これは、私の日本の歴史の勉強のための覚書です。調べたこと、考えたことを書きとめてます。 令制国というものに興味があって、気が向けば調べたりしています。
青森県、岩手県、宮城県、秋田県、山形県、福島県の6県からなる東北地方であるが、明治維新までは陸奥国と出羽国の2国だけだった。
1869年(明治元年)、明治政府との戊辰戦争に敗れた奥羽越列藩同盟諸国に対する処分として、出羽国と陸奥国の分割が行われた。
出羽国が、羽前国と羽後国の2国に、陸奥国は磐城国、岩代国、陸前国、陸中国、陸奥国の5国になった。
いずれも、1000年以上の間そのままで置かれていたのである。
翌年、箱館戦争の終結後には、和人地および蝦夷地(北州)に、北海道11国が新設され、五畿八道となった。
奥羽越列藩同盟諸国というのは、奥羽諸藩が新政府によって「朝敵」とされた会津藩と庄内藩の赦免嘆願のための同盟だったが、それが拒絶されたために新政府に対抗する軍事同盟に変貌したものである。
戦いは東北戦争ともいわれるが、同盟の中心だった会津と仙台の降伏によって数ヶ月で終わっている。
久保田(秋田)藩は、同藩出身の国学者平田篤胤の影響で尊王論が強く、列藩同盟か朝廷かで藩論が二分されたが、結局新政府側につき、列藩同盟から脱落した。
南部から仙台藩と庄内藩に攻められ横手城を陥落させられ、久保田城に迫った。
また、北部からは盛岡藩が侵入し、大館城を攻略したが、新政府側の援軍により、藩境まで押し返している。
新政府は、旧幕府や戊辰戦争で敵対した諸藩の領地を接収し直轄地としていたが、明治2年(1969)年、版籍奉還によって、全国の藩が所有していた土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還させた。
これによって、藩主は非世襲の知藩事に任命され、その家禄は藩全体の収入の1/10とされた。
さらに、明治4年(1971年)の廃藩置県によって、300弱の藩を廃止して国直轄の県とし、知藩事は東京居住が強制された。
その後、県の統廃合が進められ、第1次府県統合で3府72県となり、第2次府県統合では3府35県となった。
しかし、過度の統合により面積が広すぎるために、地域間の対立などがあり、分割が進められ、明治22年(1989年)には、3府42県で落ち着いた。
廃藩置県の頃の、東北地方の状況は次のとおりである。
磐城国 角田県、中村県、磐城平県、湯長谷県、泉県、三春県、棚倉県、白河県
陸中国 盛岡県、一関県、江刺県、胆沢県
この7国が、6県に落ち着く。
令制国名の後に、県名と県庁所在地、そして令制国内の主要な藩名とその所在地である。
これを見ていると、かつての藩名と現在の県名が一致しているのは秋田藩、秋田県だけである。
秋田藩は、列藩同盟から最も早い時期に離れて、新政府側になっている。
もしかすると、これは幕府側に立って新政府に対抗した諸藩に対して、藩名を県名に反映させないという処置だったのかという気がした。
同じようなことを考えた人はいるもので、明治時代のジャーナリスト宮武外骨氏が著書の中で「賞罰的県名説」を述べた。
現在ではこの説は、例外もあり根拠のないものとされてるようである。
宮城県と岩手県について言えば、廃藩置県当初に、それぞれ仙台県と盛岡県が発足している。
しかし、明治5年の第1次府県統合の際に、県名を変更していて、これは他の小県と統合するための考慮と考えられる。
青森県は、弘前県と元南部地域の小県と合併し、県庁所在地は青森市に移転した。
福島県は、旧会津藩の若松県と中通の福島県と浜通りの磐前県が合併し、県庁所在地は福島市となった。
山形県は、主要な藩であった庄内藩の鶴岡市や米沢藩の米沢市ではなく、山形市が県庁所在地になっている。
このように、東北各県の成立の事情は異なっているので、一概に「賞罰的」ということはできない。
廃藩置県に遡って行われた出羽国と陸奥国の分割によってできた令制国が、福島県を除けば、その後の県域とほぼ一致しているのはたしかである。