。
水戸街道は、江戸時代に江戸と水戸藩の城下町水戸を結ぶ脇往還として整備され、20の宿場が置かれた。
江戸を出て、最初の宿場が「千住宿」(足立区)、そして「新宿」(葛飾区)、江戸川を渡って、松戸宿(松戸市)、小金宿(松戸市)、我孫子宿(我孫子市)であり、そこで利根川を渡り、常陸国の取手宿(取手市)となる。
新宿は、当初「あらじゅく」と呼ばれていたが、現在は「にいじゅく」である。
自宅を出て、旧水戸街道に最も近い方向に向かう。
麗澤大学の正門を通り過ぎる。
麗澤大学は、学生数も少なくこじんまりした大学なので、息子たちが小学生の頃は、学園祭によく来た。
留学生が多いので、いろんな国の料理の店がでていた記憶がある。
近隣の小学生たちは大事なお客さんだったようだ。
先日テレビドラマを観ていたら、ここのキャンパスでロケしたらしい場面が映っていた。
中新宿の交差点で、左に曲がると、すぐに「行念寺」という浄土宗の寺が街道に面してある。
室町後期、明応2年(1492年)開基となっている。
ここから、柏方向に300mほど戻ったところに、一里塚があって「香取神社」も街道沿いにあったはずである。
「中新宿」という集落は江戸時代にはあったようなのだが、街道沿いにあるので宿場と関係する名前のようなのだが、調べてもよくわからない。
宿場と宿場の間に、公式ではない「間の宿」(あいのしゅく)という休憩所があったらしいのだが、それにしては、小金宿からは近いし、我孫子宿からは遠すぎる気がする。
松戸宿と小金宿の間には、間の宿として「馬橋宿」がある。
行念寺から小金宿に向かうと、道は右にカーブしながら下りになって、正面に緑の山が見えてくる。
「根木内城址」で、今は「根木内歴史公園」となっている。
根木内城は、室町時代中期から戦国時代にこの辺りを支配していた「高城氏」の居城で、その後「小金城」を築いて移ったといわれる。
かなり大きな城だった根木内城址は、国道6号によって分断され、その北西部は住宅地化されて、完全に失われた。
交差点を渡り、小金宿に続く旧街道のなだらかな登り坂を行く。
それまで、西に向かっていた街道は、八坂神社跡の石碑のある所で、南方に屈曲する。
八坂神社の跡地は、デパートが建っている。
屈曲点を北方に向かうと、JR北小金駅があり、その先に「本土寺」への参道がある。
本土寺は、文永年(1269年)を起源とする日蓮宗の本山である。
私が、近くに住んでいた頃は、「北のあじさい寺」と言われて、にぎわっていた。
「千葉氏」や「高城氏」の保護を受け、「本土寺過去帳」はこの地域の歴史を知るうえで、貴重な資料となっている。
旧水戸街道は、屈曲点を南下している。
小金宿の看板の下の説明板によれば、水戸の徳川家は常府とされて参勤交代の義務がなく、常に江戸に住むことができたが、必要に応じて水戸に帰った。
その際には、最初の宿泊が小金宿となっていて、専用の旅館が置かれたとある。
街道を南下していくと、浄土宗の東漸寺がある。
ここは、江戸時代に関東18檀林という浄土宗学問所の一つとされた名刹である。
境内は、しだれ桜や鶴亀の松、参道の梅やあじさい・もみじなど、四季折々の自然を楽しむことができる。
境内をのぞくと、あざやかな紅葉が見えたので、お参りすることにする。
山門が三つほどあって、やっと本堂である。
この近隣の寺院には、境内には幼稚園を併設していることが多い。
ここにも、幼稚園が本堂の隣の敷地にあった。
ウィキペディアの記事によると、東漸寺の敷地で行われていた寺子屋が、のちに小金小学校になったとある。
そして、昭和38年に、寺子屋教育の再現を目指して東漸寺幼稚園を開設した。
さらに、街道を進むと「玉屋」という江戸時代末期の旅籠がある。
内部は民家として使用されていて、立ち入ることはできない。
水戸家の旅館は、小金御殿と呼ばれ、日暮玄蕃という留守居役が世襲していたが、明治維新後、旅館を拝領した。
その後、旅館は郵便局となり、さらに郵便局は移転し、郵便ポストがあるだけである。
小金御殿を偲ぶものは残っていない。