天明4年9月10日に越後を出発し、鼠ヶ関を越えて出羽庄内に入り、鶴岡を経て羽黒山に詣でる。
最上川を降り、酒田、吹浦、さらに、9月25日に由利郡で象潟を見学している。
そのあと、本荘、矢島、西馬音内を過ぎ、10月10日には、佐竹藩の雄勝郡に入り、湯沢で越年するまでの記録である。
湯沢の柳田村では、草彅家に逗留している。
文章を読んだ限りでは、泊めてくれるようにお爺さんにお願いしたら、雪が消えるまでいるといいよ、と言われたようである。
「御物川〔おもの川といふ〕を渡りて柳田村といふ、さゝやのやのみ多くならびたるに入て、草彅〔いにしへ源よしいゑ公いで羽の国に入給ふのとき、弓もて、のもせの草のつゆなぎはらひしとて、くさなぎと呼給ひしとなん〕なにがしといふ、なさけある翁に宿こへば、雪消なんまでこゝにあれなど、ねもごろにいひてけるをたのみて、けふは暮たり。」
天明2年2月に、郷里の三河を旅立った菅江真澄の旅は、「いなのなかみち」、「わがこゝろ」、「すわのうみ」、「くめじのはし」と続き、この「あきたのかりね」で、五作目となる。
菅江真澄全集では、30ページほどのボリュームであり、このブログで9回の投稿の予定である。
湯沢に滞在中に、積雪があり雪の中の生活や、子どもたちの遊びの様子を、真澄はこまやかに観察している。
しかし、残念なことにこの作品の中に図絵は全くない。
旅の途中に、スケッチをまったくしなかったとは思えないので、どうしたことだろうか。
この作品の原本は、大館市立図書館の蔵書となっている。
真澄は、晩年にほとんどの著作を、秋田藩の藩校明徳館に寄贈した。
それらの著作は、現在秋田県立図書館の蔵書となっている。
真澄が亡くなった時に、その書斎にあった著作は墓碑建立に協力した方々に片見分けされ、分散した。
明治になって、元秋田藩士の真崎勇助氏が、それらの著作を収集した。
現在は、大館市立図書館の「真崎文庫」となっている。
この著作は、次の文章で終わっている。
「故郷を思へば二百余里をへて、玉くしげふたとせ、旅に、としをむかふならん。」